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第29話

 

 路地の角を抜けた瞬間、一頭のアッシュタイガに回り込まれた。跳躍だけで、この距離を物ともしない魔獣。


 先ほど見たときにはあれだけ離れていたというのに、一瞬で詰めてきた。獣系の魔物だけあって、僕らの存在にすでに気づいていたのだろう。


 大きい岩のような巨体が路地の上から降ってきて、石畳が簡単にひび割れる。前脚が沈み込み、爪が空気を裂く。


 近くで相対すると、その大きさに驚く。

 今すぐ逃げたい。

 だが、背を向けたらその瞬間に跳び掛かられて死ぬ未来しか見えない。


 僕はアッシュタイガに向けて臨戦態勢をとる。半歩ずらし、朧差の柄に指を掛けた。ロンネスから習った方法。鞘口から滑らせて瞬発力だけで斬る――居合。


 アッシュタイガが前脚で跳び掛かってくる。

 速い。避けられるレベルではなかったため、受けるしかない。

 どうにかこちらも小太刀を振るう。

 硬いものを削るような強い衝撃が返ってくる。アッシュタイガの爪だ。


 その瞬間、エルシアから矢が放たれた。

 狙いは喉でも目でもない。肩口の筋――跳ぶための筋肉へ向けて射る。

 あの固そうな筋肉へ簡単に突き刺さる威力。アッシュタイガが一瞬だけ怯んだ。

 その隙に僕らはその横を抜け、煙の向こうへ走り抜ける。

 息を整える暇はない。走りながら問う。


「笛だけで、あの数の魔物を使役できるとは……」


「魔導具か能力かはまだわかりません。魔導具の場合は、一般的にCランクの魔物までは可能――と聞いたことはあります。ただ、厄介なのは、普段群れないような魔物でも、強制的な群れとなっていることですね」


「Cランクであれなら、それより上は……」


 僕が言いかけたところで、エルシアが少しだけ言葉を選んだ。


「Bランクの魔物は単体でも街が終わると言われます。……普通はCランクすら街に出てくることなんてないのですが。スタンピードでも起きない限り、こんな事態にならない……」


 つまり、逆に言えばこれを意図的に引き起こした虎紋派閥は、もう引くに引けないところまで来てしまっているということだ。

 ここまでやったのなら、早急に決着をつける気だろう。街を破壊し尽くしてでも回収する気だ。


 視界の先がさらに狭まる。そこに混乱した人の気配が混じり、転ぶ音や引き起こされる気配、走り去る影や声が溢れる。街全体が大混乱に陥っていた。


 そのとき、煤だらけの男が一人身を乗り出した。


「おい、エルシアか! こっちじゃ!」


 顔も服も黒く汚れて、腕まくりをしている男。腕は分厚く、火傷の跡が見える。逃げる人間の立ち方じゃない。エルシアが即座に声を返す。


「――? ハイネさん?」


 知らない相手じゃないようだ。ギルド側の人間。

 ハイネと呼ばれた男は、僕と背中のリナを交互に見て眉を寄せた。驚きではなく、確認した顔だ。


「……その子が禁忌覚醒の子じゃな。背負い方を変えろ、胸が潰れて息が浅くなっとるぞ」


 命令じゃない。助けるための指示だ。

 僕は言われた通りに背負い直す。リナの胸が少しだけ楽になったのか、背中の揺れが少し落ちついた。


「ふむ、熱が出とるか。一旦地上は捨てて早く避難所へ行け」


「ここからだと、あの水路の奥です!」


「急げ、まとめて潰されるぞ」


 ハイネが路地の端を指した。石畳の隙間に鉄格子が口を開け、冷たい湿気が上がってきている。


「グルォオオオオオッ――!」


 近くでアッシュタイガの雄叫びが聴こえた。確かに迷っている時間はない。僕らはその格子の口へと滑り込んだ。


「さぁ行くんじゃ!」


 ハイネはこちらに背を向けて言う。


「ハイネさんはどうするんですか」


「わしはここを守らんといけん。死ぬときは老人からじゃ」


「そんなこと言わないで、ちゃんと生きてください」


「わかっとる! そんな簡単にゃ死なんよ、さぁ早く行け!」

 

