エピローグ「掃除」
裏口の扉は外から見ればただの倉のままだが、中へ入った瞬間に雰囲気が変わる。乾いた紙の匂いが先に立ち、煤と油の匂いは薄布の向こうへ押し込まれている。
壁の擦れ跡まで布で隠され、床には丁寧に砂が撒かれていた。
俺は回収屋の下っ端で、競り場の表には出ない。
表へ出れば名前を知られる。名前を認知されたら、次に何かあったとき、捨てられる順番が来る。だから俺達回収屋は名を持たないし、呼ばれるときも役目だけ。
今夜は『掃除』と『伝達』とだけ言われた。
掃除は床を拭くことじゃない。揉め事を消して、口を閉めて、汚れを無かったことにする。そのために人が捨てられる。ここではそれを『掃除』と呼ぶ。
奥の広間に魔灯の明かりが一つだけ落ちていて、その下に膝をついた男がいる。両手は天井からの鎖で吊られ、両足は固定具で開かされていた。灯りが顔に当たった瞬間、喉の奥が乾く。
――虎爪のレン。
いつもは人を道具みたいに扱う男が、今は声を出す気力もなくなり、膝をついている。胸が浅く上下し、息がどこか引っかかっているような呼吸をしていた。
周りには俺達回収屋を入れて、全部で九人いる。
何かの用紙を持っているこの場の責任者が一人。記録係が一人、処理係が二人。そして俺達回収屋が五人。
剣は抜かれていない。抜く必要がないからだ。抜くのは相手を恐れるときだけで、今ここに恐れる相手はいない。
責任者が用紙を広げ、薄い指で名前をなぞった。紙の余白には赤い印が乾いている。
「レン。……お前は競り場の看板を汚した」
そこで一度言葉を切り、レンを見下ろした。
「勝手に客筋に触れた。勝手に金を動かした。勝手に人を動かした。ここまでやって、まだ自分は関係ないって顔か」
レンの喉が鳴る。笑いじゃない。痛みを飲み込む音だ。
「……俺は、言われた通りに――」
「上の話は関係ない」
責任者が被せるように言った。
「ここは中立だ。中立の顔で商いを続ける。そのために、汚れだけ捨てる。分かるか?」
処理係がレンの襟を掴み、胸元を乱暴に引いた。布が裂け、胸の皮膚が灯りに照らされる。
俺は息を止めた。
そこにあるべき紋が、ない。
胸の中心は浅く凹み、灰色に乾いている。線の名残だけが端に残り、真ん中は抜け落ちたみたいに空っぽだった。
――紋章がない。
隣の回収屋が肘で突いてきた。ここでは驚きも弱さになる。弱さを見せたやつの名は次の掃除に乗る。
責任者は顔色ひとつ変えない。
「紋狩りは成立した。虎爪としての仕事は終わった」
言ってから、紙を指で叩く。
レンが唾を吐くみたいに笑った。
「……俺だけで終わると思うなよ。窓口を貸したのは――」
処理係の足蹴りが頬に入った。乾いた音がして、レンの顔が横に倒れ、床に血が点で落ちる。
レンはなおも口を動かそうとする。処理係がレンの口元を踏み、声が出ないように押さえ込んだ。
責任者は冷めた目で視線を動かさずに言った。
「……言葉を残すな」
その声は静かだった。
「お前と関係があった奴らは昨夜のうち処理済みだ。紋章も名も残っていない。お前の口だけが残ったら、その存在が戻るだろ?」
レンの目が揺れた。助けを求める先がない理由が、その一言で確定したみたいに見えた。
責任者はそのまま用紙を畳み、角を揃えてから続ける。
「紋無しの敗者は要らない」
少し間を置いて、言い切った。
「だから残さない。……これで掃除は終わりだ」
処理係が短い縄を取り出し、レンの喉へ回した。俺は目を逸らしたが、縄が締まる音だけは聞こえた。暴れる音はすぐ止まる。
終わると処理係が布をかけ、引きずっていく。
床の血は砂をかければ消える。汚れは捨てれば無かったことになる。ここではそうなっている。
責任者は手を拭きもしないまま、記録係へ顎を向けた。
「で、……街はどうなってる」
記録係が一度言葉を選んでから答える。
「虎が踏み込んだせいで、街のいくつかの施設や建物が破壊され、燃えました。魔物まで呼び込まれていたため、一部の住民が犠牲になりました。多くは避難所へ逃げられたようです」
「ギルドが収めたか」
「ええ。そのようです。……ただ被害は大きかったようで、今でも商いや鍛冶が止まってる店も多いです」
責任者が小さく息を吐いた。
「あとは、控えの帳簿が抜かれた、か」
記録係は紙を差し出す。
「はい、ギルドに渡ったとの情報です」
「抜いたのは?」
「競り場から逃げた子ども――とのことです」
窓口係の目が一瞬だけ細くなる。怒りじゃない。算段が固まる目だ。
「よし、街を閉めろ」
言い切ってから、回収屋の顔を見回す。
「回収屋たちはまず情報を走らせろ。商人を使え。目立てば噂が増える。噂が増えれば他の街へ入れなくなる」
木箱が二つ並べられていた。
中には小さな板札が束になっている。押し印がある。見える場所に掛ければ、店の側が勝手に分かる札だ。
「街の店には札を回せ。宿や飯屋と薬屋を閉めさせろ。例の子どもに関わらせるな」
回収屋たちが頷く。反論したところで次に掃除されるだけだ。宿だけじゃない。納屋も物置も知り合いの床もだ。食べ物だけじゃない。暮らしに必要なことを締めろという命令。
「相手はギルドだろうが、できる限りのことをしろ」
責任者はもう一枚、別の紙を出した。薄いが硬い用紙で、朱印を押す場所が空いている。
「貿易都市ヴァレスタと行政都市パリドレーナには、照会を回しておけ、一応な。まぁ向こうからも探りに来るだろうが……」
責任者は回収屋たちを見て言う。
「すでにギルドに伝わった帳簿はもう取り返せん。代わりにあれに関わったやつは消す必要がある。競り場の中だろうと逃げた子どもだろうと、ギルドだろうと。情報を回収してこい」
合図一つで回収屋たちが動いた。紙や札の束が配られ、それらを抱えた男が裏口から飛び出していく。
夜が更けていく。
掃除は簡単には終わらない。




