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第3話


 夕方、空が赤くなり森の影が長く伸びた頃、遠くに魔灯の明かりが見えてきた。


 近づくにつれ、人の声がはっきり聞こえてくる。笑い声や食器同士がぶつかる音、荷を下ろすときに地面が鳴らす音。そして、肉や塩、香辛料の香りも風に乗ってくる。


「あそこが街道食堂です」


 カンベリーが言い、僕らを振り返る。

 食堂と言うから建物があるのかと思いきや、野外の大きな屋台のようだった。


「今夜はあそこで夕飯にします。その後はそのまま明朝まで休憩となります」


 街道の灯りへ近づくほど、賑やかな声がこちらまで聴こえてくる


「揺らさないで、零れちゃったじゃん!」


 次に、早口の声が被さる。


「揺らしてない。背中の盾が柱に当たっただけ。ここ、通路が狭すぎるんだよ」


「あんたの盾がでかすぎるんだって」


 最後に、落ち着いた男の声が割って入った。


「――二人とも食べてからにしろ」


 そんな口喧嘩を横に、灯りの輪に足を踏み入れた瞬間、温かい空気が頬に当たった。

 煮込まれた肉と香辛料の匂いに、遅れて自分の空腹を思い出した。


 広範囲に屋根布を張った広い食事処だ。

 入口で一人当たりのお金を払ったら、あとは各自が大鍋に自分で取りに行く形らしい。

 大人と子供で代金がかなり違う。


 メインは大きな鍋が二つ、鉄の台に乗っていて柄杓が鳴るたび湯気が膨らんでいる。

 一つは赤茶の汁がとろりとして、胡椒と乾いた香草が香る。煮込んだ肉が繊維のままほどけて根菜が角を残して沈んでいる。

 もう一つは、透ける金色で塩と生姜みたいな香りが湯気に混じり、骨付きの鶏肉と豆がころころ入っていた。どちらも匂いだけで口が勝手に動いてしまう。


「うわぁー、おいしそう」


 リナが眼を輝かせて呟く。


「お、今日は赤胡椒肉鍋(レッドポット)と、生姜鶏豆鍋(ジンジャービーンズ)か」


 ガイールが嬉しそうな声をあげた。

 机の上には粗いパンと、刻んだ塩漬けの野菜、硬い干しチーズみたいな白い塊が並んでいる。


 笑い声と咀嚼の音が重なり、荷を降ろした馬の嘶きが遠くで混じった。その温まる空気感に、ずっと緊張していた肩の力が少し抜けた。


 通路の横ではまた短いやり取りが起きていた。

 先ほどのパーティのようだ。

 背中に大きな背負い盾を固定した女が腕を組み、隣で早口の女が机の端を指している。もう一人、男が二人の間に落ち着いた顔で座っている。


「ちょっと、汁が跳ねた。私の袖に付いたんだけど」


「机を押したのはお前だろ」


「拭くもの貸してよ」


 それを見兼ねた男が、二人の間へ視線を差し込んだ。


「お前ら、いい加減にしろ。他の迷惑になるし、目立つ」


 二人が口を閉じる。

 早口の女は言い返しかけて飲み込み、盾の女は肩をすくめて椅子へ腰を下ろした。

 普段は言い合ってるけど、いざとなったら連携がとれるパーティなのかなと考えながら席へ進む。


 カンベリーは鍋の火から少し離れた端の席へ案内した。

 背中側は風よけの布が垂れていて、視線が刺さりにくい位置だ。商会の職員は荷を見回しながら、必要なところだけ手を動かしている。


「こちらでお召し上がりください。出入口も近いので、何かありましたらすぐ動けます」


 シンベルが荷袋を膝に置き、紙を一枚だけ取り出しかけて止めた。

 この場に書類は目立つ。


「……ご飯を食べ終わってから、荷の陰で決めましょう」


 リナが空の器を受け取りながら僕のほうを疑問の顔で見る。

 シンベルが鍋の前に立ち、それぞれの鍋から順に一杯ずつ皆についでくれた。


「もし酔いが残っているなら、先に生姜鶏豆鍋(ジンジャービーンズ)からがいいと思います。赤胡椒肉鍋(レッドポット)は後でも十分温まりますから」


 席に戻って、言われた通り金色の透き通った汁の生姜鶏豆鍋(ジンジャービーンズ)から食べてみる。


 湯気が鼻へ入った瞬間、塩気の奥に生姜みたいな香りが抜ける。よく煮込まれた豆が舌の上でほろっと崩れ、鶏肉の脂が薄く広がって口の中が熱くなるのにまったく重くない。

 喉を通るたび、冷えたところが内側からほどけていく感じがした。


「うまい」「おいしい」


 僕とリナの声が自然と重なり、顔を見合わせる。

 次に赤茶色の赤胡椒肉鍋(レッドポット)も口に入れる。先ほどよりもとろりとした汁が舌に乗った瞬間、胡椒が先に刺して遅れて煮込んだ肉の甘さが追いかけてくる。

 根菜が噛むほど旨味を返し、喉の奥がじんわり温かい。辛いというより、体をゆっくり温かく起こしてくれる感覚だった。


「こっちもおいしいね」


 リナも赤胡椒肉鍋(レッドポット)を一口飲んで感嘆している。

