第12話
「ここに寝かせておけ」
薬師の男が示したのは、壁際に置いてある薄い敷布の上だった。
部屋の中は狭く、乾いた薬草と古い油の匂いがこもっている。外の通りよりは静かだが、安全な場所というより見つかるまで少しだけ時間を稼げる場所に近い。
僕がリナをそっと横にさせると、彼女は眉を寄せて体を震わせた。
「アー……テル……ここ……危ない……?」
声は細い。
まだ熱が抜けきっていない。
それでも危険かどうかだけはちゃんと確かめようとしているのが、ここ最近の逃亡生活を物語っていた。
「安全とは言えない。でも外よりマシだよ」
はっきり伝える。
今必要なのは安心させる言葉じゃない。
熱を下げて生き延びることだ。
リナは一瞬だけ唇を噛み、小さく頷いた。
「……うん……アーテルが……いるなら……」
それ以上言い切る前にまぶたが落ちた。
眠りというより、熱に引きずり込まれる失神に近い沈み方だった。
薬師はリナの首筋に二本指を当てて脈を測る。
次に慣れた手つきで額、頬、喉、胸の紋章を確かめてから舌打ちした。
「紋章の燃え方が悪い。悪い起こされ方をしたな」
「……分かるのか」
「一応薬師だからな。熱の種類くらいは判断できる」
男は棚から乾いた葉を二種類、迷いなく掴んだ。
桶に汲んだ水で湿らせ、清潔そうな布に包む。
「氷葉と冷草だ。首と額に当てろ。その間に飲み薬を煎じる。これが出来たら飲ませろ。吐かせるなよ」
薬師としての腕は良いのだろう。
棚から葉を取る動きにも、鍋に水を足す動きにも迷いがない。
「……吐いたら?」
「最初からやり直しだ。そうすると嬢ちゃんの体力が余計に削れる。だから吐かせるな」
怒気はない。
必要なことだけを言っている声だった。
僕は薬師が鍋を扱う背中を見つめながら、肩の痛みをやり過ごすように息を整える。
部屋に入ったことで少しだけ緊張が解けたのか、騙紋の刃に裂かれた肩の傷がまた疼き始めた。
調合鍋が煮立つまでの沈黙が長く感じる。
リナの浅く不安定な呼吸。
火にかけた鍋の小さな沸騰音。
その二つだけが、狭い部屋の真ん中に集まっていく。
しばらくしてから薬師が出来上がった薬汁を布で濾して椀に注いだ。
少し冷ましてから、僕に渡してくる。
「嬢ちゃんの体を起こして飲ませろ。一気にいくんだ」
僕が体を起こしてやると、リナはゆっくり瞼を開けた。
焦点が合っていない目で天井を探し、次に僕の顔を見つけて、ほっとしたみたいに息を吐く。
「……ここ……」
「今は大丈夫。この薬師の――」
「おい、早く飲ませろ」
薬師が横から淡々と遮った。
怒ってはいない。ただ、回復のための動きを崩されたくないだけだろう。
彼は椀の縁を軽く指で叩き、温度を確かめる。
「冷めすぎても効きが鈍る。ほら、嬢ちゃん。飲め」
リナは椀を見るだけで顔をしかめた。
湯気に混じって立つ匂いがすでに苦い。
いや、苦いを通り越して、薬草と土と鉄の混ざった変な匂いがする。
僕の腕の中でリナの体が縮こまった。
「普通に……むり……」
「ちゃんと治すために飲むんだ。じゃないと――」
あいつらを許す気などない。
その気持ちが言葉として漏れそうになって、僕は止めた。
今ここで煽る言葉を出しても、リナの体が楽になるわけじゃない。
「……わかった。こんなところで死ねない。必ず――」
リナは一点を見つめている。
その先に誰を見ているのかは聞かなくても分かった。
薬師は何かを察したのか短く頷き、棚から干した小さな果実をいくつか掴んだ。
その内の一つを指先で割り、リナの唇に当てる。
「これを噛んでから飲んでみろ。甘さで舌が騙される」
言い方はぶっきらぼうなのに、やっていることが妙に優しい。
