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閑話「外の手」

  

 その女は交易都市ヴァレスタの屋根の上から、街の人の流れを追っていた。


 街へ出入りする荷馬車は多く、朝から荷と声が絶えない。ここは交易都市らしい雑多さだった。

 人に紛れるには都合がいい場所だ。


 女は砂色の上衣に紺色のズボンで、同じ色の外套を羽織っていた。

 白の傍に控える時とは、髪の結い方も歩幅も違う。目立たず、残さず、必要なら明日の朝には別人になれる。

 それが神聖国セラフィスの『外の手』だった。


 『黒』が表に出た。

 だから、白は動く。


 女にとってその理屈は、教えというより反射的な行動に近かった。

 白のために遠くの街へ出ることも、名前を捨てることも、汚れ役を引き受けることも――少しも惜しくない。


 最も避けたいのは、白の目が自分以外の他に向くことだ。


 最初に届いたのは、鍛冶場の街リンドリウムの焼け跡とそこに残った黒の痕跡。

 次に拾ったのは、交易都市ヴァレスタへ入った若い二人組と、その周りにギルドや商人が絡んでいるという話だった。


 それだけなら珍しくもない。

 だが、女にはそれで足りた。


 例の二人組が宿を探して街を歩いていた日、女はその通りを斜めに見下ろせる屋根の影へ身を沈めていた。


 乾いた瓦は熱を少し残している。

 そこからなら、流れる人波の切れ目も、店先で足を止める癖も、ふと後ろを気にする首の動きさえ拾えた。


 だが、その通りには別の目が三つあった。


 ある商人は品を見る手を止めずに二人の位置を視界から外さない。

 紙束を抱えた女は通りの向こうで足を緩め、見失わない距離を保っている。

 肉屋の軒先にいる冒険者らしき男は、串を齧りながら二人を何気ない顔で見ていた。


 粗い。隠す気がない。

 女はそこで初めて、少年の横顔をきちんと見た。


 目立つ顔ではない。

 だが、黒髪と黒眼という見た目で見れば、この街では浮いていた。


 少年は力を抜いて歩いているように見えて、警戒だけは怠らない。追われることに慣れている者の歩き方だった。


 その首が、ふいに振り返った。


 女は瞬時に影へと体を忍ばせる。

 少年の視線はこちらの屋根のあたりを探っていたが、それ以上は伸びてこなかった。


 確信ではない。

 何か視線を感じた。それだけの反応。

 だが、『外の手』の気配にそこまで寄れるなら十分だった。


 勘がかなり鋭い。

 それだけでも、白へ上げる報告の重みは増す。


 それから先、女はヴァレスタで彼らを見張っていた。少年が再度こちらの気配を拾ったのは、東門付近でのことだった。


 鳥系の魔物、グリーンビークを狩った帰り道。

 東門の内側は、外の倉庫地帯へ下る坂の起点になっている。門の脇では倒した魔物が焼かれ、その焦げた匂いが風に押されて流れていた。


 女は門寄りの積荷の近くにいた。商人、荷馬車、門番への声かけが途切れない。そのざわめきに混じれば、姿を隠すのは容易い。


 そんな中、ふと少年が顔を上げた。


 最初の時より深く、確信を帯びていた。

 女は荷の影へ重心を寄せたまま、その様子を見る。


 この数日の観察だけで、少年が『黒』を持つことはほぼ間違いない。だが、白と同じようには神と繋がっていない。


 白は言う。

 祈りでも、夢でも、息の乱れでも、神の側から触れてくる時がある。

 それは紋章の位階が上がるほど、はっきりしていく。応じられた者には、言葉の意味が情景みたいに細かく浮かぶという。


 女はその言葉を疑ったことがない。

 白の声が近い時だけ、胸の奥が熱を持つ。

 その熱に逆らえない自分を、もう何度も知っていたからだ。

 あの方が何を嫌い、何を遠ざけたいのかを、自分のことみたいに先に考えてしまう。そういう形でしか自分はできていないと、女は知っていた。


 だからこそ分かる。

 この少年には、それがまだ薄い。


 『黒』を持ちながら『黒』の向こう側と噛み合っていない。

 そういう静けさがある。


 だが、ごく稀に、その奥へ別の違和感が混じっていることも分かっていた。


 何かの名残りだろうか。

 ただ残っているだけではない。探ろうと意識を向けるほど、逆にこちらの輪郭を撫で返してくるような気配だった。


 見ているつもりで、見られている。

 こちらが探ったはずなのに、反対に暗がりの向こうから見られているような違和感だった。


 その視線は白とは違う。

 これは違う。見ようとした存在ごと、深い黒の奥へ沈められるような冷たさがあった。


 女はそこで初めて、目の前の少年ではなく、その奥にある『黒』そのものへ強い寒気を覚えた。


 それでも引かない。引けない。

 白の前へ届く利のある報告なら、自分がどのような結末になろうとも構わなかった。


 女は『外の手』だ。白のために命を賭す。

 今のまま見ているだけでは分かることは少ない。

 情報が足りないと悟った。


 女は人波の中へ足を踏み入れながら、報告書の中身を頭の中で書き換えた。


――『黒』の所持を確認。

――感知は二度。かなり鋭い察知能力。

――神との接続は薄いが、正体不明の違和感が残る。


 そして、最後の一文を書き変える。


――観察継続ではなく、接近の許可を請う、と。


 白が黒へ向いてしまう前に、こちらで対処する必要がある。


 その報告書に対する返答は早かった。

 封を切った文には、余計な言葉が一つもない。


――接近を許可する。

――対象の調査を優先せよ。


 女はその短い文を燃やし、灰が風で散るまで見ていた。



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