第31話
上級冒険者だけあって、ガイールは強かった。
今までは三対一でも決め切れなかった攻撃が、ガイールのおかげでバビルまで届くようになっている。
バビルは斬られた脇腹を押さえたまま、僕とリナとイスカ、それからガイールの顔を順に見ている。
「くそっ⋯⋯なぜお前がここにいる?」
「まだ喋る余裕、あるじゃねえか」
ガイールは相手にしない。
直剣を低く構えたまま、真正面ではなく、バビルが嫌がる角度へ向けて立っている。
その位置取りが答えだった。
正面で受けない。相手が一番振り抜きづらい線へ攻撃していく。
初めてのギルド任務のとき、ガイールが教えてくれた狼紋の得意とする戦い方だ。
《狼走》の踏み込みは速さだけじゃない。どこへ立てば、あるいはどこから攻撃すれば相手が嫌か、その答えを自身の体で探りながら動く。
狩りで相手を追い込む狼そのものだ。
バビルが斧を浮かせた。
低い位置から斜めに跳ね上げる動き。
触れたものだけではなく、その後ろまで焼き切る斬撃だ。
だが、リナの《解読》の目が先に走っていた。
「右に来る、引いて!」
それを聞いて僕が避けると、先ほどまで立っていた石畳がどろりと溶け落ちた。
バビルが口の端を歪めて言う。
「あぁ、邪魔だ邪魔だ。やっぱり、一人ずつやってやるしかねえかァ」
すでに僕は『黒』を使い過ぎていた。
体は疲労に苛まれ、動くたびに激しい頭痛に襲われている。
しかし、休む時間はない。
目の前では、先ほどから息継ぎができないほどの応酬が繰り広げられている。
自分は倒れてもいい。
《瞬纏》を最小にして、バビルの攻撃の最初の踏み込みを出させないように対処する。
リナは戦いの中で読んだものを一早く叫び、鎖は相手の斧の軌道をずらすためだけに絞って使っていた。
イスカはリナの読みから生まれた一瞬の隙を《閃舞》で貫き、ガイールはその反対側へ回って、相手が最も嫌がる角度から斬り込んでいく。
四人の声と金属音、何かが溶ける嫌な音が広場へ重なっていた。
さっきまでの戦いでは、バビルの斧の一振りごとに押し返されていたのに、今は違う。
完全に上回れているわけじゃない。
だが、ガイールが加わったことで、今まで届ききらなかった最後の一手が、ようやく形になり始めていた。
実際、バビルの動きにも変化が出ていた。
右腕、左脚、肩、脇腹、頬。傷はどれもそれほど深くはない。
しかし、確実に数は増えている。
それでもバビルの攻撃の重さはまだ健在だ。
ただ、少しずつ、わずかな鈍りが混じり始めていた。
バビルはそれを嫌がらない。
むしろ嬉しそうですらある。
その目が時々リナを見ていた。
競り場で逃げられた『解紋』だと、もう気づいているのだろう。
リナもそれに気づいていた。
だからこそ、踏みとどまっていた。
怒りで前に出れば終わると、今はもう分かっている。
――分かっている、はずだった。
バビルがふいに口の端を吊り上げた。
「⋯⋯おい、最初に親の仇とか言ってたなア?」
低い声だった。
だが、そこだけ妙に楽しそうだった。
「俺はいちいち顔なんざ覚えてねえよ。だが、娘の名前を呼びながら地面を這ってた男ならいたなァ。ああ、そうだ。首を落とす直前まで、お前の名前を喚いてたやつだ」
リナの呼吸が止まる。
バビルはそれを見て、さらに笑った。
「ひひひ、泣きながら手ぇ伸ばしてたぜ。助けてくれってか? 違うな。痛くて叫んでいたんだったか? あまりにうるせえから、最後は首を落として黙らせたがなア」
父の最後が、頭の中へ無理やり押し込まれる。
地面を這う姿。届かない手。
父の最期の姿に重なってしまった。
そのとき、リナはいつもより大きく一歩を踏み出していた。
鎖がより深く伸びる。
読むための鎖じゃない。
敵を捕まえて、自分の手で叩き潰すための、復讐の鎖だった。
「――リナ!」
僕とガイールの声が重なった――が、遅かった。
バビルはそのリナの一歩を待っていたかのように、斧を静かに沈めた。
大振りではない。ただし、爆発的に速い一撃。
狙いはリナの胸元――そのまま首筋までまとめて裂く軌道だった。
遅れて、イスカが《閃駆》で飛び込む。
僕も踏み込もうとしたが、そもそも気が付くのが遅すぎた。
だが、ガイールだけは違った。
リナを肩で突き飛ばす。
バビルの斧とリナの間へ自分の体を差し込んだ。
――瞬間、世界の色が一度抜けた気がした。
バビルの斧がガイールの胸元へ触れた瞬間、狼紋のある場所が弾けるみたいに崩れ、そのまま溶けて抉れていく。
血より先に、焼けたみたいな臭いがくる。
ガイールの身体が大きく揺れ、そして膝が落ちた。
「前に⋯⋯出過ぎ、だ⋯⋯リナ⋯⋯」
それだけ言って、地面へ崩れ落ちた。
「ガイール――――っ!!」
リナの声が裂ける。
僕は無我夢中で『黒』を連続で撃ち、イスカも細剣の技を差し込み、リナの鎖はバビルの斧へと噛みついた。
三人の攻撃が一度に入ったことで、さすがのバビルも後ろへ退く。
僕は倒れたガイールの肩を掴んで後ろへ引き、リナがその体へしがみついた。
胸元の傷はひどい。
今も血がどんどん噴き出して止まらない。
だが、それよりも心を締め付けたのは、ガイールの『狼紋』が本当に失われていっていることだった。
