第24話
最初の分岐を左へ踏み出そうとした瞬間、急にリナがしゃがんだ。
「アーテル、待って」
リナが石床へ指を伸ばす。触れるというより、目地の違和感を拾っている指の動きだ。
この通路の魔灯の光は弱い。この明るさでは、煤と石が同じ灰色になって、細いものほど見えにくい。
その灰の目地に、一本だけ『光る筋』が走っていた。
糸じゃない、金属線だ。髪の毛くらいの細さで、踏み出す位置に渡されている。
「……罠か?」
「たぶん。引っかけると、どこかで鳴る」
鳴子。あるいは、音を合図にして『誰か』が動く類のトラップだ。
僕は思わず周囲を見回したが、見張りなどの気配はなく、通路そのものは静かすぎるくらいだった。
「……あの老人、嘘ついたのか」
「嘘というより――『通れるかどうか』を見てるんだと思う。ここで引っかかるなら、その先は無理ってこと」
リナは細線の先を目で追う。線は壁の下、石の欠け目に入り込んでいた。古い坑道に、後から足された細工だ。
「跨いで越えるだけなら……」
僕が言いかけたところで、リナは首を振った。
「試されてるのなら、今から外す」
言い切る顔が、もう『仕事』の顔だった。
リナは石の欠け目の縁を爪先で軽くこする。灰が落ちて、薄い銅板がうっすらのぞく。
「古い石に、新しい金具」
石や煤の暗い色の中で、その銅の金具部分だけが少し浮いて見えた。
リナは深く息を吸って、銅板の縁へ指を当てる。
「……《解綻》」
派手な光はない。
ただ、金属の『張り』だけが、目に見えない手でほどけていくように落ちた。
カチ、と小さな音。細線の緊張が抜けたのがわかる。
リナはそのまま二本指で細線を持ち上げ、石の割れ目からゆっくり抜き出した。最後に壁側の留め具を外し、地面へそっと寝かせる。
「これで鳴らないと思う」
リナは大きく息を吐き、額を押さえた。
力を流した直後の薄い頭痛で、顔色が一段白くなっている。
「大丈夫か」
「うん。……でも、長くは続けられないかも」
それが本音だろう。僕は頷き、彼女の足元を見た。
「……すごいな」
「まだ一個目だよ。たぶん、これからが本番」
その言い方が嫌に現実的だった。
こういう罠にも気を付けなければならないのか。
僕らは左へ進むと、通路は途中から少し狭くなり、片側の壁が木板に変わった。
使われなくなった坑道を後から保管路として引き継いだのだろう。進むにつれて、釘の頭や板の継ぎ目、古い補修跡が増えてくる。
足音も変わる。石の乾いた音に、木の下の空洞が混じり、音の跳ね返り方がぶれる。あの老人の言った通りだ。音が響く場所と吸収される場所が点在している。
三つ目の分岐を真っすぐ進んですぐ、前を行くリナが立ち止まった。地面を凝視している。
「……ここ、端を歩いて」
「何かある?」
「真ん中だけ、板が違う」
言い切る前に、リナの視線が再び地面を見た。
そのとき――リナの瞳に、薄い金色が差したのが分かった。
僕はしゃがんでリナの視線の先を見つめる。ぱっと見では同じ木板だが、ずっと見続けていると中央だけが木目の流れが微妙に新しいことがわかった。
それに、釘の打ち方も浅い。――つまり、後から『替えた板』だ。
僕は先に通路の端へ足を進め、周りの板に体重をかける。軋みは小さい。次にリナの手をとって支え、僕の後ろをついてきてもらう。
渡り切ったところで、リナが小さく息を吐いた。
肩がほんのわずかに落ちる。汗で前髪が額に張りついていた。
「ありがとう」
「僕は何もしてない。罠を見つけたのはリナだ」
そう返すとリナは少しだけ目を伏せた――そのときだ。リナの瞳が、また一瞬だけ黄金に滲む。
「リナ、その目――」
呼びかけた瞬間、瞳の金が消え、朱色が戻る。
リナは何もなかったみたいに瞬きをして、こめかみを押さえる。
「……注意してると、勝手に視えてくる」
「だから罠がすぐ分かってたのか」
「そうみたい。仕掛けの『解き方』だけが、浮いて見える。……危ないところないかなって思ったら勝手に」
