第14話
リンドリウムの朝は、鳥の声より先に槌が鳴る。
街の目覚めはいつも金属音だ――そう薬師が言っていた。
あれから数日経った。
薬師によると、リナの異様なレベルの熱は、ようやく普通の発熱と呼べる形に落ち着いたらしい。
今は身体の芯から燃えているような感じではない。リナの額に触れても、危うい熱さは消えていた。呼吸も深い。
それだけで、僕の胸の奥がすっと軽くなった。
前世で妹がいたのかは定かではないが、リナのことを家族のように感じている自分に気づく。
この世界に転生してからは孤独だった。
だが、リナとの逃亡生活の中、少しずつこの世界で出会った人に対する感じ方が、変わってきているのだろう。
敷布の上で横になったまま、リナがゆっくり目を開けた。
焦点が合うまでにまだ少し時間がかかるが、僕を見つけると、安心したみたいに短く息を吐いた。
「……おは、よう……」
「無理に起きなくていいよ。まだ寝てていい」
「大丈夫……少し、喉渇いた……」
僕は小さな椀に水を汲んで、口元へ運んでやる。
リナはお礼を言ってから少しずつ飲むが、まだ本調子じゃないのだろう。咳き込みそうになっている。
飲み下したあと、妙な顔つきで眉を寄せた。
「私……生きてる」
「うん。こんなところじゃ死ねない」
互いに目を合わせて苦笑いをする。
こんなやり取りを、競り場に連れて行かれた日――荷馬車の中でもやったような気がする。
もし競り場から逃げていなければ。
もしあの路地で、薬師ロンネスに出会わなければ。
――考え始めるといつも行き着く答えは一つだ。今のところ運が良すぎた。
常に首筋に刃物を当てられているかのような、危険な綱渡りをして、何とかここまできている。
僕は自分の肩に触れた。包帯は薄く巻かれたままだが、痛みはほとんどなくなっている。腕も普通に動く。動くくらいなら問題なさそうだ。
戸の向こうで足音が止まり、一瞬の間の後、板戸が開く。
「二人とも起きてるな」
ロンネスが入ってきた。
相変わらず落ち着いている。疲れているはずだが、作業時の手はぶれない。
棚の瓶を一瞥し、鍋の中身を嗅いで、必要なものだけを掴む――そういう動きが無駄なく続く。
リナの額に二本指を当て、次に胸の紋章に触れ、最後に呼吸の深さを確認した。
「……よし。今日から薬を減らしていい。ただ、味は一緒だからな。吐かせるなよ」
「ああ、分かってる」
いつもの調子に僕が呆れたように即答すると、ロンネスは鼻で笑った。
「分かってねえな。俺がここにいなかったら、嬢ちゃんはかなり危険だった」
僕は顔を上げた。
「どういうことだ?」
ロンネスは言い方を変えなかった。優しくも、怖がらせるでもなく、ただ事実を述べる。
「嬢ちゃんの年齢と紋章の濃さ、そして『逃げてきたこと』を考えればわかる。禁忌覚醒だろ。あれの反動は凄まじいもんだ。本来は準備してゆっくり開く扉を、無理やり斧で抉じ開けてるようなもんだからな」
まさにそんなイメージは持っていたが、それが正しいとすると、リナはよく元に戻ってこれたなと急に怖くなる。
「強制覚醒の『先』にあるものは悲惨だ。大きく二つほどある。一つは紋章とのつながりが薄くなる。残るのは、ずっと力を使わせられるだけの傀儡人形ってオチだ」
永久に『道具』として使われる奴隷の完成だ。
「もう一つは『紋章』に呑まれちまう。つまり、紋章が全身に広がって暴走して、処分されるって寸法だな。こっちは比較的珍しい結末だが、どっちも悲惨だ」
リナの指が僕の袖をギュッと掴む。
「……どっちだったんだ、リナは」
僕が言うと、薬師は小さく肩をすくめた。
「傀儡人形だろうな。競り場の連中の『起こし方』は、最大の恐怖に放り込んで、壊れる寸前まで追い込んで火を点けると聞いたことがある。それは精神を追い込み、傀儡化して好きなように使役する方法だ」
薬師は鍋に薬草を落としながら、ちらりと僕らを見る。
リナは眼をぎゅっと瞑り、あの時のことを思い出しているのか、体が小さく震えている。
僕は息を一度だけ深く吸った。
――仇を討つ。必ず。
「たまたま俺があの路地にいたときにピンときて声をかけた。お前らは運が良い以外の何者でもないぜ」
確かにこの街にたどり着いてあの路地の前を通らなければ。本当に運がよかっただけなのは僕も同意だ。
「……と、この話はこれくらいで、一つ頼みがある」
この数日、ロンネスが一度も「見返り」を口にしなかったからこそ、余計に重く響いた。
「……何をすればいい?」
ロンネスは頷いてから、小さな布袋を棚から取り出した。中身は見えない。だが、袋の口が二重に固く縛られていて、簡単には開きそうにない。
「これを『ある場所』に届けてほしい。それだけだ」
