第18話
「《影帳》」
死を覚悟した瞬間、身体がふっと軽くなった。
足が地面を失い、次の瞬間には誰かの腕の中に収まっていた。
――細い腕。だけど、抱え上げる力に迷いがなく、動きも速い。着地の衝撃がほとんどなかった。
周囲の世界は、まるで水の中に入ったかのように、分厚く覆われている。
足音も、衣擦れも、ほとんど聞こえない。
周囲の光が遠ざかり、雷光は視界の端で置き去りにされていく。
――世界のほうが、僕を見失っていく?
鼓膜の外側に膜が張ったみたいに音が鈍り、匂いが薄れる。雷撃で焦げた空気も、鉄の熱量も、すべて。
自分のことが感覚的に遠い。代わりに胸の奥で、心臓の打つ音だけがやけに生々しく響いていた。
僕は咄嗟に、懐を確かめる。
薬師から預かっていた荷物は確かにある。それを確認しなくては、ここに存在していないかのような錯覚を起こしていた。
自分を抱えているのは、女のようだった。
フードを深く被っていて顔が見えない。
――視界が一度だけ現実とリンクした。
見覚えのある瓦礫。折れた鉄骨に崩れた壁。
彼女は僕を影のさらに奥へと滑り込ませる。そこへ押し込むというより「隠される」ような感覚がした。
そこは世界から隔絶された小さな空間だ。
何も説明がない。
彼女がこちらを一瞬見た。
フードの影から覗く目だけが、驚くほど冷静だった。
――この人に対して隠し事なんて無理だと、本能的に気づかされるような感覚。
「それで、ギルドへの渡し物は持ってるの?」
彼女はほんの少しだけ首を傾ける。
「持ってきてる。渡す間もなく攻撃されたんだ」
「……はぁ、そうよね。その件は、本当にごめんなさい。誤解というか、誤解ではないんだけど⋯⋯。あいつのせいね」
彼女は大きくため息をつくと、少し顔を寄せてくる。
距離がとても近い。フードの縁から、深い緑色の長髪が一瞬だけ見える。
「じゃあ、それ渡して」
僕は懐から袋を出して手渡す。
彼女は受け取った後、指を一本立てた。次に、二本。それから指先を地面につけて何かを唱えた後、僕の傍から一瞬で消えた。
静かな空間。
周りの音はくぐもって聞こえる。
そのとき、影の空間が揺れた。
――雷鳴が轟くと同時に、あの男がやってきた。
近くにいるのに、遠くの方から声が聞こえてくる。
「すまん。やりすぎた」
軽い口調なのに、変な言い訳がない。
「⋯⋯シヴァ、依頼の場では遊ぶなって何度も言ってるよね」
「何も言えん」
シヴァと呼ばれた男が押し黙る気配が、音の膜の向こう側から透けて届く。
「一個いいか? あいつ、勧誘しようぜ。すげえ面白いから」
「ちょっと、落ち着いてよ。本気で言ってるの?」
「お前も隠れて見てたんだろ。俺の速度についてこられるやつがどれくらいいる?」
少しの沈黙が流れる。シヴァはさらに続ける。
「それで、どこに隠したんだ?」
声が少しだけ低くなっていた。僕と戦っていたときの遊んでいる温度じゃない。
フードの女の方も冷静な声。
「それを私が言うと思う?」
「じゃあ勧誘自体、カスミは賛成か?」
「それこそ簡単に決めるものではないわ」
フードの女はカスミというらしい。
彼女の一言は鋭かった。
また、少しの沈黙――次の瞬間、シヴァが突然笑いだした。
「わかった、わかった。どうせまたどっかで会うだろ。勧誘はそんときにする」
カスミは何も返さない。返さないままでいると、足音が離れていく。その後、雷鳴が遠くのほうで響いたのが聞こえた。
数分ほど経ったのか、ほんの数秒だったのか。時間の感覚がまったくない。
周りの膜が破れたような感覚がして、僕はようやく現実に戻ってこられた。
――音が戻り、匂いが戻り、世界が僕を思い出した。
「歩ける?」
現実世界で、カスミの声を初めてはっきり聞いた気がする。
僕はゆっくり頷いた。脚はまだ少し痺れているが、動けるだろう。
歩き始めると、瓦礫を踏む音が彼女の足元ではまったく鳴らないことに気がつく。僕だけが世界に音を落としている。
隠密とはカスミのような人のことを言うのかもしれない。
数十歩。数百歩。
折れた鉄骨の迷路を抜け、崩れた壁の陰を縫い、いつの間にか廃炉の骨格は背後に遠ざかっていた。
彼女は立ち止まると、振り返らずに言った。
「そうだ、名前」
沈黙が続く。
彼女は急かさない。ただ、言うまでいくらでも待ちそうな雰囲気なので答えることにした。
「⋯⋯アーテル」
