第7話
僕は鉄格子越しに指先を伸ばす。リナも首輪の接合部へ震える手を近づけた。
中央に薄く光る刻印――『契印』が焼き付いている。
あれを消すには、印そのものを塗りつぶすしかない。そして、リナの力――《解紋》が噛み合わなければ、拘束自体は外れない。
息を大きく吸って、胸の黒痕へ意識を落とす。
少しずれればリナに当たってしまう。
距離は手が届かないくらいだが、垂直に落とすのではなく、平行に飛ばさなくてはない。
もし方向がずれたら――それだけは防がなくてはならない。
周囲の色が一瞬だけ薄くなる。橙色の光も、血の赤も、藁の茶も、全部が退色し、輪郭だけが残った。
色が失われた世界で、リナの首輪の契印だけが浮いて視えた。
――ここだ。
「――リナッ!」
黒を針先ほどの一点に集中させる。
落とすのではなく、点を撃つ。
《黒穿――ッ!》
契印の中心が、最初から無かったみたいに欠けた。
同時に、リナの指が接合部を解く。
音はなかった。
首輪そのものはリナの首に残ったままなのに、鉄格子へ繋がる拘束だけが、すっと抜け落ちているのが分かった。鎖の張りが消えた、と言った方が近い。
……うまく外れた。
その瞬間、リナの身体から力が一気に抜けた。
首輪が急にただの重りに変わったみたいに、頭と体がぐらりと倒れ、彼女はその場に崩れかける。
「――リナッ!!」
声を殺して呼びかけながら、反射的に手を伸ばすが、鉄格子越しには届かない。
『禁忌』『……反動、だ――』『危険』
淡々とした声が途切れて聞こえるが、意味は伝わってきた。今、落ちることは死に直結する。
リナの唇がわずかに動く。浅い呼吸の奥から、掠れた声が出た。
「……っ、だい……じょ……ぶ……」
強がりでもいい。意識がまだ繋がっている。それだけでいい。
ただ、僕の方もすでに限界が近かった。
足首と手首で二回、そして先ほどの首輪の印に向けて一撃――計三回。
一回ずつの間隔は空いているとはいえ、今の僕にとってはかなりの負担だ。
視界の端が暗くなってきた。頭の芯がふわふわして、足の裏の接地感が薄い。
それでも、止まれない。
首輪は解除できた。次は――檻から出なくては逃げられない。
僕は自分の檻の扉へ視線を落とした。鍵穴。留め金。芯。ひとつずつの構成部品へ注目する。
謎の男が投げ込んできた藁の中――鍵へ手が伸びかける衝動を抑える。あれは餌だ。助けじゃない。
あの鍵を使わずに檻を開けなくてはならない。どうする――決まってる。
息をもう一度大きく吸う。
世界がまた薄くなる。鍵穴の周囲が、紙みたいに平たく見えた。
『黒』を針先ほどの一点に落とす。
――《黒穿》
檻の留め金の芯が弾けた。
扉がほんの数ミリ浮く。わずかだが、鍵は確かに壊れている。首輪の契印に向かって撃ってから、ほぼ時間を置かずに連続行使。
さすがに頭がぐらりと倒れかかる。
吐き気がせり上がり、膝は折れかけ、鉄格子に肩をぶつけて音が出そうになるが、何とか唇を噛んで抑える。
喉の奥が熱い。目の前が白く弾ける。
それでも、意識を手放すことだけは我慢する。
『――耐えた……か』『面白い』
優しさじゃない。事実の通告。
音が鳴らないよう、檻を静かに押して影の中へ滑り込んだ。
すぐにリナの檻の方へ近寄り、施錠箇所を見る。
その視界にまた藁束が入る。薄く光る鍵――さっき自分の檻に投げ込まれたものと同じもの。
――誘導? 拾えば檻は開くのか?
