第17話
ディアが僕に加護をくれて以来、回線が途絶えていた。
――だから、タイミングは自分で考えるしかない。
初めて《黒穿》を使った、最初の森での出来事を思い出せ。
鎖男や大男、そして虎紋のレン。
あのときから、理不尽なこの世界が始まった。突然襲われ、捕まり、傷つけられる。
目の前のこの男――『ギルド』側に自分の価値を示さなければ、このまま追われ、殺される未来が待ち受けているだろう。それは絶対に避けなければならない。
僕が最初に使えるようになったのは、《黒穿》の初歩である『点』を落とすだけ。
ただ、騙紋の女と戦ったときには、それだけでは防御はできても、相手を倒すことができなかった。
だから、僕は『黒点』を落とすのではなく、撃つことに特化させた。
だが、今の僕は気づき始めていた。
本来の 《黒穿》は、敵に到達した瞬間――その通り道、そのものごと消滅させる技の極致。そのイメージが、頭にしっかりと浮かんでいた。
しかし、今の僕には点を直線に持っていく力がない。――どうする。
「さぁ、まだ何かやる? それとも終わり?」
最初の言葉の通り、僕が次に何をするか、本当に試験をしているらしい。
男は相変わらず本気を出していない。この《縛雷陣》という技一つとっても、出力を上げられたら、すぐにでも倒れて意識を失うだろう。
目の前の相手は、天井が見えないほど、とてつもない強さだ。だけど、ここで終わってはいけない。
自分の価値を示せば、ギルドと敵対することにはならない――そう薬師が言っていたのを思い出す。これ以上、敵を増やすわけにはいかない。
これまでに一瞬ではあったが、『点』の《黒穿》でも雷を消すことができた。消えた瞬間、男の視線が『そこ』へ向くのを見た。
――無意識に。
僕は相手のその癖を利用する。
今、この場で選ぶべきなのは、相手までの最短距離を最速で消し去る――そんな圧倒的な力だ。
先ほどは雷の縛りによって満足に振れなかったため、とっさに小太刀の突きに黒を乗せた。
それは小太刀を介して、力を使うことができるという『新たな発見』だった。
点を線にできないのであれば、武器を使ってやれ――刀身全体に黒を集める。
僕は小太刀を持つ右手に、ゆっくりと力を集めていく。
力を使えば使うほど、口の中に鉄の味が広がる。
息を吸うたび、肺の内側に焦げた空気が擦れて痛むのに、胸の奥――黒紋のあたりだけが冷えていく。
掌の温度。肘の重さ。肩の張り。背中の痛み。
心臓の鼓動まで、何かが一本ずつ抜き取られるみたいに、僕の力が小太刀へと吸収されていく。
視界の端が暗く欠ける。耳鳴りが強くなる。
雷鳴が遠のき、代わりに自分の脈だけがやけにうるさい。
――まだ足りない。
僕は小太刀の刃へ、さらに黒を流し込む。
持ち手の感触が薄れ、何かを握っているだけのような気味の悪い感覚へ変わっていく。
青白い雷光の中で、刃の輪郭だけが不自然に黒く歪んでいた。
塗られた黒じゃない。
光沢が乗らない、覗き込めば視線の方が沈み込んでいく黒。
周囲の明るさが――近くを走った雷撃の枝葉が――、小太刀に近づくと音もなく細り、その現象ごと吸い込まれて消えていく。
小太刀を持つ右手の関節が悲鳴を上げる。あたりの粉塵が舞い上がり、僕の周りを渦のように回り始めた。肘から肩へ、筋が一本にねじり上げられていく。
想像しろ。
直線上にあるものは、雷でも瓦礫でも空気でも消し去る『神技』を。
そのイメージが、頭の中に異様な鮮明さで立ち上がる。
誰かに教わったわけじゃない。なのに、最初からそこへ辿り着く形だけは知っていたように。
目の前で、男の笑みがわずかに変わった。
遊びの目でも、獲物を値踏みする目でもない。来るものを見落とさないための、真剣な目。
――価値を示せ。
僕は半歩だけ踏み込む。
靴底の下で灰がきしみ、瓦礫の細片が沈む。
小太刀の柄を、握り潰す勢いで力を込める。
爪の間から血が滲んだ気がしたが、もう感覚が薄くて分からない。
刃先から鍔元まで、小太刀の肌理に沿って細い黒が走り、一本の直線が――そのまま夜の裂け目へと変化した。
雷鳴も、火花の爆ぜる音も、全部遠のく。
世界の音が剥がれ、僕と相手だけの間合い。
喉の奥で熱いものがせり上がる。
血が口端から一筋こぼれた。肺の中が裂けるみたいに痛い。
その痛みも、恐怖も、怒りも、全部まとめて叩き込む。
「《黒穿》―――ッ――――!!」
振り抜いた瞬間、音が消えた。
