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第22話

 

 リンドリウムの朝は早い。

 すでに炉には火が入り、煙が出ている煙突もある。

 早朝というのに、今日は色々な音が混じっている。

 急ぐ足音。短い怒声。路地の先で止まる気配。見張る側も合わせて動く足運び。


 カスミの《影帳》がなければ、僕らはすぐに目立ってしまっていただろう。


「止まらないで。左。次、段差」


 声だけが耳元に落ちる。

 見えない案内に合わせて進む。路地を二つ、角を一つ。煤けた壁の陰を縫うたび、靴底が砕けた石や金属片に触れる。音は消えているはずなのに、鳴りそうな感触だけが足裏に残る。


 背中のリナが、かすれた声で言う。


「……重くない?」


「重いほうが安心する」


「それ、安心の言い方、変だよ……」


 もうしっかり目も覚めたようで、返せるくらいの余裕はある。

 古い溶鉱区画の外れで、カスミの声が止まった。


 目の前には、ただの外壁に見える煤けた建物。

 ただ、よく近づいてみると古ぼけた窓があった。格子は錆び、窓枠の木は煤を吸って黒い。触れば指が汚れそうだ。


 カスミの指が窓枠を軽く叩く。間を置いて二回。

 内側で金属が擦れる音がしたかと思うと、鍵ががちゃりと音を立てて回った。

 隙間から漏れた気配は冷たかった。


「例の子どもか」


 中から声がする。顔は見えない。


「私はここまで。あとは貴方たちで行って」


 カスミの声が少し離れる。


「助かった」


「礼は終わってからでいい」


 それだけ残して、気配が消えた。

 それを待っていたのか、窓がゆっくり開く。


 煤の匂いの奥に、紙と乾いた木の匂いが混じる。古い書庫みたいな匂いだ。中は日の光が入らないように隠され、暗い。人の姿は見えないが、視線だけは確かにそこにある。


 僕は一度小太刀の位置を確かめる。鞘の感触を指でなぞってから、リナと一緒に窓を潜り抜けた。


 中はどこに何があるのか、物の配置すら分からない異様な暗闇。床の高さも、壁までの距離も、声が出るまで掴めない。


「“雷”と“影”から報告は受けている。価値は示したと」


 突然、距離の読めない声が響いた。男か女かも分からない。わざとそうしている声だ。

 僕が返事をする前に、細長い物体が足元へ転がってきた。

 拾いあげると、それは掌に収まるほどの大きさの金属製の棒印だった。


「それが『印』だ。次の場所で見せろ。通行の証明になる」


 謎の声が続ける。


「依頼は一つ。ある物を持ってきてほしい」


「ある物……?」


「ほしいのは『帳簿』だ。これからその帳簿がある場所に行き、取ってきてもらう。途中で迷えば戻れない」


 脅しているようで、脅しだけじゃない言い方だった。

 試している。踏めるかどうかを。

 僕は鉄の印を握ったまま聞く。


「……報酬は?」


 暗闇のどこかで、息だけの笑いがした。


「“雷”が気に入った理由が少し分かった。そうだな、報酬は君たちの命――生存の可能性、といったところか。――それ以上を欲しがるなら、まず力と誠意を見せろ」


「その帳簿をどうする気だ?」


「知る必要はない――と言うところだ。だが今回、君たちは関わりすぎた」


 声が少しゆっくりになる。


「競り場と虎紋派閥は、持ちつ持たれつの窓口がある。どこで、誰が、何を、いくらで流したか――帳は全部書く。帳簿は『血の流れ』だ。辿れれば、敵の腹が見えてくる」


 言い方が乾いている。正義でも怒りでもない。必要な線だけを引く声だ。

 そして、その線の先にいるのが競り場でも虎でもないことが、次の一息で分かった。


「だが競り場全体を敵に回す気はない。中立の看板は守らせる。問題は中にいる。虎に窓口と金を貸した連中だ。控えの帳でも、そいつらだけは表で縛れる」


 表から殴れば、こっちが先に悪者になる。

 だから先に、足場を削る。街を守る側のやり方だ。


 僕は一歩だけ踏み込む。


「……やることは分かった。だが、そもそもなぜリンドリウムに競り場の帳簿がある?」


 暗闇のどこかで、小さく指が机を叩く音がひとつ。

 迷っている間じゃない。どこまで言うかを測っている間だ。


「まぁいいだろう」


 声が落ちる。少しだけ近く聞こえた。


「まず、競り場には動かさない本帳が別にある。リンドリウムにあるのは、その一部の控えだ。流通と清算のための中継の控帳。鉄と灰の街を通るものは、結局ここで勘定に載る」


