第13話
風がもう一度吹き抜けた。
今度は石壁の隙間で鳴った音が少し長い。耳の奥に妙に残る音だ。
僕は無意識に、鞄の中の小手が入った位置へ指をやった。
腰には朧差がある。何かあると決まったわけじゃない。それでも手が勝手にそこへ向かうような異質さ。
リナが急に左を見た。
「……あれ?」
さっきまで入口付近でしゃがんでいたパーティの姿が消えていた。
帰ったにしては動きが早すぎる。
ほんの少し前まで、革袋を揺らして話していたのが見えていた。なのに、一瞬で草の向こうにも、低い壁の影にも、人の気配がなくなっていた。
「見えなくなっただけか?」
「違う」
リナは首を振る。金の差した目が迷宮の入口の右寄りのところを線で追っていく。
「消えたんじゃない。位置を外された」
「外された?」
「右側の大石の並びに寄せられてる。まっすぐ歩いたように見えて、途中で空間ごとずれてるみたい」
その時、入口のすぐ脇に、口の開いた革袋が一つ落ちているのが見えた。
中から錆びた金属のような物体がこぼれ、土の上に散乱していた。さらにその少し先には、靴底が滑ったみたいな乱れた跡が残っている。
今度は別の音が、奥から聞こえてきた。
戦いの音だ。
「どの辺りか、分かりそう?」
「うん。今ならぎりぎり追えると思う。でも、もう少しずれたら……見失う」
ギルドへ引き返して応援を呼ぶ――その考えが一瞬頭をよぎった。
けれど、もたもたしていると、今いなくなったパーティを永久に見つけられなくなるかもしれない。
今この時点で、リナの《解読》でさえ見失いそうならば、時間との勝負だろう。
しかし、自分たちのリスクを考えるならば――ミイラ取りがミイラになるというやつだ。……どうする。
「アーテル。助けられるかもしれない。だからお願い。見つけたらすぐ戻るから」
「……わかった」
そうだ。
助けられるかもしれない人を、放っておくことはできない。
リナにとっても、そのラインは一番重要な自分の中の基準だろう。
さっきまで初めての迷宮ということで、少しながら浮ついた気分だった。しかし、そんな気持ちはすでに消え去っていた。
足元には平たい石がいくつも土に埋まっている。どれも似た色で、似た大きさだ。遠目にはただの足場に見える。なのに近くでよく見ると、微妙に違っていることは見抜けた。
「右の列は踏まないで」
「了解」
「こっちだけ、私が先に行く。同じようについてきて」
リナが選びながらどんどん進んでいく。
「こっちは雨で欠けた形。こっちは人が踏んで丸くなった感じ。でも、これだけ違う。削れてるっていうより、最初からこの形にしてあるみたい」
「踏ませるためか」
「たぶん」
僕は一歩下がった。たしかに言われて見れば、その石だけ欠け方が綺麗すぎる。自然に荒れた石じゃなく、荒れて見えるように作った石だ。
「こっちから行く」
「分かった」
迷宮の入口を越えると、日差しが少し薄く細くなった。
入り口すぐの浅い辺りでは、まだ頭上が完全に塞がっているわけではなかった。
むしろ壁は低く、解放感もあり、所々だが空も見えている。
しかし、視界の抜け方だけが妙に悪い。
その奥へ真っすぐとつながる通路が見えているのに、そこまでの距離が短いのか長いのか分からなくなってくる。
少し進んだところで、微かな呻き声が聴こえた。
「いた!」
低い壁の向こう側、崩れた柱のそばに男が一人しゃがみ込んでいた。
足首を押さえ、長いナタのようなものを持っている。顔を上げた瞬間、目が合った。その男の少し先に、もう一人が女の人が石壁を背にして後ずさっている。
――間に合え!
犬や狼のように見えるが、脚が長すぎる。
口先は細く、鋭い歯が横から見える。
砂を被ったような毛色、その目は黒く沈んでいた。その魔物がこの狭い空間に、七頭――いや八頭くらいが群れで動いていた。
そのうちの先頭にいた個体が突然、低く潜るように走ってくると、もの凄い勢いで跳び掛かってきた。
「ちっ――! 何の魔物だ?」
僕はその攻撃を横に跳んで避けながら、リナに自分の後ろへ行くように指示を出す。
鞄から素早く黒鉄の小手を付け、朧差に手を掛けた。
「あれは、レトルファングだ。一頭、前から来るぞ!」
男の叫びと同時に、周りの一頭が僕の正面から跳んでくる。さらに遅れてもう一頭が右側から大きく旋回して走ってくる。
朧差の居合いは、一対一に特化している。
そのため、複数への対応がしづらい。
今は居合いではなく、鞘から抜いて戦うことを選ぶ。さらに、その刀身に『黒』を一瞬纏わせる。
飛び込んでくるレトルファングの前脚、その踏み込みだけを見て、そこに焦点を合わせて振るった。
「《瞬纏》――!」
前脚の付け根へ、黒を纏った小太刀を振るう。レトルファングはそのまま着地の瞬間に崩れ、前へと勢いよく転がっていった。
黒紋の力を刀身に乗せて『線』で撃ち抜く形の《黒穿》は、今の自分にはまだ疲労が強く出てしまう。
しかし、小太刀を振る一瞬だけ『黒』を纏わせたり、敵を斬る瞬間だけ『黒』を増幅させる使い方であれば、朧差と自分の体の両方にかなり負荷が少なく扱うことができた。
「ギギャッ……!」
一頭目がそのまま石壁に頭からぶつかり、体勢を失う。
即座にそこへ詰め寄ると、首元へ浅く刃を通してとどめを刺す。
しかし、同時に右手の奥へ鈍い痛みが走った。骨の間に熱い針でも刺し込まれたみたいな芯のある痛みだ。
