第28話
エルシアが首を傾け、耳で距離を測る。
「……街が騒がしすぎる。何が起こってるの?」
小さい声で呟くのを、僕は聞き逃さなかった。
一つの街全体が戦場になっている。
煙の向こうで金属を打ち合うような音。誰かの怒鳴り声や悲鳴、そういった混乱だけがどんどん増えている。
「もうすぐ指定の宿へ着きます。付いてきてください」
屋根の先、煤けた板壁の長屋が見えた。
僕はリナを背負ったまま屋根の端へと走ると、その揺れにリナが咳き込んでしまった。
熱がかなり高くなってきている。僕自身、息が乱れてきているせいで動きが大きくなり、その振動がリナにも伝わってしまうようだ。
作業宿の手前の建物の屋根で、エルシアが短い合図を送った。すると、影からすっと誰かが屋根際へ寄ってくる。相手は何も声は出さず、縄梯子を投げてくる。エルシアがそれを手際よく結んで固定した。
「降ります。急いで」
リナを背に固定していたため、何とかそのまま降り切る。地面に着いた瞬間、一気に脱力しそうになり、足に力を込め直す。
先に降りていたエルシアが梯子を投げてよこした男と話をして、首を横に振っているのが見えた。
「上と連絡が途絶えているみたいです。私たちで考えて行動するしかないです。ここは危険なので、避難所を目指しましょう」
エルシアは即座に判断してこちらに伝えた後、壁際を選んで走り出した。僕はその後をただついていくことしかできない。
角を二つ曲がった先で、街の様子が少し見えてくる。
板を担いだ男たちが走り、路地の入口へ板を落として釘を打つ。別の通りでは鉄棒を二人がかりで引きずり、通りを細くしている。誰も大声は出していないのに、口だけが動き続けている。
道を封鎖している。
煙はさらに濃くなっている。煙突が息を吐き続け、街の輪郭が丸ごと曖昧になる。隠すための煙のはずなのに、今は視界を奪うだけにも思えた。
そのまましばらく進み、大通りを右折した。
その通りに入った瞬間、より炉の匂いが濃くなった。鍛冶場が近い区画なのだろう。
だが、その匂いの中に、別のものが強く混ざっている。湿った獣臭。
エルシアが足を止めた。
煙突の根元、煤が厚く溜まった石畳の隅に、四つ爪の痕が並んでいる。
人の靴跡じゃない。
爪先が石を引っ掻いている。その跡は深く、煤の下の石まで削れて、細い削り跡が数メートルに渡って続いていた。
それも一つではなかった。
同じ方向へ、同じ間隔で幾つもの線が続いている。
よく見てみると、短い毛が散乱している。月明かりを拾って濡れた灰みたいな色に照らされた毛束が、道路の至るところにみられた。
エルシアの顔が、一瞬歪んだ。
驚きを隠そうとして、隠し切れない表情だ。彼女は首を傾け、煙の下の音を拾う。
「……これって、まさか……」
言葉の選び方が変わった。怖さを現場の言葉に変える時の声だ。背中のリナが小さく揺れた。
「……こんな跡を残す生き物――」
僕が言い終える前に、笛が聴こえた。
短く高い、命令の音。
次の瞬間、遠くの方の煙の中で咆哮が揃った。
散っていた唸りが同じ方向へ寄り、石畳を削る音がまとまって聞こえてくる。相当数が多い。
そして、――濡れた目が二つ、煙の中で光った。
エルシアが短く息を吐く。
「……やっぱり、アッシュタイガ……まさか、なんで……」
エルシアの声が、ほんの少しだけ崩れた。
驚きを隠そうとしているのに、隠し切れていない。梟紋の耳で“揃った気配”まで拾ってしまうから、目の前の事実を認める他ないのだろう。
煙の奥からにじり出てきた虎の毛並みは、闇に溶けそうな濃い灰色なのに、目だけが金に光っている。
四つ足のまま頭を上げたその姿を見て、僕は息を飲んだ。
視線の高さが、僕の目線に近い。前脚まわりの筋肉は岩みたいに厚く、首から背中にかけては盛り上がりすぎて怖いほどだ。胴は長く、尻尾は鞭のようにしなって煤を払う。前脚が一歩出るたび、爪が石を噛み、煤の下の石が削れて粉が舞った。
森で見かける獣の延長なんかじゃない。
街の中にいていい“生き物”のレベルを、完全に超えた存在。あれが街の路地を走るだけで、人の逃げ道が壊れる。そんな絵が簡単に浮かぶ。
「あれが……魔物……」
僕が声を絞り出すと、エルシアは前を見たまま答えた。
「はい。Cランクの魔物――アッシュタイガです。このランクの群れは、街を壊滅させると言われています。そんな魔物が街にいていいわけない」
「本来はどこにいる魔物なんだ」
「この辺りで私が知っているのは『ピネンプール大森林』や『翠緑の迷宮』です。二箇所とも、リンドリウムに近いわけではありません」
その説明だけで十分だった。このリンドリウムという街に、遠くの森の奥にいるやうな魔物が、しかも群れで存在している。
エルシアが僕の袖を引いた。
「行きましょう。もうバレているかもしれませんが」
「……分かった」
先にリナを休ませる場所へ連れていく。そのために、今は群れから距離を取る。
煙はさらに濃い。煙突が息を吐き続け、街の輪郭が丸ごと曖昧になる。
隠すための煙のはずなのに、いまは見えない不安だけを増やしていた。
笛の音。
煙の壁が揺れて、薄く引いていく。
アッシュタイガの群れが向きを変えた。
――いや、変えさせられた。
屋根の上、煙の向こう側で、一瞬人影が見えた。口元に細い笛を当て、短く吹く仕草。
それだけで群れの動きが揃う。こちらへ回り込む個体、路地の出口へ回る個体、屋根側へ回る個体。散っているように見えるのに、形が一つにまとまっていく。
エルシアが言葉を落とす。
「あれは……使役者です。笛で群れを動かしている」
僕は奥歯を噛みしめる。追っ手は人間だけだと思っていた。まさか街の中へ魔物を入れて、それを道具みたいに動かすなんて。