言い終わった直後、リナは小さくふらついた。
僕が支えると、彼女は力なく笑ってもう一度だけ息を吐いた。
「だから……余計、疲れてるんだと思う。うまく制御できない感じ」
リナの頬がさっきよりも白くなっている。
「すごい能力だ。ただ、慣れるまではきついな⋯⋯」
「うん――早くこれ終わらせないとね」
リナは前を真っ直ぐ見て、すぐに歩き始める。
「無理そうならすぐに言ってくれ。背負うでも何でもするから」
リナは頷いてから、僕の前を進んでいく。
いくつもの分岐や狭い道を超えて、ようやく老人から言われていた七つ目の分岐ポイントにたどり着いた。
その分岐点は空気が一段と冷たく、湿気も増えてきているように感じる。
石の壁に触れると、指先がすぐに冷たくなった。
左右の分岐のうち、下へ向かっている右側の通路を進んでいくと、数十歩ほどで目の前に扉が現れた。
鉄張りの木扉。鍵穴は中央に一つ。
見た目はただの古びた扉なのに、近づいた途端、少し嫌な感じがした。
契約という縛りがあるときの感覚――契印。
競り場で、リナの首に嵌められた『封緘の首輪』を見た時のことを思い出す。
僕は扉の前で止まり、リナに向かって小さく言う。
「ここが帳簿庫か」
リナも頷くが、すぐには鍵穴へは手を伸ばさない。
先に鍵穴の周り、蝶番、扉枠の四隅、地面との境目などを見ている。
「……後から足したのは――こっち」
リナが示したのは鍵穴ではなく、鍵穴の右上だった。
黒い塗料みたいに見えていた小さな染みだ。よくよく近くで見てみると、その染みの中に細い紋線がいくつも走っていた。煤色に合わせて目立たないように隠されている。
「開けると反応する警報かな? 鍵を回した瞬間に何かが起こるんだと思う」
「……じゃあ壊すか?」
口に出しながら、僕は自分でも否定していた。
扉ごと《黒穿》で落とせば早い。なのに、それが正解とは思えなかった。
リナも首を横に振る。
「扉を壊すのはだめだと思う。それを防止する細工もあるはずだから」
「……そうだな。じゃあどうする?」
「警報の線だけを切る」
リナは鍵穴の下へ指を当て、目を閉じて呼吸を整える。
何回も使わせたくない。僕は《朧差》の鞘へ手を添えたままリナの体を支える。
「アーテル。右上の黒い染み、その真ん中じゃなくて――左端。針穴みたいに細いところ、見える?」
僕は近づき、目を凝らしてよく見てみる。
煤色の筋の中に、わずかに色が濁った点があった。墨の黒とは違う、もっと沈んだ黒。
「……うん、これか」
「そこだけを壊してほしい」
僕は頷いた。《黒穿》は『潰す』には向く。でも今は潰しすぎたら他が反応して終わりだ。必要なのは力じゃない、技の制御だ。
僕は指先に黒を集中すると、針のように細くしてから点を撃った。
――パキ。
まるで爪先で米粒を割ったみたいな小さな音。
黒い染みの左端だけが――ほんの一点のみが――灰になって消えた。
直後、扉の中で何かが走りかけて止まる。
金属質な震えが一度だけ伝わってから、止まった。
リナが安堵の息を吐く。
「……いける。今なら鍵で開くと思う」
僕の掌にじっとり汗が浮いた。
老人から渡された鉄鍵を差し込み、ゆっくりと回す。
重い。途中で一度止まる。
そこでリナが鍵穴の脇へ指を添え、ほんの少しだけ力を流した。
コトン、と内側の噛み合わせがずれた。
鍵が最後まで回る。扉はきしみながら静かに開いた。
向こうから、冷えた空気が流れてくる。
紙の匂い――というより乾いた紙とインク、埃が混ざったような感じだ。
「……よかった。通れた」
リナの声には達成感より先に疲労が混じっていた。額に汗が浮いている。
少し熱が戻りかけているのかもしれない。
「ちょっとここで休むか?」
「まだ大丈夫。中に入って終わらせよう」
強がりじゃない。自分の体力や状態をしっかりみながら言っている。
僕は扉の向こうを見て、手を差し出す。
「じゃあ、先に進もう」
リナは頷いて、その手を取った。




