第32話
さきほどまで剣戟の音が満ちていた広場は、風が抜ける音だけの世界となっている。
リナは涙を拭っても拭っても追いつかない様子で、それでも何とか自分の足で立っていた。
イスカは剣先が溶けた細剣を下ろしたまま、力無く森の奥を見つめている。
僕はガイールの傍に膝をついた。
前に出て、敵が嫌がる角度へ斬り込み続けてくれた体が、今はぴくりとも動かない。
肩へ触れた手の下には、まだ人の重みが残っている。だが、その静かさだけが、どうしようもなく重かった。
誰も次の言葉を出せない。
バビルは逃げ、ガイールは死んだ。
その二つの事実だけが、広場に残った焼けた臭いより濃く、胸の奥に重りのようにのしかかってくる。
――その時だった。
「⋯⋯誰ですか。出てきてください」
イスカの声が低く張る。
崩れかけた倉庫の壁、その影の奥に人が立っていた。片腕で小さな身体を胸元へ抱え込み、もう片方の手が低く鈍く光る。
刃だ。
影からゆっくり出てきたのはサムだった。
「ちっ、ガキが泣きやがって気付かれたじゃないか」
ギルドの受付で見た時と同じ服のはずなのに、別人みたいだった。
あの精悍な顔つきは今は見る影もなくなっている。
汗で額に前髪が張りつき、焦点の合わない目がこちらを舐めるように見てくる。
片手で抱え込まれた子どもは見たことのない顔だった。助け出した三人のうちの誰でもない。少し幼い少女で、痩せた肩が震え、口元には乱暴に布を巻かれた跡が赤く残っている。
「⋯⋯四人目?」
リナの掠れた声に、サムが口の端だけで笑った。
「ああ、そうだ。三人見つけて終わった気になるなよ」
短刃が子どもの首筋へ寄る。薄く血が滲んだ。
「こういう時のために、一人くらいは別に置いとくもんだ」
子どもの喉が鳴る。
リナの金色の目が、サムの肩や肘、手首、刃先、それから子どもの首元まで順に拾っていた。イスカも低く構えたまま、目だけを細めて見極めようとしている。
「⋯⋯今すぐ放せ」
僕が言うと、サムは鼻で笑った。
「放すわけないだろおお! バビルは逃げた、東門も支部ももう終わりだ! だったら俺が助かるには、もうこれしかねえ!」
声が裏返る。腕の力だけが妙に強くなり、抱え込まれた子どもの肩が痛そうに跳ねた。
「そいつは三人とは値が違う。《鑑紋》だ。上が欲しがる。そんなのを手放すわけがねえだろ」
値。そう言った。
目の前にいるのはただ泣いているだけの子どもなのに、サムは最初から人として見ていない。
この男の本質は競り場と同じだ。
「泣くな。泣いても値は落ちねえ。どうせ檻へ入れりゃ静かになる」
その言い方だけで分かった。こいつはもう駄目だ。
人として超えてはならないところを平気で超えている。バビルと同じだ。
リナの呼吸が細くなる。だが、前へ飛び出さない。さっきとは違う。怒りは消えていないはずなのに、金色の目はまだ冷静に動いていた。
「⋯⋯アーテル」
僕は目だけで返す。
「刃は押してるだけ。気を引いた隙ならいける」
小さい声だった。
泣いた直後とは思えないほど、今は冷静だった。
僕はそっと黒鉄の小手に力を込める。
だが、その一瞬の動きに、サムが叫んだ。
「動くな! 今ここでこいつの喉を裂くぞ!」
刃が震える。
子どもを商品としてみている以上、あの子を殺す勇気があるわけじゃない。
だが、追い詰められた人間は何をするか分からないのも事実だった。
一瞬で敵を無力化するか、対話で納得させて刃を下ろさせるか。どうする。
サムは唾を飛ばしながら喚く。
「喉を切ればどんな紋だろうが終わりだ! 子どもだろうが俺にはもう失うものはない! 最後くらい――」
その時、森の奥で枝が大きく鳴った。
風向きが変わる。
サムの目が一瞬だけ上を向いた。
次の瞬間、倉庫の屋根を踏み切る重い音の後、頭上から巨大な影が叩きつけられた。
地面が爆ぜ、爆風のように粉塵が舞った。
――ドーレマン。
一瞬だった。
