第2話
荷布の下は暗くて狭く、布越しに聞こえる音がやけに近い。車輪が石を踏むたびに腹の奥が押され、積み荷の瓶が互いに触れて小さく鳴った。
油紙の乾いた匂いと干し肉の塩気が混ざり、そこに煤の街の匂いが薄く残っている。
僕は膝を抱え、右手首の固定具が荷に擦れない位置へずらした。痛みはまだあるが、今は痛みよりも音の方が怖い。荷の陰に隠れているのが気づかれたら、僕らはここで終わる。
隣のリナが一度だけ肩を震わせた。声は出していないが、口元に当てていた手が止まり、呼吸が浅くなっている。
僕は水袋をリナの膝の横へ寄せた。
渡すというより置いてやる。リナは小さく頷いて受け取り、喉だけ動かして飲んだ。肩の力が少しだけ抜ける。
「酔ったのか?」
僕が小声で聞くと、リナはすぐに返さず、息を整えてから答えた。
「……全然大丈夫。なんか揺れると吐きそうになるだけ」
「それを酔ってるっていうんだ」
怖いのは吐き気自体じゃない。吐き気が声を連れてきてしまうことだ。
競り場へ運ばれたときも、こんな揺れだった。床板の上で縄が擦れ、獣舎みたいな匂いがして、外の声は笑い声ばかりで、止まった先に檻が待っていた。
でも今は違う。
荷馬車はギルドの手配で、僕らは荷の陰に隠れている。僕らがやるべきことは、息を潜めて次の街――交易都市ヴァレスタまで運ばれることだ。
荷馬車が減速した。空気が変わる。人の声が増える。木札が叩かれる音、紙の端が擦れる音、馬の鼻息。関所が近い。
荷台の外から、行商人カンベリーの声が落ちてきた。軽いのに芯がある、商いの声だ。
「ギルドの手配で来ました。ヴァレスタ行きの行商を任されています、ルベル商会のカンベリーと申します」
関所の男が面倒くさそうに一瞥する。
「最近、荷が増えたな。何か追加で回しているのか?」
「リンドリウムのことはご存じですよね? あの事件のせいで、街もギルドもいろいろと被害を受けまして」
カンベリーは言い訳ではなく、事実として続ける。
「鍛冶場が焼けたら、まず止まるのは新しく物を打つ仕事です。店を開くには、焼け残った釘や金具、打ち直せる鉄、直せる道具を使うしかありません。復興は火が消えたあとに、まだ使える物と直せる物を拾い分け、運ぶところから始まります。だから今は、うちだけじゃなく、この街道を通る荷そのものが増えているはずですよ」
関所の男が鼻で笑う。
「……復興だの振り分けだの、口ではどうとでも言える」
「ええ。だからきちんと書類を持ってきてます。ご確認ください」
カンベリーが視線で合図すると、商会の書類担当シンベルがすっと膝をつき、封は切らずに札面だけ見える形で差し出した。
「荷は回収した鉄材、留め具、打ち直し前の製品、それと焼け残った薬材や空き瓶です。印はここに。宛先はヴァレスタのギルドで、ルベル商会名義となっています。もちろん、ギルドとの契約印もあります」
関所の男が紙に目を走らせ、今度は荷馬車へ顔を向けた。
「荷は確認する。外から見るだけじゃなく、二つ三つは実際に開けるぞ」
「どうぞ。ただし、規定通りにお願いします」
関所の男が一つ目の木箱を選び、印を確かめてから刃を入れる。蓋が開くと、中には油紙で巻かれた釘束や留め具が、仕切りごとにきっちりと収まっていた。
男は上の束を一つ持ち上げ、その下まで目を走らせ、底に別の物が隠れていないことを確かめてから戻す。
「……よし。次」
その横で護衛の男が一歩だけ位置を変え、箱と関所の男の手元が見える場所に立った。邪魔をする距離ではない。ただ、目を逸らさない。
「何だ?」
関所の男に問われて、護衛が初めて口を開いた。低い声だが言葉は荒くない。
「俺はガイール。ギルドから護衛の依頼を受けてるCランク冒険者だ。荷の確認は構わないんだが、封を切るなら立ち会いはさせてもらう。後で数が合わないって話になったら、ここにいる全員が揉めるからな」
カンベリーがすかさず続ける。
「互いに余計な手間は避けたいんですよ。だからこそ書類も荷も、きちんと揃えて持ってきました」