 水が膝下を流れて、火照った皮膚の熱を奪う。

 エルシアは唇を噛むと、振り返らずに水路を走った。エルシアのあとを僕らも続く。


 水路では地上の煙が遠ざかった感覚になる。

 ただ、安心はできない。

 地上で何かが動き直す気配がまだ残っている。前を行くエルシアが、一度歩幅を落とした。


「……アーテル君。今のうちに、聞いてください」


 小さい声でエルシアが話し始める。


「虎紋派閥からこのまま逃げ続けたら、アーテル君だけなら逃げ切れるでしょう。でも、リナさんは無理です」


 背中のリナが、浅く息を吐いた。熱で体の芯が揺れているのが分かる。喉の奥が固くなった。


「……どういう意味だ」


「今の状態ならリナさんはしばらく休まないと、命に関わります」


 エルシアは水路の暗がりの先を見たまま続ける。


「笛で動いているアッシュタイガの群れ、その目的が『追跡』じゃなく、街を壊して人をまとめて潰す動きに変わってます」


「目的は僕とリナを捕まえること、そして帳簿か」


「さっきのアッシュタイガ、私たちを大して追ってきませんでした。アーテル君とリナさんの回収よりも、今は帳簿を葬り去る方が優先なのでしょう」


「……それくらいに、あの帳簿の中身はまずいってことか」


「はい。だからアーテル君が逃げ切ったとしても、結果は変わりません。この街とギルドが甘かったんです。まさかこれほどまでに帳簿を追い求め、表立って街に攻めてくるとは、誰も考えていなかったのでしょう」


 この惨劇をリンドリウムに持ってきてしまったきっかけの一つは自分だ。

 何も罪のない街の中の人が逃げ場を失う。そのうえで自分たちだけが逃げる。


 そんなことはできるはずがなかった。


 街全体がすでにあいつらの獲物にされている。

 街ごと紋狩りを決行されたような状況だ。

 エルシアが息を一つ落として続ける。


「今、まず止めるべきなのは『笛』です。笛が止まれば群れは解散します。もともとアッシュタイガは群れない魔物です。魔物に関してだけ言うなら、あの群れさえどうにかなれば、リンドリウムなら街とギルドの戦力で充分抑えられます」


 あの恐ろしい魔物――アッシュタイガの群れと戦う。

 勝てる見込みはあるのだろうか。この状況に関係している自分としては、少しでも役に立たなくてはいけない。


「アーテル君、あなたを責めているわけではありません。今回の件は、どうみても競り場や虎紋派閥がおかしい動きをしていました」


 エルシアは立ち止まり、一度だけまっすぐこちらを見た。その目には迷いがなかった。


「……だからこそ、ギルドはあなたを試し、その力と価値を見極めたんです。そして下した結論は一つ。ギルドは、あなたの味方です。――それでもなお、あなたが一人で戦場へ戻るというのなら、私は全力で止めます」


「……じゃあ、僕はどうすればいいんだ」


「私が一緒に行きます。周囲は私が視ます。音も、気配も、道筋も、私が拾います。笛の使役者がいる方へ向けて」


 そこでエルシアは、張っていた声を少しだけやわらげた。


「だから、あなたは前だけを見てください」


 短い沈黙が落ちた。

 その一言は、背中を押す言葉というより、胸の中で空回りしていた焦りを静かに切り分ける言葉だった。全部を一人で背負わなくていい。見るべきものを見て、届く場所まで行けばいい、と。