ただ、力が凝縮された『黒』が直進する。
漆黒の一閃が、僕と男の間合いそのものを喰い潰していく。
線上にあった雷は抵抗する間もなく途切れ、消え去る。瓦礫の角が黒に触れた端から音もなく落ちる。
その速度を見た男の動きが、一拍遅れる。
僕はその一瞬に、さらに踏み込む。
右腕はもう悲鳴を上げていた。肩から先が千切れそうに重い。それでも止めない。
下から――連続した切り上げ。
「うぉぉぉおおあああああ――――ッ!」
今度は男の頬――真横を掠める軌道へ、先ほどの余韻のまま、《黒穿》を繋げた。
男の外套の端が消滅した。
数本の髪が宙へ舞い、追撃の黒閃に触れた瞬間、灰にもならず消えた。
その直後だった。
右手に嫌な感触が走る。
金属の芯に爪を立てたみたいな、乾いた軋み。ピキッ――という、細い音。
小太刀の刃元、鍔の少し先に蜘蛛の糸みたいなひびが一本走った。
――まずい。
そう思った瞬間、体に一気に反動が来た。
視界がぐらりと傾き、膝から力が抜ける。
肺が痙攣したみたいに息が止まり、次の瞬間、激しく咳き込んだ。血が喉の奥から迫り上がる。
僕はその場に片膝をつき、支えきれずに手をついた。
砕けた床の冷たさが掌に刺さる。
右手はまだ小太刀を握っていたが、指が言うことをきかない。ひびの入った刃先が小さく震えている。
――立て。倒れるな。
頭ではそう叫んでいるのに、身体が鈍い。
男は一瞬、声を失っていた。
見開かれた目が、頬の横を抜けた黒の軌跡と、ひび割れた小太刀を順番に追う。
その直後――腹の底から噴き出すみたいに笑い出した。
「あはははははははっ――!……面白い――面白いぞッ――!」
心底嬉しそうに、息を大きく吐いて笑う。
男はまだ剣を抜かない。抜かないが、今までとは圧倒的に違う、空気中の雷の密度。
それは地面だけじゃなく空間へ広がり、男の四方から空に向けて雷光の『囲い』が立ち上がる。
今、僕が示した力で、矛を収めてもらえると踏んでいたのだが、どうやら目の前の男は、思っているよりもはるかにぶっ飛んだ人らしい。
男が一歩、踏み出しかける。
その瞬間、視線が僕の右手に落ちた。ひびの入った小太刀。痙攣する指。血を吐いて膝をつく僕。
男の笑みが、ほんの一瞬だけ形を変える。
「……っと」
小さく、独り言みたいに漏らした。
次の一歩を止める。肩を一度だけ回し、吸った息を長く吐く。
周囲に広がりかけた雷光が、わずかに薄まった。意図して抑えたのだと分かる程度に。
――今ので死なせたら、試験どころじゃない。
そういう理性が、一応はあるらしい。
だが、それでも完全には下がらない。
男の瞳の奥では、さっきより強い熱が跳ねていた。
「いいな、その遺物……まだ壊れ切ってないのが、またいい」
僕が握る小太刀を見て、男は本気で嬉しそうに言った。
小太刀のひびまで評価の対象にしている。理解したくない種類の感性だった。
男が肩を軽く回した。遊びの準備みたいな仕草。
でも、次は遊びじゃない。遊びの皮をかぶった、終わりの一手だと分かった。
そのとき、外側の闇が動いた。
「はい、そこまで」
落ち着いた女性の声。空気の温度が一段下がる。
男は振り返りもしない。肩だけを軽くすくめて、悪びれない調子で笑う。
「もう? 今からじゃん」
「忘れたの? ここは依頼の場所。これ以上遊ぶな」
「遊んでないって。……ちょっと熱くなっただけ」
そう言いながらも、男の視線は僕から外れない。
――あいつの目は、いま完全にほしいものを『見つけた』目になっている。それは『獲物』を見る目じゃない。自分にとって必要な相手を見つけた目。
「わかった。じゃあ、最後に一回だけ」
止める声が発せられるより早く、男の手が初めて鞘へ触れた。
――抜く。
確信が先に来て、身体が遅れて固まる。剣が動いただけで、場の『規格』が数段塗り替えられた。
半分ほど刃が覗いたとき――幾重にも重なった稲妻が雷紋を中心とした地点から、夜空に向けて跳ね上がり、刹那、轟音が眩い雷光とともに夜空を走った。
「《万雷天刑》――!」
空一面が真っ昼間みたいな明るさに塗りつぶされ、溶鉱炉の骨格、その内側へ無数の雷が同時に刺さる。視界が光で潰れ、熱より先に衝撃が来る。
片膝をついたままの僕には、避ける余地なんてない。皮膚の感覚が剥がれていくみたいに、身体の輪郭も崩れていく。
――その瞬間、僕の周囲が闇に包まれて隔絶されていた。




