第27話
背後の煙突の中の音が、より大きくなった。
鎖男はすでに扉を壊し、鉄の梯子を上がってきているのだろう。
「急げ、ついてこい。足を滑らせるなよい」
ガルドが先に走る。体重をかければ屋根板が鳴り、鳴った場所へ鎖が先行する。
《鎖蛇》は音で座標を取る。
だからこちらが『どこで音を鳴らすか』が、そのまま追われ方に直結する。
煙は町中に薄く広がっているが、屋根の上ほどの高さではまだ少ない。
日も高いため、煙突や資材庫の影が濃く落ちているところもあれば、影のない明るい場所もある。
「明るい所に出るなよぉ。見張りがいたらすぐ見つかるぞい」
言いながら、ガルドは煙突と煙突の間、資材庫や木箱が積まれた陰を縫っていく。周りからの目線を避け続ける動きだ。
背後で乾いた金属音が一度鳴った。
《鎖蛇》が屋根板に当たった音だ。位置を探るような一撃の後、遅れて鎖の連なりが蛇みたいにしなって伸びる気配がした。
空気が薄く裂ける。
見えなくても、その音だけで攻撃される角度が分かるほど威力。
「来た!」
僕が言い切るより早く、ガルドが足元の木箱を蹴り倒した。中に入っていた釘束がばらけ、カラカラと音が散乱する。
こちらが発する音を一点に集めず、散らすことで《鎖蛇》が追う座標をずらすつもりのようだ。
釘が散らばる音に、《鎖蛇》が反射で跳びつく。
その一瞬の動きがチャンスだ。
「今だ、抜けろい!」
ガルドが振り向かずに叫ぶ。
僕はリナを背負ったまま、屋根板の継ぎ目を跨いで進んだ。
後ろで、屋根板がもう一度鳴った。
ガキィイン――。
すでに鎖男が屋根の上に出てきたのかもしれない。
街の奥の方で笛が鳴ったのが聞こえた。
何かの合図なのか、命令しているのか。そんな音色の笛だった。
煙が低いところで暴れ出し、屋根の上の方まで少しずつ隠れていく。
――リンドリウムの街で何かが起こっている。
もうこれは追跡じゃない。潰しに来ている動きだ。
「……帳簿のせいか」
僕が息の隙間で言うと、ガルドは走りながら舌打ちした。
「だろうよ。こいつは本来、虎を表で叩くための切り札だった。だから、ギルドに入ったら終わる――虎の連中が競り場との間で人と汚い金を取引していた証拠だからだろい」
レンの派閥が、一気に取り返しのつかないところまで段階を飛ばしてきた理由はこれか。
「この帳簿がギルドに入った瞬間、お前らもこいつを『見た側』になる。奪い返すんじゃねえ。口を塞ぎに来るぞい」
この街を壊してでも――。
「しかし、早すぎる。……こっちの動きがどこかで漏れてるのだろう。味方の穴か、相手の穴か――どっちにしろ厄介だぞい」
僕らが帳簿庫に着いてからそう時間は経っていない。つまり、すでに鎖男が追ってきていた計算になる。
その情報の早さから考えると、裏切り者が上層部にいる可能性を否定できない。
雲のように流れる煙の中に、屋根と屋根の隙間が見え、一瞬下の路地が覗く。落ちたら助からない高さで、足が止まりそうになる。
ガルドが一度だけ振り返り、目線だけで僕の足元を刺した。
「飛べる。止まるな。行くぞい」
僕はリナの体を抱え直し、力を足にしっかり込めて跳んだ。着地で音を出さないように膝を殺し、足を置いて流す。
人一人背負って、これだけ動けるとは思っていなかった。これも紋章の力なのだろうか。
リナの肩が僕の背中に当たり、熱が伝わる。息が浅い。早く横にして休ませてあげる必要がある。
再度、背後で《鎖蛇》が空を裂いて追ってくる音がする。その瞬間、ガルドに引っ張られて進路を曲げ、煙突の陰に隠れた。
ガルドが低く言う。
「もうすぐこの辺りに迎えが来るはずなんだが、いないぞい」
迎え? 他にもギルド側の誰かが来るってことか。
疑問が浮かんだ瞬間、足音が屋根板の上に乗った。一定の速さで無駄がない音が近づく。
奥にあった煙突の影から女が出てくる。
短い茶髪で首に黒い布を巻き、背中にはショートボウと矢筒を背負っている。
視線が速い。僕とリナ、ガルド。屋根の端から煙の流れ、背後の金属音まで――全部を一息で測る。
「動けますか?」
落ち着いた声だった。命令じゃないのに、言葉の目的がはっきりしている。
「私はエルシアです。ギルドより現場を預かってきました。虎紋が表で暴れ始めましたので、帳簿を回収する作戦が変更されました。アーテル君、リナさんはこちらへ」
変更という言葉が、やけに重い。
表で叩けない相手がいる――そういう重さだ。
「競り場は中立の顔をしてます。正面から叩けば、街が燃えます。だから帳で崩します」
ガルドが胸を張りかける。
「俺はガルド、ギルドじゃ――」
「知っています」
エルシアが平坦に被せた。嫌っているわけじゃない。ただ温度がない。余計なものを余計なものとして扱う距離だ。
ガルドがわざとらしく肩をすくめる。
「相変わらずノリが悪ぃな、梟紋の姉ちゃん。久しぶりだろい?」
「久しぶりではありません。ガルドさんと現場で会うのは少し前の仕事以来です」
エルシアはそれだけ言い、すでに視線を背後へと戻していた。
ガキィイン――。
《鎖蛇》が位置を取って打ち付けた音。鎖がこちらへ向く気配がした。ガルドが小さく舌打ちする。
「ほらな。声を出すと来るぞい」
エルシアが即座に言った。
「向こうの狙いは、この二人と帳簿、両方です。集まっていると逃げ切れません。帳簿はガルドさんが持って行ってください。二人は私が連れていきます」
すでにガルドの背に帳簿が固定されているため、そのままガルドが持つのが一番早い。だが、このまま狙われ続けることになる。
そんな心配にガルドが僕を見ると、目だけ真剣になる。
「誰のせいでもねえ。任せておけい」
僕は頷いた。
「……頼む」
ガルドが口の端だけで笑う。
「そっちもな。鎖は俺が引くぞい」
言ってから親父臭く笑った後、付け加える。
「俺は狸紋だ。逃げ足だけは任せろい」
エルシアが平坦に返す。
「頼りにしています」
その丁寧な返答に、ガルドが「後でな」と小さく返し、屋根の端へ走った。わざと音を鳴らす。追う耳をそっちへ寄せるためだ。
その瞬間、鎖の擦れ音がガルドの方へ向かい、僕らから外れる。
エルシアが小声で僕の袖を引いて言う。
「今です、アーテル君。リナさんを落とさないでください」
僕は腰紐でリナの体ごと自分にしっかりと固定してから、エルシアの後を追う。
エルシアは屋根の上で大きく旋回し、ガルドとは反対方向へ走る。煙の濃い側、視界の潰れる方を選んでいく。
背後でガルドの笑い声が小さく聞こえた。わざとらしい笑いだ。追う側へ、自分の位置を示している。
その直後、金属がもう一度鳴った。
ガキイイイン――!
屋根に《鎖蛇》が打ち付けられる音。
僕は振り返りたい衝動を噛み殺し、前だけを見た。
ここで足が止まったら、ガルドの動きが全部無駄になってしまう。