 僕は浅く息を吸って、握ったままだった手に力を込め直した。


「……わかった」


 それだけ言うと、さっきまで喉元に引っかかっていた熱が、少しだけ形を変えた。焦りじゃない。怒りでもない。前へ出るために必要な固い意志へ変わった。


 エルシアが頷く。


「行きましょう」


 僕も前を向いた。

 もう迷わない。耳は彼女に預ければいい。僕は辿り着いた先で敵を倒すことだけを考える。


―――


 前方に魔灯の明かりが見えてくる。

 避難所が近づくにつれて、天井が少し高くなり、湿った石と薬草の匂いが混じってくる。


 エルシアが先に梯子へ手を掛けた。短く上を見てすぐ僕を振り返る。僕もその後を進む。

 梯子の先にある踊り場に出た瞬間、煙の匂いが薄く混じった。もちろん地上ほどではないが、避難所の入口まで街の混乱が染みてきているのを感じる。


 石造りの通路を抜けた先は、広い空間だった。

 魔灯が数本、低い位置に置かれている。毛布がたくさん積まれ、薬草の匂いが濃い。煤で黒く汚れた顔のギルド職員らしき人々が、慌ただしく走り回っている。


 子どものすすり泣き、押し殺した咳、誰かを呼ぶ声。避難所だが安全と言い切れない不安。息苦しいほどの焦りが溜まっている。


「エルシア!」


 煤だらけの男が駆け寄ってきた。目だけが白く目立つ。


「リッキーさん。この子をお願いします。横になれるところに案内してもらえますか?」


 エルシアは迷いなく指示を出し、僕の背に手を添えた。僕はロンネスが最後に預けてくれた二本の薬瓶を渡す。布団がある場所に着いてから、リナをゆっくりと横に寝かせる。


「……リナ」


 名前を呼ぶと薄く目を開けた。焦点が合っていないが、僕を見ようとしているのは分かる。


「……ここ、どこ……」


「避難所だ。ここで休んで。すぐ、戻るから」


 言いながら、言葉が喉で引っかかった。

 すぐなんて保証はないが、ここで曖昧にしたらリナが折れるかもしれない。

 僕はリナの手をそっと外そうとして、逆に強く掴まれた。


「……行くの……?」


 声が掠れている。


「行かないと、ここが潰される。奴らを止める」


「わかった……戻って……きて」


「約束する」


 言葉にして、初めて自分の意思が決まった気がした。逃げるためじゃない。終わらせるために動く。


 エルシアの目線は避難所の奥と入口を往復している。状況が変わるたびに、判断を修正しているようだ。


「今はまだここは守られていますが、笛を止めないと……」


 僕は立ち上がり、腰に差していた朧差を締め直す。


「行きましょう」


 僕は頷き、避難所の入口へ向かった。

 エルシアが先に水路へ出た。僕も続く。

 湿った石の匂いが戻り、冷たい空気が頬を撫でた。


 エルシアは振り返らず、少しだけ速度を上げた。

 水路の曲がり角を越えたとき、上のほうで石が崩れる気配がした。一瞬だけ足を止め、顔を上げる。


「……近いですね。笛や群れはあまり動いていないようです」


 僕は朧差の柄をもう一度握った。逃げるために使っていた力を、今度は止めるために使う。

 前方に小さな梯子と、薄い灯りが見えた。

 地上への出口だ。


 エルシアが梯子に手を掛ける直前、僕へ言う。


「地上に出たら走ります」


「分かった」


 エルシアが先に登り、外の様子を一瞬だけ確かめた。そして、すぐ僕に合図を送る。


「今は大丈夫です。来てください」


 僕は梯子を登りながら、最後に避難所の方角を思い出した。あそこにリナがいる。必ず戻ると頭の中で反芻した。


 地上に出ると、煙の中でいくつもの影が揺れているのが視界に入る。虎の輪郭が動き、通りの形が崩れていく。

 その中心――煙の向こうで、細い笛が一瞬だけ光った気がした。


 エルシアが低く言う。


「笛が近いです」


 僕は頷き、足を前へ進めた。





■ 魔物ランク

Gランク:単体は害獣(野生の獣)寄り。武器を持った大人なら対処できるが、子どもや非戦闘員には致命的。集団になると、畑・街道などが荒らされ、生活が崩れる。


Fランク:単体でも未覚醒の子どもなどは簡単に死ぬ。集団になると街道・集落外れが危険地帯になる(行商が途絶えるレベル)


Eランク:単体で訓練された数人(小隊規模)を崩せる。集団なら小さな集落が機能停止する。


Dランク:単体で集落全体を守る戦力を潰せる。集団なら村は簡単に壊滅する。


Cランク:単体でも十分脅威。並の戦力では返り討ちに合う。集団になると大きめの村や街が壊滅しうる(今回のアッシュタイガ)


Bランク:単体で大きい街が簡単に壊滅する(今回のグリムリーガルタイガ)


Aランク:被害が国レベルに及ぶ。討伐は国家・大ギルド案件になる。


Sランク:国・軍隊レベルに被害。正面から止めるには戦争レベルの戦力が要る。


SSランク:国が亡ぶ。対処できなければ歴史が変わるほどの災害。


SSSランク:伝説。存在そのものが大災厄として語られる。


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