 息だけの笑いが混じる。


「君は見たはずだ。封緘の首輪や封印鎖を。ここらで使われる魔道具はリンドリウムで作られる。金も鉄もこの街を通る。だからどこで誰が買ったかといった、『血の流れ』もここに残る」


 声が一段低くなった。


「追跡を恐れる連中ほど、現場から少し離した場所に控えを隠す」


 僕はもう一つ重ねて問う。


「そんな重要なものなら、どうやってそこを開ける?」


 暗闇の声がまた笑った。

 次の一言は、さっきまでよりはっきりと試す色を含んでいた。


「帳簿庫を封じるのは契印だ。普通は開けられない。盗れたとしても、開けた瞬間に警報が鳴る」


 短く切って、最後に置く。


「――ただ、君たちなら可能だろう?」


 すでに僕たちの話は知っていると言わんばかりだ。こちらの情報が筒抜けのようだ。

 それ以上、声はしなくなった。闇はまた、最初から誰もいなかったみたいに黙る。

 僕は鉄の印を握り直した。


「行こう」


 行くしかない。最初から理由なんて関係なかった。

 僕らの道はすでにもう前へ進んでいる。



 窓から建物外へ出ると、また空気が薄くなった。 

 カスミが姿を見せないまま、すぐ横で言った。


「話、早かったね」


「けっこう長かったと思うが。……次の場所は?」


「印を持って行けば、途中まではちゃんと送る。一度薬師に話しに戻るよ」


 影の膜に包まれ、ロンネスの家までたどり着く。

 板戸の前でゆっくりと膜が剥がれ、煤と薬草と油の匂いが一気に戻ってきた。現実の匂いだ。


「……それで、どうなった。説明しろ」


 ロンネスは鍋を火から外しながら言った。こっちを見る前に手を止めない。


「ギルドの裏から仕事を投げられた。帳簿庫に繋がる迷路へ行けって」


 僕は受け取った鉄の印を見せる。

 ロンネスの目が細くなる。警戒が混じっている顔つきだ。


「印か。……どこの口を通る気だ」


「そこまではわからない」


「裏らしい、気に食わねえやり口だ」


 そう言いながら、ロンネスはリナを見る。


「次も連れてくのか」


「たぶん《解紋》が必要だ。契印を開ける前提で動いている。そう指示があった」


 ロンネスが舌打ちした。


「嬢ちゃんはまだ峠を越えただけだ。越えたあとに落ちるやつもいる」


「分かってる。でも、開けられなきゃそこで僕ら二人とも詰む」


 しばらく黙ったあと、ロンネスは棚から小さな布袋を取った。中で瓶が二つ鳴る。蓋を開けなくてもきつい匂いがする。


「あと二回分ある。必要なときには飲ませろ」


「……分かった。リナ、行こう」


 僕が言うと、リナは一度まばたきをして、呼吸を整えてから頷いた。


「もちろん、役に立ってみせるよ」


 それから僕の顔を見る。


「ごめん、まだ歩くの遅いかもだけど」


「遅くていい。倒れるほうが困る。歩けなくなったらその時点で背負うから」


 言ってから、もう一つ今の方針をつけ足す。


「何があってもリナは守る。そこだけは先に決めてる」


 リナは驚いたように口を開けて、目をパチパチと瞬きしている。


「おい、そういうのは二人だけでやれ」


 僕は布袋を腰へ差し、鉄の印をポケットへ入れた。

 室内の空気がまた一枚薄くなった。背筋を撫でるような、隠される前触れ。


「もう時間がない。外、塞がれ始めてる」


 ロンネスが小さく舌打ちする。鍋の火を落としながら、顎だけで外を示した。


「アーテル、ここには戻るな。わかってるな?」


 ロンネスが念を押す。


「生き残れる方へ進め。……それで、ちゃんと全てが終わったら――」


「わかってる。借りている金は返す」


「ちげえよ! リナと一緒に戻ってこい。すべて終わらせてからな」


「……ありがとう、ロンネス」


 僕らは短く返して、戸口へ向かう。

 板戸が開くと同時に、街の朝が息を吐く。

 もうすぐ日が昇り始める。そんな明け方のリンドリウムの朝――煙がまだほとんどない時間帯の空は、遠くまではっきりと見ることができた。


「行くよ。――《影帳》」


 次の瞬間、世界がさらに薄くなる。足音が消え、街の音が一枚向こうへ離れる。


 僕らはギルドの依頼を遂行するための最初の一歩を踏み出した。


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