振り下ろされた拳が、サムごと地面を潰した。
サムが持っていた凶器は弾け飛び、土と石片が辺りへ吹き荒れている。
悲鳴も、言い訳も発する前に終わっていた。
その一撃の後には残ったのは、空気中に漂う紋滓だけだった。
人質にされていた子どもがその場へ崩れ落ちた。
イスカが真っ先に滑り込み、抱き寄せる。
「首元、傷は浅いです」
短く言い切る声に、ようやく息が戻った。
ドーレマンは残心のように拳をゆっくり引いた。
そこにあったのは、副支部長の顔じゃない。
拳ひとつで現場を勝ち抜いてきた男の顔だった。
「⋯⋯子どもを盾にした時点でお前は終わりだ、サム」
それだけ言って地面を見下ろす目は一度も揺れなかった。
その背後から、灯りが一気に増えてくる。
枯れ道の森の中から鎧の擦れる音と馬の蹄が重なった。
どうやらパルたちがドーレマンを早急にここへ呼んでくれていたらしい。そして、ドーレマンは警備隊を指揮していた。
先頭を走る男が息を切らせたまま叫ぶ。
「副支部長! 北の道、押さえました! 領主の命により、全隊の今の権限はあなたです。次はどうしましょうか」
ドーレマンは振り返りもせずに言った。
「各関所へ伝令を飛ばせ。逃げたやつは一人でも通すな。ここは押さえろ。怪我をしている者がいれば、先に医療院へ運べ」
命令が飛ぶ度に、警備隊がいくつもの小隊に分かれて散っていく。
足音が増え、鎧が鳴る。
夜明け前の街がようやく動き出していた。
ドーレマンはそこで初めて僕らの方を見た。
その視線が、地面に横たわるガイールへ落ちる。
一瞬だけ、動きが止まった。
ドーレマンはゆっくり近づき、膝をつく。
返事がないことも、胸元の狼紋が欠けていることも、一目で分かったはずだ。
だが、すぐには何も言わない。
拳を握り締めたまま、数秒だけ黙る。
それから、低く言った。
「⋯⋯遅くなった。すまなかった、ガイール」
短い声だった。
だが、その一言に間に合わなかった悔しさも、ここまで繋いだ相手への敬意も全てが入っていた。
「⋯⋯よくここまで持たせてくれた、感謝する」
その言葉に、リナの肩がまた震えた。
涙の跡が残る顔のまま、ガイールを見ている。
ドーレマンは立ち上がり、僕らへ向き直った。
いつもの副支部長の顔に戻っていたが、目の奥に残る硬さは消えていない。
「ここはギルドと街が受け持つ。お前らは戻って休め」
そこで言葉が一瞬止まる。
僕は首を振った。
「ガイールは僕たちで運びたい。ただ、荷馬車の手配だけ頼みたい」
ドーレマンは何も言わず、短く頷いた。
―――――
夜明け前の空が、ほんの少しだけ白み始めていた。
周囲の話によると、警備隊はヴァレスタの各門と関所の方にも展開されているらしい。
バビルだけじゃない。
この街に巣くっていた競り場の関係者。その逃げ道ごと潰していくための動きだ。
僕たちはドーレマンが手配してくれた荷馬車の脇に立っていた。
木板の上へガイールの亡骸をゆっくり寝かせる。腕を離した瞬間、さっきまでの重みが消えた。
軽くなったはずなのに、胸の奥は少しも軽くならなかった。
僕の頭にはガイールが残した言葉が残っていた。
死ぬ間際の「頼んだぞ」という言葉。
僕はガイールから教わったことを今後も忘れないように鍛錬していくことを誓う。そして、バビルを必ず倒すことも。
リナはその横でしばらく動けなかった。
涙の跡が乾ききらないまま、ガイールの胸元をじっと見つめている。
この惨状を決して忘れないために心へと刻んでいる。
やがて、その手がゆっくり鎖を握った。
今はもう言葉はいらない。
リナの目はしっかりとその先を見ていた。
第2章はこれで終わりになります。
3章以降はペースが少し落ちると思います。
何卒よろしくお願いします。
この後はエピローグと閑話がいくつかあります。
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