リナは戸惑いながらも、ほんの少しだけ果実を口に含んだ。
頬がきゅっと動く。
「……あま……」
「そりゃそうだ。じゃあ、そのまま薬だ。兄ちゃん、首支えろ。頭を後ろに倒しすぎるなよ。喉が開きすぎると咳き込む」
薬師の指示は早い。
僕はリナの肩を抱き、背中に腕を回してもう少しだけ起こす。
リナは椀を両手で受け取ったものの、震えが止まらない。
「やっぱり……こわい……」
「じゃあ目を閉じろ。飲めたらちゃんと楽になる。燃え尽きるよりはマシだろ」
薬師の言葉にリナは僕の方を一度だけ見た。
僕は頷くしかできない。
「……いく……」
リナは目を閉じ、息を吸って、一気に椀を傾けた。
「ん゛――っ……!」
喉が鳴る。
飲み下すたびに眉間が寄る。
最後の一口で肩が跳ね、危うく吐きそうになるのを僕が背中をさすって耐えさせる。
「吐くな。吐いたら最初からだ」
薬師が当たり前のことのように言う。
リナは涙目のまま口を手で押さえ、必死に首を振った。
数秒息を止めて、ようやく飲み終える。
「……の、んだ……」
「よし」
薬師は短く言い、さっきの果実の残りをリナの口に押し当てた。
「噛め。今ならもっと甘く感じるぞ」
リナは半泣きのまま果実を噛む。
しばらくしてから、悔しそうに小さく呟いた。
「……おいしい……かも」
その一言が妙に可笑しくて、僕は笑いそうになるのを堪えた。
こんな状況で笑うのは不謹慎だと思うのに、胸の奥がほんの少しだけ軽くなった気がした。
「よし、今は寝ろ。薬が効いてくれば熱の形が変わってくるだろう。しっかり休むことだ」
そんな話をしている間にリナの瞼はまた重く落ちかけていた。
さっきより呼吸が深く、ゆっくりしている気がする。
僕は布を畳んで枕の代わりにし、彼女の頭の下へ差し込んだ。
そこで薬師の視線が僕の肩へ移る。
「……次はお前だ。肩、見せろ」
「僕は大丈夫だ」
「大丈夫なら、そんな顔はしねぇ」
薬師は僕が返す間もなく、肩へ手を伸ばした。
ずらした服の端をつまみ、傷口を覗き込む。
騙紋の刃が裂いたところが赤黒く滲み、熱を持っていた。
短い舌打ち。
「……このままだと膿むかもしれない。どうする。死にたいなら今ここで止めるぞ」
「……死ぬのは、復讐してからと決めている」
「ったく。頑固なガキどもだ」
薬師は面倒そうに言いながら、綺麗な布を僕の手に押しつけた。
「まずは傷口を拭け。放っとくと肩が動かなくなる。嬢ちゃんと復讐とやらを達成するなら、なおさらだ」
脅しじゃない。
事実を並べているだけの正直な声だった。
薬師は鍋の火を見て、棚から小さなすり鉢を取り出す。
乾いた粉と油、刻んだ葉を迷いなく混ぜ始めた。
この男はただ路地で声をかけてきた怪しい薬師じゃない。
少なくとも、人の傷と熱を何度も見てきた手つきをしていた。
「染みるぞ。これを噛んでおけ」
木べらで膏をすくい、傷へ塗り込まれる。
強烈な熱さが走った。
焼かれるような痛みが肩から首へ抜け、視界が薄くなる。
僕は声を飲み込み、息だけで耐えた。
薬師は何も言わず、布を当てて手早く固定する。
じくじくと広がっていた嫌な痛みが少しだけマシになった気がした。
その瞬間だった。
胸の黒痕の奥で、煤みたいな粒がかすかに動いた気がした。
傷の痛みとは違う。
熱でもない。
女を倒した後に胸へ沈んだあの黒の名残が、奥の暗がりでゆっくり向きを変えたような感覚だった。
僕は思わず胸元に手を当てる。
「……今のは」
薬師がその動きに気付いて目を細めた。
「どうした?」
答えようとしたのに言葉が出なかった。
胸の奥でまた何かが小さく揺れていた感覚。
まるで僕の中に入ったものが――まだ完全には眠っていないみたいだった。




