第26話
鍵穴に触れる音が、もう一度鳴った。
――カチ、カチ。
帳簿庫の内側――棚が並ぶ狭い保管室。
壁の魔灯は薄暗い光を放ち、革表紙も麻袋も、全部が同じ暗い色に沈んでいる。出口は入ってきた扉しかないのに、その向こうに誰かがいる。
――カチ、カチリ。
細い針みたいなものが鍵穴に差し込まれ、回らずに確かめるだけの動きをした。こじ開けるのではなく、中の抵抗を読む手つきだ。
扉を壊さずに開けようとしているということは、相手も見つかりたくはないのだろう。
だからこそ、余計に質が悪い。
すぐに針が抜かれる音がして――鍵が回った。
――コトン。
扉がほんの少しだけ動く。蝶番が息をするみたいに鳴り、隙間から魔灯の光が細い刃になって床を照らした。扉が開いたら終わりだ。
僕は反射でリナを背に庇いながら、腰の小太刀――朧差の柄に手を掛けた。
ゆっくりと扉の隙間が指一本分、さらに広がる。
その瞬間、リナが僕の袖ではなく視線で棚の奥を示した。
棚の最奥――壁の角。そこだけ煤の乗り方が薄く、周りの板と木目の向きが微妙に違う。隠し口だろうか。
扉がさらに開きかけたとき、僕は棚の足元にあった木箱の破片を掴んだ。角が欠けた薄い板切れ。
それを地面に落ちていた麻布の切れ端に包むと、即座に扉の下部の隙間へ一気に差し込んだ。
――ギリリッ、と木が噛んで扉が止まった。
扉が開いた隙間は指二本分。人間の肩が通る幅じゃない。外の誰かの『手』が押しているようだが、それ以上は開かない。少し時間が稼げる。
僕はリナの肩を支え、棚の奥へ走った。棚板の影に入ると光がさらに減る。リナが膝をつき、壁板の輪の上で指を止める。
「……留めてある」
声が掠れている。僕は朧差の柄から手を離し、リナの背に手を回した。
「いけるか」
リナは一度だけ頷いた。
背中の扉の方で金属が鳴った。
その直後、どこかで聞き覚えのある金属の気配がした。じゃらりと金属が地面に落ちる音だ。
嫌な予感が胸を刺す。
鎖で思い出したのは、最初の森で会った黒いハットの男――鎖男。
その間に、リナの指が空中で止まり、ゆっくり落ちた。
「……《解綻》」
板の内側で金属の張りがほどける気配がして、留め具が外れた。
――カチリ。
その音は扉のきしみと重なって消えた。僕は鉄の輪に指を掛け、壁板を静かに引く。罠はなかったようだ。
壁板が外れた瞬間、冷えた空気が流れ込み、煤と乾いた灰の匂いが喉に貼りつく。
隠し扉の向こうは縦に伸びる、狭くて暗い空間だった。
人ひとりがやっと通れる幅で、内壁は煤で真っ黒だ。そこの内壁に、鉄の段が規則的に打ち込まれている。
固定された梯子――上へと伸びる抜け道。
廃炉の煙突に繋がっている。直感的にそう思った途端、扉の方で金属が擦れる音が大きくなった。
次の瞬間、扉の隙間から銀色の鎖がじゃらりと伸びてきた。
ただの鎖じゃない。輪の連なりが蛇みたいにしなって、先端が小さく揺れながら空中で探る。
何かを引っ掛けるための爪みたいな形状だ。
扉が開かなくても、鎖であれば隙間から入れる。だから声も足音もなく忍び寄ってこれる。
相手がこちらの位置を座標として掴み始めたのが分かった。
僕は息を細くし、梯子へ手を掛けた。
リナを先に行かせ、僕は下から支える形で登っていく。数段登ったとき、突然ぐんっと体ごと下へ引かれた。
抱えた帳簿がずれそうなり、腕の中が急に重くなる。咄嗟に、抱え直しながら下を見ると、帳簿を包んでいた布の余りが脇の下から垂れていて、そこに鎖蛇の先が噛み付いている。
「くそっ。離れない」
引きが強い。綱引きみたいに確実に引っ張って取る力だ。
このまま引かれ続けたら、帳簿ごと奪われるか、僕の身体ごと引き落とされるか――どちらに転んでも終わりになる。
「リナ、先に行け!」
リナは一瞬こちらを向くが、言葉は発さず頷いてから登っていく。
鎖の連なりが蛇みたいにしなっている。一本で無理なら、すぐに何本でも出してくる――その確信がある。
その前にこの鎖を切断する。
僕は梯子に腕を絡ませて、自分の体で帳簿を固定する。
その状態で片方の手で朧差を握る。
ロンネスに言われた持ち方で、刃を鞘口から滑らせる居合いだ。しかも、片手だけでそれをやらなければならない。
胸の『黒紋』から力を集中させ、刀身の表面に纏わせていく。
次の瞬間、僕は一歩も動かさずに片手で『抜き』を放った。
キシィィィイイイン―――。
甲高い音の後、ふっと軽くなる。
鎖蛇の根元が断たれたため、そのタイミングで包布から帳簿を取り出し、噛みつかれていた布は下に落とす。
僕はリナの位置を確認し、すぐに梯子を登り始める。休んでいる暇はない。
梯子は冷たく、煤が指にべったり付いて滑りそうになる。足も同様だ。
さらに、息を吸う度、狭い煙道の汚れが喉へ落ちてくるため、咳が出そうになる。