関所の男は二つ目の木箱も同じ手順で開けた。
今度は、打ち直し前の鉄板片と、包み分けされた焼け残りの薬材が詰まっている。男は鉄板の下まで指を差し入れ、薬材の包みを一つ裏返して印を確かめると、すぐに蓋を戻した。
「……いいだろう。通れ」
「助かります。ほら、行きましょう」
カンベリーが言い、御者が短く返して荷馬車が動き出す。鉄の擦れる音が遠ざかり、関所の声がゆっくり薄くなっていった。
何とか関所を越えた。
その事実だけで胸の奥が少し軽くなる。荷布の隙間から差し込む光が白く、煤の街の影がじわじわ遠ざかっていくのが分かった。
―――――
しばらく走ると荷馬車が止まり、外からガイールの声が聞こえた。
「ここで一度降りていいぞ。関所からは大分離れた場所に寄せた。水を飲んで休憩だ」
僕とリナは荷馬車の影から気を付けて降りる。正直景色も見えず、ずっと揺られているのは体も心もきつい。
動かない地面がこれほどありがたいものだったとは。
ここはリンドリウムからかなり離れたため、空気に煤の重さがなく、呼吸も楽に感じた。
道の向こうには広い畑が見え、苗を守る縄や杭が並び、鳥の声が戻ってくる。遠くには農民らしい人影も動いていた。
リナが水袋を抱えたまま、ぼそっと呟く。
「怖かった。あのまま奥まで調べられたら、もうダメだと思った」
「声出さずに耐えてたな。偉い」
「そんなことで褒められる私って……」
リナは何か納得いかないような不満顔だ。
ガイールが周りを見渡してから言う。
「ヴァレスタの正門に着くのは明日の朝の予定だ。門は人が多いからな。そこで顔を覚えられるのが一番まずいぜ」
シンベルが肩越しに振り返る。
「このまま行けば、食堂には夕方ごろ着く予定です。そのときに偽名を決めましょう。門を越える前に慣れておかないと、顔に出てしまうので」
休憩が終わると、僕らはまた荷の陰へ戻った。揺れは続く。でもさっきより腹の奥が少し落ち着いている。
―――
昼を過ぎた頃、街道は畑の間を抜けて森の縁へ近づいた。木の影が長くなり、地面の湿り気が少し増える。葉の擦れる音に混じって枝が折れる音も聞こえる。
魔物かもしれない。
と思った瞬間、道端の草むらが突然ざわつき始めた。草の揺れ方が細かすぎる。黒っぽい影がいくつも走り、草の間から出ている尾の先が、煤を引きずったみたいに濃い。
「ススオオネズミだ!」
ガイールが叫んだ。
「群れで来る。噛まれたら痛えぞ。気をつけろよ」
荷布の隙間から覗くと、黒い影が二十、三十と跳ねている。大きいもので子犬ほどもあるネズミ。
護衛は落ち着いて対処していたが、なにせ数が多い。そのうちの一匹が荷馬車の側面へ跳びかかり、積み荷の隙間をこじ開けるようにして入り込んできた。
僕は息を止め、朧差を抜いた。
右手は添えるだけにして、左で刃を運ぶ。荷を傷つけない角度に刃先を落とし、ススオオネズミの喉元へ一閃。短い悲鳴が出て、体がくずれる。
「アーテル、左から来た」
リナはただ怖がるんじゃなく、僕が動きやすいように現状を伝えてくれる。
「分かった」
僕は刃を下へ滑らせて進路を潰し、外へ弾いた。
右手首に痛みが走るが、顔に出さない。
外では逃げようとしているススオオネズミにガイールが剣の腹を当てて転ばせ、護衛のもう一人が長剣で確実に止めていた。
数を減らす動きが迷いなく、だから荷馬車が守られている。
「こっちはもういない」
僕が息を吐くと、返事が来る。
「こっちもだ。他のは逃げていった。噛まれてないな? 荷台に行っちまったのを仕留めてくれて助かったぜ」
「このネズミ、すごく大きくて気持ち悪い。こんなのに噛まれたくない」
「僕もあまり近づきたくはない」
僕がそう返すと、リナが僕の背中を指でつついた。
「それなら、この荷台のネズミを早く外に出そ。箱に血ついてないよね?」
「……すぐ外に捨てる」
僕がススオオネズミの死骸を荷台から落とすと、ガイールが肩で笑った。