 僕は固めのパンを割って|ジンジャービーンズ|に浸してから食べてみた。汁を吸ったパンがふわっとほどけ、豆の甘さが後から来る。


「パンと合うぞ。食べてみて」


 リナは頷くと真似をした。口に運ぶ前に一度だけ息を整え、少しずつ食べ始める。


「……揺れが長かったから、まだ少し気持ち悪いけど。これなら食べれる」


 リナが小さく笑って|ジンジャービーンズ|の器を両手で持ってスープを飲む。さっきより喉が動いた。

 けれど酔いと器の熱さもあって、手元がふらつきかける。

 その瞬間、さっきのパーティの男が身を乗り出した。


「疲れているのか? 指が掛かる所を作るだけなら、すぐできるけど」


 落ち着いた声。助けようとしてくれているのはわかるが、何をどうするのかがよくわからない。

 リナが迷って僕を見る。悪い人ではないと思うので僕が頷くと、リナも小さく頷いた。


「え、えっと……じゃあ」


 男は机の上に指を置いた。そこから細糸がするりと出てくる。白い糸だが、目立つ光り方はしない。器の縁に何周か巻かれていき、指が引っかかる段を作って止めた。


「これなら熱くても持てるし滑りにくい。無理せず食べてくれ」


 リナが器を持ち直し、目を丸くする。


「おおー……すごい」


「糸だからね。ほどくのも簡単だよ」


 男の背中の方から、早口の女の声が飛んできた。


「パル、こっちも手伝ってよ」


 男が肩だけ動かして返事をした。

 それから僕らに視線を戻す。


「突然すまなかったな。困ってそうなのが見えたから、つい手を出してしまった。嫌なら外す」


「嫌じゃない。……ありがとう」


 リナがはっきり言うと、男――パルは「よかった」とだけ頷いて引いた。

 早口の女が、今度は僕の手元に目を止めたらしい。視線が速い。人の癖を拾う目だ。


「ねえ。あなた、右手。どこか痛いの?」


 僕は一瞬だけ間を作った。言い過ぎる必要はない。


「……捻っただけだ。少し痛みが残ってる」


「ごめん、変に聞くつもりじゃなくて。見てたら手が使えないと困るだろうなって思っちゃって……」


 パルが横から軽く咳払いをした。


「ニケ。いくら怪我でも、人のことを詮索するな」


 盾の女も椀を置き、こちらを一度だけ見た。目つきは鋭いが、敵意じゃない。


「そうだよ。相手が子どもだからって、いつもすぐに首突っ込む」


 それに対し、ニケが口を尖らせる。


「そんな……別に考えずにやってるわけじゃない……んだけど、ごめん、何かつい……」


 それ以上は広げず、三人は自分たちの席へ戻った。

 ただの子ども好き? 何だかんだで、最初の印象とは少し違い、人のことをよく見ているパーティだ。


 僕らもご飯に戻る。

 |レッドポット|の胡椒が身体を起こし、|ジンジャービーンズ|の塩気が胃を落ち着かせる。塩漬け野菜を齧ると酸味が口の中を切り替えてくれて、次の一口がまた美味い。


 食べ終えたころには、肩の力が抜けていた。

 シンベルが僕らの様子を見て、カンベリーに小さく合図をする。カンベリーは頷き、静かに席を立った。


「荷の方を見てまいります。……食後に少しだけ、私のところへ来てください」


 シンベルも小声で続ける。


「迷わない名前だけ決めます。ここでは目立つので」


―――


 魔灯の明かりの輪から少し離れた、荷馬車の列の影。シンベルが紙を開くと静かに言った。


「アーテル君、あなたは、アトルかアルト。リナちゃんは、ミナかユナ。時間の関係もあり、こちらで勝手に書類を作りました。二人とも、呼ばれても咄嗟に返事ができる方を選んでください」


 僕は迷わなかった。


「そのまま……アトル、かな」


 リナもすぐ頷いた。


「ミナ。そっちの方が返事しやすい」


「承知しました。明日、呼ばれたらはっきり返事を。他の応対や説明は私やカンベリーさんがしますので」


 それだけ言って、シンベルは紙をしまった。ここで長話はしない。判断が速いのは、商会の人間らしい。


 僕らは用意された寝藁へ戻ると、臨時設置された携帯型の魔灯が弱く揺れていた。

 寝藁は上質そうな綿が敷き詰められており、外で寝ているというのに驚くほど柔らかい感覚に包まれた。 

 リナがそのまま身体を丸め、僕も横になる。ご飯の温かさが腹に残っていて、眠りが少し早く来そうだった。


 ――そのとき、荷馬車の荷台の辺りで布がわずかに動いた。


 風じゃない。端が持ち上がって戻る。静かな動きだ。


 僕は息を止め、ゆっくり目だけ開く。

 暗い影の中で、人影が一つしゃがんでいるように見える。


 もしかして荷を漁っている?

 僕の背中に、冷たいものが走った。


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