紋章の線がそこだけ世界から削られたみたいに消えていく。
同時に、紋滓が空気中に漂い始め、ゆっくりバビルの方へ吸い込まれていく。
「ま、待って! なんで⋯⋯!」
リナの手が何度も紋滓が飛んでいく宙を掻く。
ガイールは息を吸うたび、喉の奥で苦しそうな音を立てていた。それでも目だけは、まだリナを見ている。
リナの涙は止まらない。
嗚咽を噛み殺しながら、それでもガイールの手を握って離さない。
「やだ⋯⋯ガイール、死なないで⋯⋯お願い!」
ガイールの唇が、わずかに動く。
息が途切れそうになる。
それでも、一度だけ無理やり声を繋げた。
「負け、るな⋯⋯目で読んだ⋯⋯先へ、噛みつけ⋯⋯」
「うん⋯⋯うん⋯⋯」
リナが涙でぐしゃぐしゃの顔のまま何度も頷く。
「アー⋯⋯テル、あとは、頼んだぞ⋯⋯」
ガイールはそこで、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「⋯⋯泣くな、馬鹿⋯⋯」
その声は、もうほとんど息となっていた。
そして――――次の呼吸は、入らなかった。
「ガイール⋯⋯?」
返事はもうない。
リナの肩がそれを知って、細かく震えた。
だが、バビルは待ってくれなかった。
血を拭い、斧を肩へ乗せ直したまま、静かにこちらへ近づいてくる。
「ひひひ! いい面になったなア!! うまい紋章を喰えたぜ、それだけで今日はもう満足だアァ!」
「うるさい――ッ!」
リナがゆっくり立ち上がる。
涙は止まらない。頬を伝い、顎から落ちても、もう拭う間もない。
しかし、さっきみたいに飛び出そうとはしなかった。
金色の目が、バビルの全身を見ている。
表情はない。
怒りが消えたわけじゃない。
むしろ、さっきより深く、冷たく沈んでいる。
「鎖、来て」
呼んだ瞬間、落ちていた鎖がひとりでに浮き上がった。
石畳を擦りながらリナの手元へと戻ってくる。
僕はその横へ並び、朧差を握り直した。
右手首は痛みを通り越して、もう感覚がなかったが、今やらずしていつ力を使うのか。
イスカの細剣も刃が所々溶け、色も変わっていたが、まだ折れてはいない。イスカの心と同じだ。
バビルが斧をわずかに傾けて言う。
「⋯⋯来い。今度は全員溶かし切ってやるよォォオ!」
その瞬間、僕ら三人は同時に踏み込んだ。
最初の一振りは低かった。
バビルの斧が斜めに跳ね上がり、触れたものだけじゃなく、その後ろまでまとめて焼き切る軌道で走る。
だが、振りに入った瞬間、バビルの体の周りに揺れていた《溶圏》が消えた。
守りを解いて、攻めへ全部を乗せてきたのだ。
「右下、返しが来る!」
リナの声に合わせて、僕は一歩ずれる、
その軌道を、朧差に乗せた『黒穿』で撃ち抜く。
守りの膜が消えた間を抜き、バビルの肩口の外を深く貫いた。
激しく血が飛ぶ。
そこへリナの鎖が遅れて柄へ巻きつき、斧の戻りをほんの少しだけ外へ寝かせた。
いける。そう思った瞬間――
「アーテル、駄目! 追いすぎないで!」
「ひひひ⋯⋯そうか。そこまで見えるかア。やはりお前も使えるなア。まぁ今日は狼を喰えたからいいだろう」
低く言葉を漏らすと、バビルは一歩引いた。
逃げる気なのか?
だが、逃がすつもりはない。
その引き際を潰すつもりで僕が前へ出ようとすると、バビルは斧の刃先を地面へ突き刺した。
「熔地崩落――!」
「――下がって!」
イスカの声と同時に、足元の石畳が黒く濡れたみたいに変わり、次の瞬間には広く崩れ落ちた。
僕とリナは反射で跳び、イスカも身を切るように横へ抜けた。
その間に、バビルは森の中まで退いており、来たときに乗っていた六本脚の大きな馬のような魔獣へ飛び乗るところだった。
まだ追えば――届く距離だ。
リナが一歩前へ出る。
「待て!」
その肩を、今度は僕が掴む。
リナがそれを振りほどこうとしたが、途中で止まった。
金色の目がその先にある『死』を読み取ったのだろう。歯を食いしばったまま、リナはそこで踏みとどまった。
「私たちだけじゃ倒しきれない。⋯⋯悔しいよ、アーテル⋯⋯」
バビルは闇に溶け込んで消えて行った。
蹄の音が遠ざかっていく。
広場が急に静かになった。
さっきまでの騒がしさはなくなり、今は風が抜ける音だけが聴こえてくる。
リナの涙は止まらなかった。
自分が復讐に呑まれたせいだと思っているのだろう。
だが、元はといえば全ての元凶は競り場であり、あのバビルだ。
イスカが細剣を下ろす。
刃は溶けてまともに使える状態ではなくなってしまっている。
「⋯⋯すみません、逃げられました」
僕は首を振る。
「いや、追い詰めたんだ」
リナはガイールの傍に戻る。
膝をつき、その胸元の狼紋があった場所を見ている。
触れそうになって、触れられない。
指先が途中で止まる。
そこにあるのは、さっきまで確かに生きていた人の体なのに、今はもう動かない。
認めたくない。
リナの手は何度も迷っていたが、最後にはガイールの腕に触れた。
「ガイール⋯⋯あいつは私が倒すから。強くなって、ガイールとお父さんの仇を討つ。約束」
その決意の声はとても静かだった。