そのせいで小太刀の握りが一瞬だけ遅れる。
朧差が手から抜け落ちなかったのは、虎紋の遺物である『黒鉄の小手』のおかげだろう。
この遺物は明らかに僕の怪我に合わせて握力的な補助をしてくれているような感覚がある。
そういう能力があるのかもしれない。
遅れて右から来ていた二頭目が、僕の脚を狙って低く潜ってきた。
僕はそれを振り向きざまに片手で受けるが、それでも噛みついてこようとして離れてくれないため、距離が取れない。
そう思った瞬間、鎖の音が短く鳴った。
「やあぁぁああ!」
リナが手首を払うようにして伸ばした鎖の先が、魔物の首ではなく、その前脚に勢いよく絡む。それも、もう解けないほどにグルグル巻きだ。
「アーテル、大丈夫?!」
「助かった!」
僕は踏み込みを浅くして、今度は『黒』を使わずに、朧差だけで横から払った。二頭目の腹が裂け、細い悲鳴が壁に跳ね返った。
「ギッギャッ――……!」
血は多くない。代わりに砂っぽい体毛が大量に埃のように舞って、乾いた獣臭が辺りに散った。
それを見て、群れの残りのレトルファングたちは迷宮の奥の暗闇へと逃げていった。
音が止む。
けれど、すぐには息を吐けなかった。
風の音に紛れて、まだ奥で何かが動く気配があったからだ。早くここから出た方が良さそうだ。
「立てるか?」
僕がしゃがむと、足首を押さえていた男は悔しそうに顔を歪めた。
「ああ、捻ったが何とか歩ける。嚙まれてはない。君たちのおかげだ、ありがとう」
「もう一人は?」
「……私も転んだだけだから大丈夫です。擦り傷くらい。助けてくれてありがとうございました」
奥の壁を背にしていた女の人も、顔色こそ悪いが怪我は浅いらしい。
だが、手から短剣を落としたまま、まだ呼吸が乱れている。
「すまねえ……入口の脇を回っただけなのに、気づいたらここに来ていたんだ」
「外にいたら、あなたたちが突然見えなくなった」
リナが少しだけ眉を寄せてから続けた。
「もう出よう。今ならまだ戻る線を辿れるから」
「ああ、すぐに出る」
僕は男に少し肩を貸して立たせると、リナは女の側についてから大丈夫そうなのを確認する。
引き返す道は短いはずなのに、ここに来たよりも長く感じた。
見えている入口が遠い。右の壁も左の壁も似たような高さで並び、真っすぐ進んでいるのにおかしい感覚。
リナの《解読》のおかげで、先頭を進むリナの後ろをついていくだけだ。
途中で一度だけ、壁と壁の間を風が吹き抜け、石の中から低い奇妙な音が鳴った。
迷宮の奥から呼ばれているみたいな怖さを感じる。
ようやく外の草地へ出た時、日差しの明るさに少しだけ目が痛んだが、ほっと息をつくとができた。
助けた二人は、その場にへたり込むように崩れる。二人ともようやく安堵の声を出した。
「本当にありがとう……もう少し遅かったら、もっと奥に連れていかれていた気がします」
「周辺の採取だけのつもりだった。けど、気づいたら……以前来たときにはこんなことにはならなかったから、これはギルドに報告したほうが良さそうだ」
男が足首を押さえながら言った。
このルルレーダンの迷宮に何かが起きているのだろうか。
僕らは二人を支えながら、もう少し迷宮から離れ、草地の外れまで移動する。
さっきまでののんびりした採取場所は、もうどこにもなかった。
同じ日差し、同じ風なのに、一度迷宮内の空気に触れた後では入口の見え方そのものが変わってしまった。
リナが迷宮を振り返る。
「次来るときには、もっと前から道を見てみる」
ルルレーダンの迷宮は、冒険者たちが思っているような場所ではないのかもしれない。
初めての迷宮探索は何とも言えない不安が胸に残ったものとなってしまった。
■アーテルの技
①《黒穿》
黒紋の基本にして中核のスキル。
『黒』そのものを穿つ。
ただし、まだ紋章に馴染んでいなかった初期の段階から、少しずつ使える幅が広がっていく中で、色々な使い方ができるようになっている。
【黒穿の主な使い方は3つ】
1.『点』を落とす
足元や狙った一点へ、黒の『点』を落として、その部分を潰す。
技の方向は、真下や手の先から落ちる形であるため、相手と密接しているような状態でない限りは、攻撃には使えない。
2.『点』を撃つ
目に見えている一点へ『黒』を撃つ。
敵が避けにく部位やいわゆる弱点などの破壊に向いている。
落とすのとは違い、前に向けて飛ばすことができるため、より攻撃として使えるようになった。
3.『線』で斬る
本来の《黒穿》の形に近い使い方。
『黒』を纏わせた武器などを介して、『線』として飛ばし、相手を斬る。
1→2→3の順で疲労と消耗がどんどん強くなる。
②《黒雷・一槍》
黒穿の派生技。
追い詰められた結果、雷紋のシヴァの一点集中技にかなり影響を受けて創り上げた大技。
黒い雷を発生・集中させ、それを槍状の直線にして撃ち出す。
その直線上の全てを穿つという本来の黒穿に近いものの、黒雷というアーテル独自の技となっている。
使用後は倒れるレベルで体が消耗すること、技を撃つまでの溜めにも時間がかかることがデメリット。
③《瞬纏》
遺物『朧差』と『黒』の合わせ技。
斬る瞬間だけ刀身へ黒を纏わせて斬る省エネ技であり、長期戦には向いている。
常時『黒』を乗せたり、撃ち出したりするより負担がかなり軽い。