「仲がいいな。……数がいたから魔核を抜くのもそれなりに手間だ。お前ら、抽出器は持ってるんだろ?」
ガイールは死骸をテキパキと分解してから、額辺りから小さな魔核を抜き取った。
匂いはないのだが、触れたくないような感じが指先に残る。リナが目を逸らしたのは匂いじゃなく、出どころのススオオネズミの死骸の方だ。
「魔核を扱うのは初めてか?」
ガイールの問いに、僕らは頷く。
リンドリウムで雷紋たちがグリムリーガルタイガを倒した後、とてつもなく大きな魔核が出た。
しかし、こうして魔核を手に取るのは初めてだ。
「じゃあ、抽出器も初めてだな。ちょいと貸せ」
ガイールは僕の革袋から抽出器を受け取ると、見える位置で持つ。
「使い方は簡単だ。ここに魔核をセットして起動する。出てきた雫を飲む。だが簡単な分、やるタイミングを間違えると目立つ」
「目立つって、どういう意味?」
僕が聞くと、ガイールは一つずつ噛み砕いて教えた。
「まず結構光る。夜だと遠くからでも見える。だから布で覆ってから抽出することが多い」
「光ったら人に見つかる? 魔物も寄ってきたりする?」
「両方だな。紋滓は貴重だ。このランクの魔物なんかは知れてるが、ランクが上がると紋滓も濃くなり量も増える。それに音だ。派手じゃないが静かな場所なら耳に残る。人の近くではやるな」
ガイールは魔核を抽出器の中に指で押し込んだ。
金属の口が反応して一瞬だけ開き、核が吸い込まれるように収まる。軽く布で包んで起動させると、布の内側が淡く明るくなってすぐ消えた。
先端部分に雫が一滴落ちている。
匂いはないが色がある。
煤の黒でも墨の黒でもない何だか変に濁った色の雫が揺れていた。
僕はそれを受け取った。変に喉が鳴る。
飲めということなのは分かっている。
分かっていても、この色を前にすると少し身構えてしまう。
「ススオオネズミはGランクの魔物だ。だから紋滓もたったこれだけだ。だが、こんな量でも飲んだ分だけ確実に強くなる」
ガイールは言い切ってから、さらに釘を刺す。
「吐いたら、この経験値が無駄になるぞ」
それを聞くや僕は口を開けて、舌先に一滴を落とした。
途端、味の波が押し寄せる。
ものすごく苦い。苦いだけじゃなく、舌の上に土みたいな濁りが残り、喉の奥へ引っかかってなかなか離れない。
匂いは無いのに味だけが逃げ場がなく、口の中に残っていて吐きそうになる。
「ものすごく、まずいんだが……」
「だろ。早く水で流して飲め」
ガイールがすぐ言葉を足す。
「かっこつけんな。今のお前、すごい顔をしてるぞ」
ガイールは大きな声でひとしきり笑った後、次の核も手際よく絞り、濁った一滴の雫を今度はリナに渡した。
もちろんリナも嫌そうに顔をしかめたが、逃げずにしっかりと受け取る。
「……飲めばいいの」
「飲めるやつが強くなるんだ」
それを聞いて一度頷くと、リナは目を閉じて飲み干した。喉が動いた後で顔が歪む。
「……泥、舐めてるみたいな味」
悔しそうに言ってから、でも言い直した。
「でも、飲めた。もう逃げない。アーテルと一緒に強くなるって決めたから。それにロンネスの薬よりは苦くない、かも」
「はは、ガキが背伸びすんなよ。それが飲めるなら十分だ」
ガイールが軽く言うと、リナもつられて笑って頷いた。
気持ちの問題だろうが、何だか身体が少し軽くなった気がする。
たった一滴の雫。されど、一滴。
これを繰り返して強くなっていく。劇的な変化じゃなくてもいい。強くなるための一歩を踏めた気がした。
「都会の方じゃ、錠剤にする薬師もいるぞ。雫を集めて丸薬にすれば飲みやすいんだが――」
ガイールはそう言いながら、数個絞った後の雫をゴクリと音を鳴らして飲み干してから言う。
「……高い。だから駆け出しは、だいたい我慢して飲むしかない。あとはレアな魔核には、紋章が刻まれていることもある。そういった魔核の紋滓は……飲んだことはねえが、美味いらしいぞ」
心底どうでもいい情報だが、リナの方を見ると満更でもなさそうな顔で頷いているのだった。