ロンネスは人差し指で床板を軽く叩くと、木の下から一枚の薄い紙切れが出てくる。その紙の裏には簡単な地図が描かれていた。
路地の曲がり角を進んだ先にある『灰捨て場』までの順路。
リンドリウムの街のはずれにあるそこは、使われなくなった炉が点在している区域らしい。
「顔が割れてる俺が動くには、ちょっと街が騒がしくってな。……今この街で俺が動くと、虎の札と他の線が繋がっちまう」
そう言うが、おそらく別の意図があるのは明らかだろう。
「時間は今夜、日が落ちてから。受け渡し場所は灰捨て場の奥の方にある、建物の骨格がかなり露出している廃炉だ。そこに来た相手に、こいつを渡したら任務完了ってことだ。――灰捨て場は耳が少ない。余計な目もない」
「わかった。……渡す相手は誰なんだ」
ロンネスはそこで初めて、少しだけ言葉を選んで言った。
「この世界の冒険者を取りまとめている団体機関――『ギルド』だ」
リンドリウムは平和で安定している――薬師は以前そう言っていた。だが、その安定をどこが支えているのか、僕はまだ知らなかった。
――ギルド。
僕の知るギルドというものは、冒険者が依頼を受けたり発注したりする場所。その程度のイメージだったが、この世界のギルドは『情報』を扱っているらしい。
「そう眉間にシワを寄せんなよ。ギルドといっても、動いてるのは『裏』の特別な部署だ。状況把握に特化してる、表の仕事の職員たちから『独立』した連中だ」
そのまま一息ついてから続ける。
「ギルドはどこの街にもある国からも認められている機関だが、虎紋――あいつらは獲物を執拗に追うただの獣の集団だ。実際、領主やギルド側もあいつらには手を焼いている。そういった状況、全部を調査して、把握しているのがこの部署だ」
「把握?」
「ああ、そのままの意味だ。最近の『競り場』で何が起きたか。誰が動いてるのか。どの派閥がどこまで関与しているのか。そして――誰が逃げてるのか。そういった情報は、街や領主にとっては『守り』そのものだ。これを怠ると、街の安全が脅かされることもある」
ロンネスの目が僕の胸元へ一瞬だけ向いた。
服の下。所々が黒く塗り潰された『紋崩れ』。
直接は言わない。おそらく寝ているときに見られたのかもしれない。
「……僕を売るのか?」
僕が言うと、ロンネスは鼻で笑った。
「今更何言ってんだ。売るならここまで治してねえよ」
その言い方が、妙に腹に落ちた。
ロンネスは人の命に良い意味で敏感な男だ。困っている人を助けるという根本はしっかり持っている人間。
「じゃあ、何のために……」
「まぁ簡単に言えば、今言ったギルドからの依頼だ。俺はリンドリウムの『雇われ』だからな。今回は連絡網と先行調査役ってとこだ」
薬師はそう言って、口端だけで笑った。
「……ロンネスの仕事は薬師だけじゃないのか」
僕が言うと、ロンネスは「ああ」と短く返して、棚の薬瓶を並べ直した。
「今は薬師のロンネスで間違いねえが、普段はいろんな仕事をしてる。……まぁ何でも屋みたいなもんだ。――ちなみに、実は本業は薬師でもねえんだぜ」
ロンネスはニヤリと笑うと、そこでリナが敷布の上から小さくこちらを見る。
まだ顔色は悪いが、意識ははっきりしてきていた。
「……ロンネス、さん……ありがとう、ございます」
かすれた声で名前を呼ばれ、ロンネスは一瞬だけ手を止めたが、すぐに鼻で笑った。
「『さん』はいらねえ。薬飲んで寝る。嬢ちゃんの仕事はそれだけだ」
「じゃあ⋯⋯私も嬢ちゃんじゃなく⋯⋯リナ」
「ふ、そんな余裕があるなら大丈夫だか」
「お前は日が落ちるまで待機だ。掃除くらい手伝えよ」
「わかった」
「なんだよ。ああ、わかったわかった。お前のことも名前で呼べってことだな、アーテル」
そんなつもりではなかったのだが、それでいいか。
掃除と言われて見渡したが、すでにかなり綺麗で整頓もされていたため、どこを掃除するのか不思議に思っていたのだ。
ロンネスは薬瓶の並ぶ棚へ視線を戻すと、一層声を低くして続ける。
「言い忘れてたな。向こうがアーテルを指名してるってこと。……理由は言えねえが、まぁ頑張れよ」
指名? 僕のことがすでにバレているのか。
――だけど、なぜだ?
薬師に助けられたことがギルドに伝わっているのは分かる。
しかし、最初の森での拉致、競り場への移送、そして騙紋の女との戦い。
すべてが繋がっていることをもう突き止めたというのだろうか。
いや――ギルドが情報機関も兼ねているとはいえ、そこまで早く情報を集められるとは思えない。
今夜の受け渡しの場所にいるのはいったい誰なのか。何の目的で僕を指名しているのか。
行けばはっきりするはずだ。