リナは五段、六段と先に登っている。リナも足が滑りそうになる度に、掴み直して耐えていた。
下で金属が一度だけ鳴った。復活した《鎖蛇》が煙道の下縁に触れた音だ。
僕はより速度を上げて登り続けていると、上から冷たい風がより直接体に落ちてきていることに気付いた。
夜気だ。地上が近いということ。
視界の先に丸い鉄蓋が見えてくる。出口を塞ぐ蓋で、内側に留め具が二つある。左は古い鉄色、右は新しく黒い刻みが入っている。
僕は一瞬、リナの方を見上げた。
これまでずっと解除はリナに頼ってきた。だから反射で「外せるか」と聞きそうになる。
でも、今のリナは限界に近い。ここで無理をさせたら、上へ出る前に倒れてもおかしくない。
「……やる」
リナが息を吸って言いかけたのを、僕は止めた。
「いや、大丈夫だ。僕がやる。少し端に寄っててくれ」
留め具の位置を目で測る。蓋そのものに罠があるわけじゃなそうだ。これなら僕の出番だ。
僕は指先を留め具へ向ける。
「行くぞ、《黒穿》!」
留め具ごと蓋が吹っ飛んで消えていく。
同時に街の匂いが一気に流れ込んできた。
「あと少しだ」
出口の縁に手を掛ける。
そのとき、突然上から手が伸びてきた。
リナが掴まれ、引きずり上げられる。僕もすぐに後に続いた。
「はいはい、遅い遅い。侵入者の速報があったからな、ここで待ってたんだぜい。煙突から出るって発想は百点。でも遅い。減点だぞい!」
屋根に出た瞬間、男が喋りまくる。
声が軽い。腹立つくらい軽いのに、手の動きは無駄がない。
外の日の光に一瞬目が眩しすぎて見えなくなったが、徐々に慣れてくる。
目の前にいた男は、煤けた帽子に短い外套を羽織り、帽子から飛び出した灰色がかった髪の毛がちらっと見える。口元は愛想よく笑っているのに、目の奥が笑ってない。
男は僕の顔より先に、煙突の穴を覗き込んでから、こちらを向き直る。
「俺はガルド。ギルドじゃない。ガ・ル・ド。ややこしい? だよな、ははは」
親父みたいに笑ったかと思うと、いきなり真顔に戻る。
「説明は後。今は逃げる。……というか、逃げないと死ぬぞい」
それを聞いてか、リナはもう体が限界だったようで、思わず座り込みそうになる。
「おいおい、座るな。座ったら寝る。寝たら運べない」
ガルドは軽口みたいに言いながら、実際は迷いなくリナの脇へ手を差し入れ、膝が折れない角度で支えた。
優しく扱うと遅れるから乱暴に見えるのに、頭だけは絶対にぶつけさせない手つきだ。
「息、浅いな。熱があるぞい。……時間はねえが、壁に寄れ。そこで座って少し休めい」
「……ありがとう」
リナが掠れ声で言うと、ガルドは一瞬だけ固まってから、急に早口で誤魔化した。
「礼はいらん。現場の癖だ。癖。俺は基本、優しくないぞい」
僕が息を整える間もなく、ガルドは煙突の穴へもう一度顔を寄せた。覗くというより、耳で中の金属の擦れ方を拾っている。
「……下の鎖、もう段を噛んでるぞい。あーいう、仕事が早いやつ。嫌い」
言い終わる前に、煙突の縁がかすかに鳴った。
金属が触れた乾いた音で、次に輪の連なりが梯子に擦れる気配がする。
ガルドは僕の腕の中――帳簿を一瞥して、顔をしかめた。
「それ、むき出しは駄目だ。最悪だ。こっちに寄越せい」
僕は帳簿を渡す。ガルドの動きは速い。
腰の袋から黒い油布を引き抜き、帳簿を一息で包むと、背へ回して胴の帯で固定し、肩に掛ける形を避けた。
「これがギルドに渡ったら、虎は困るじゃ済まん。上が動く。だからレンは今夜で取り返すしかない。結果として、街ごと潰すことになっても」
僕は両手が空いたので限界そうだったリナを背負う。
「……アーテル、ごめん」
「何言ってるんだ。リナのおかげでここまで来れたんだから、あとは任せてくれ」
ガルドが屋根から下を覗いたあと、端を指差して短く続けた。
「走るぞい」
「走るって……この屋根の上を?」
「そう。はははっ、意外といけるぞい」
一頻り笑った直後、目だけが一気に冷たくなる。
「喋ってる暇はない。……来るぞい」
煙突の縁で、銀色が一瞬だけ光った。鎖蛇の爪が空中で揺れ、何かを探るみたいに向きを変える。
ガルドが屋根板の上から何かを蹴った。古い木箱の中身をひっくり返したのだろう。釘束がばらけてカラカラ、と音が割れる。
鎖蛇が反射でそちらへ跳んだ。拾うように噛み、ほんの一拍、動きが止まる。
「今。止まるな。止まったらあれに噛まれるぞい」
ガルドは言いながら先に走り出した。
屋根板は所々踏めば音が鳴りそうだったが、ガルドは足を置くようにして、鳴る前に体重を逃がしている。
「なるべくでいいぞい。俺の後についてこい」
僕はリナを背負ったまま、その線をなぞっていく。
背後で、煙突の中から金属の擦れ音が加速する。鎖男が上がってくる。