いきなり殺されかけた相手の仲間に名乗る。
「私はカスミ」
彼女は歩き出しながら続ける。
「さっきの男はシヴァ。雷紋師。あなたのこと気に入ったみたいだけど、気にしないでいいから」
僕は息を飲む。気に入った――という言葉が、今の場面では脅しに等しい。
「⋯⋯二人は、味方なのか?」
僕が問うと、カスミは肩越しに一度だけ目を向けた。フードの影の中の綺麗な目が、少しだけ冷たくなる。
「もし貴方が私たちの敵なら――シヴァを止めなかったわ」
それだけで十分だった。
僕らはしばらく無言で歩く。遠くの雷鳴が、まだ背中を追ってくる気がして落ち着かない。状況を整理するために、少し質問してみることにした。
「あいつは――シヴァはどれくらい強い?」
敵ではないことは分かったが、味方ということにはならないだろう。だからこそ、この世界を測る強さの基準として知りたかった。
「⋯⋯貴方ってこの国のこと、全然知らないのね。この辺りでは、あいつ――雷紋のシヴァを知らない人っていないと思うんだけど」
カスミはそう返答しながらも「私たちのパーティもまだまだってことね」と呟いている。
「シヴァはAランク冒険者で、国に十数人ってところかな。あまり認めたくないけど、あいつ、かなり強いよ」
規格外だと思っていた強さは、この世界の『規格』として存在する領域だった。だが、一つの国にそれだけしか存在しないレベルではあるらしい。
「⋯⋯じゃあ、あなたは?」
カスミは答えない。代わりに歩幅をわずかに変えた。
速い。どんどん歩みが速くなる。これは話を切る速度だ。僕はそれ以上踏み込まないことにした。
しばらく歩いた後、カスミがぽつりと言った。
「シヴァはやり過ぎたけど、アーテルが自分の力を見せたのは正しい対応」
僕は眉をひそめて聞き返す。
「正しい?」
「ギルドに対して、貴方の価値と敵意がないことは示せたでしょ」
言い方が露骨で、逆に現実的に思えた。
僕は苦笑しそうになり、顔を歪めて問う。
「それは⋯⋯僕がギルドに認められたってこと?」
「私たちはギルド側だからね、ただの雇われパーティってこと。」
「――ただ、私が言えるのは⋯⋯今の貴方は自ら拾わせたってことかな」
カスミの口元が初めて笑みの形になる。
今回の薬師の頼み事は、おそらく預かったものを渡すだけではない。
『ギルド』という組織が、僕という存在を判断したかったのだろう。
どういう人物なのか、守る価値はあるのか。
彼女が足を止める。
崩れた壁の陰。そこだけ風が通り、焼けた匂いが薄れる場所だった。
カスミは振り向いて、正面から僕を見る。
フードを少し持ち上げる。まだ全部は見えないが、緑の目と髪のすごく整った顔の女性だった。耳の先が少し尖っているように見える。
「アーテル。――これから先、解紋の子と逃げ続ける気?」
「⋯⋯わからない。ただ、今は逃げないと追われている。ギルドが価値を認めてくれたというなら、今後はどうなるかわからないけど」
カスミは一瞬だけ目を細めた。笑ったわけじゃない。だが、少しだけ納得した目だった。
「ギルドは私たちの報告待ちだろうから、私は寄っていく」
「こんな時間から?」
辺りはもう真夜中に近い頃合いだろう。
「今回の件なら、いつでも対応させるわ。じゃあ貴方は一度薬師のところに戻っていて」
彼女は僕の肩を軽く叩くと、その瞬間にはすでにカスミはその場から消えていた。
【現在のステータス】
名前:シヴァ
紋章:雷紋
種別︰属性紋
位階:不明(Aランク冒険者相当?)
紋狩︰不明
技能:《雷牢》《縛雷陣》《万雷天刑》、他
加護︰不明
装備:長剣(銘・由来不明)
備考:
Aランク冒険者(国に十数人級)
遺物の性質を見抜く観察眼あり。
ギルド側(雇われパーティ)に属する立場だが、行動は自由奔放。
【現在のステータス】
名前:カスミ
紋章:影紋
種別︰属性紋
位階:不明(Aランクパーティ相当?)
紋狩︰不明
技能:《影帳》、他
加護︰不明
装備:不明(フード付き外套)
備考:
ギルド側の雇われ、Aランクパーティの内の一人。
隠匿する能力はかなり高位(音・匂い・存在感まで薄め、隔絶に近いレベルの感覚遮断を発生)
行動は合理的。
シヴァの暴走を止める抑止役としてよくペアで動かされる。
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