そう思った瞬間。
通路の奥から乾いた足音が近づいてきた。金属が触れ合う、鈴のような音を響かせながら。
あの音は、見張りが持っている檻の鍵束が揺れる音だ。
影が壁に伝って大きく伸びる。その影が揺れるたび、角を曲がる距離が縮むのが分かるようだ。
僕はリナの檻の鍵穴へ視線を戻し、留め金を見る。
一点、今ならそこだけを穿てば、開くはず――だが、胸の奥が警告を鳴らす。
鍵束の音がもうこの通路のすぐ傍から発しているんじゃないかと思うくらい、近い。
死ぬものか。ここで終わるものか。
まだ復讐のスタートにすら、立てていないんだ。
この逃亡劇に余裕なんて、最初からない。僕は息を大きく吸って、再度、自身の黒紋へ意識を落とす。
『黒』が熱を帯び、鼓動がそのまま痛みに変わる。
世界が薄く、モノクロになった。全部が退色して輪郭になったとき、檻の鍵の色だけが浮く。
――ここだ。
力の根源を、針先ほどに絞る。
ぶれる。視界が揺れる。吐き気が喉までせり上がる。
《黒穿》――ッ!!
金属製の留め具の芯が弾けた。
力をうまくコントロールできなかったが、何とか鍵穴の奥が切断され、留め金が外れた。
だが――音が少し大きかった。
「……ん?」
すぐ傍の通路の奥で、見張りの音が止まる。
足音が一拍だけ消える。
僕の方は続けて力を使用したせいで、自分の体が崩れそうになるのを、必死に音を立てないよう踏ん張る。これ以上音を鳴らしたら、こちらに来る。
頭の中が白く弾け、視界が左右にずれる。
鼻の奥が熱くなり、鉄臭い液体が喉へと流れ落ちてくる。
――血。いや、それよりも今は――リナだ。
留め金が外れた扉を指一本分だけ押し開くと、僕は檻の中へ手を伸ばし、リナの腕を掴んだ。
「リナ、行くぞ……!」
小声で呼ぶと、倒れているリナの長いまつ毛が震えた。瞳がうっすら開くが、焦点が合わない。意識が落ちかけている。
「……っ……」
息だけの返事。
禁忌覚醒のせいなのか、先ほどの力の行使なのか、ぎりぎりで意識を保っている。今踏み外すとリナは戻ってこれない――そんな気がした。
僕は彼女の首から首輪を外し、肩を抱えて檻の外へ連れ出した。音は出ていないはずだ。
だが、見張りの足音がまた動き出した。今度は速い。警戒している歩幅。
見張りが持つ光が角の向こうで揺れている。
――来る。
僕はリナを抱き抱えたまま、すぐ横の檻の陰へ体を滑り込ませた。
鉄格子の影が顔を切る。自分の呼吸音が、やけに大きく聞こえてくる。
見張りの鎧の擦れる音。それがすぐ傍まで来たとき――。
「お、何かあったか?」
おそらく近くでさぼっていたような、だるそうな声。
「……今、こっちで音がしなかったか?」
「いいや、鼠だろ。腐るほどいる」
僕の靴先の数十センチ先まで照らした。
リナの肩が震え、僕の腕の中で小さく跳ねる。僕は腕に力を込めて息を殺す。
心臓の音だけが早鐘のように耳を叩いてくる。
見張りが一歩、近づく。
見つかる。
そう思った瞬間、見張りは踵を返した。
「おまえ寝てただろ。ったく、明日に向けてしっかりしとけよ。また怒られんぞ」
「ばれてたか。まあ何にも起きやしねえよ」
足音が遠ざかる。鍵束の音も遠のく。
肺が、息を思い出したかのように動き出した。
僕はリナの耳元に口を寄せる。
「何とか助かったみたいだ。……今のうちに行こう。リナ、立てそう?」
リナの唇が微かに動く。頷こうとして――そのまま、僕の腕の中に沈みかけた。
すぐに彼女を抱き直して、体ごと持ち上げる。
僕の体はもう限界だが、逃げるために無理やり動かす。
僕は藁束の中の鍵へ、もう一度だけ視線を向けた。
拾う。拾わない。――どっちでも、誰かの思惑の上だ。
だが今は、どんな思惑があろうが先へ進まなくてはいけない。
光の届かない影から影へ、音に注意しながら進む。
ここから先は追われる。修羅の道だ。




