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第8話「カイルの焦燥と王子の贈り物」

 温室での出来事から数日、わたしの日常は奇妙な均衡の上に成り立っていた。

 ジェラルド王子は「飼い殺す」と宣言したものの、すぐに強引な手段に出てくることはなかった。

 まるで熟れた果実が自然に落ちてくるのを待つかのように、彼は距離を保ちつつ、着実に包囲網を狭めてきている。

 その変化を敏感に感じ取ったのは、意外にもわたしの主人であるカイル・ヴァイオレットだった。


 ヴァイオレット家の朝は、いつになく騒々しかった。

 屋敷の玄関ホールに、山のような荷物が運び込まれていたからだ。

 最高級のシルクで包まれた箱、希少な果物のバスケット、そして見たこともないような豪奢な花束。

 それらはすべて、差出人不明――いや、正確には「王家の紋章」だけが刻印されたカードが添えられていた。


「おいリアン! これは一体どういうことだ!」


 カイル様が階段を駆け下りてきて、ヒステリックに叫んだ。

 寝起きで髪が跳ねているが、それどころではないらしい。

 使用人たちが困惑した顔で立ち尽くしている中、わたしは静かにため息をついた。


「おそらく、先日のお詫びとお見舞いではないでしょうか」


「お詫び? お見舞い? 誰への!?」


「……カイル様と、その従者である私への、です。園遊会で少し体調を崩しましたので」


 苦しい言い訳だとはわかっていた。

 だが、まさか「第一王子があなたの従者を口説くために送ってきました」とは口が裂けても言えない。

 カイル様は眉間に深いしわを寄せ、積み上げられたプレゼントの山を睨みつけた。


「ジェラルド殿下が、わざわざこんなものを……? 僕にならともかく、従者のお前になど送るわけがない。これはきっと、僕への個人的な贈り物だ。そうだろ?」


 彼は自分に言い聞かせるように納得しようとしている。

 わたしは無言で肯定の意を示した。

 そう思ってくれていたほうが都合がいい。

 だが、箱の一つを開けたカイル様の顔色が凍りついた。

 中に入っていたのは、農業用の専門書や、最高品質の園芸用手袋、そして「近日中に王宮の畑を見に来い」と記された小さなメモだったからだ。


「……リアン。説明しろ」


 カイル様が震える手でメモを突きつけてくる。

 そこには明確に私信が書かれていた。

 わたしは冷や汗を流しながら、必死に脳を回転させた。


「あー、それはですね……園遊会の時に、殿下がたまたま農業政策についてお話しされておりまして。私が田舎出身だということを面白がって、少し意見を求められたのです」


「お前に? 国の政策を? ありえないだろう!」


「ええ、私もそう思います。ですが殿下は変わり者……いえ、独創的なお方ですので」


 カイル様は疑念の眼差しを向けてくる。

 彼のかませ犬としての直感が、何かしらの危機を察知しているようだ。

 普段はわがままで鈍感な彼だが、自分の所有物が脅かされることに関しては敏感らしい。

 彼は乱暴にメモを握りつぶし、わたしに詰め寄った。


「いいかリアン。お前は僕の従者だ。ヴァイオレット家の所有物だ。殿下が何と言おうと、勝手に王宮へ行ったり、僕の許可なく会ったりすることは許さないぞ」


 その言葉には、いつもの傲慢さとは違う、どこか怯えのような響きが含まれていた。

 彼は無意識のうちに気づいているのかもしれない。

 自分がジェラルド王子に敵うはずがないこと、そして、わたしがいずれ自分の手から離れていくかもしれないことを。


「もちろんです、カイル様。私はカイル様にお仕えしております」


 わたしは恭しく頭を下げた。

 これは本心だ。

 少なくとも、学園を卒業するまでは彼を盾にして生き延びるつもりだ。

 カイル様は少し安心したように息を吐き、しかしすぐに不機嫌な顔に戻って言った。


「ならいい。この邪魔な荷物は全部お前の部屋に運んでおけ。……ただし、花だけはリビングに飾る。殿下からの頂き物を粗末にはできないからな」


「かしこまりました」


 わたしは安堵とともに荷物を運び始めた。

 重い箱を抱えながら、廊下を歩く。

 その中身が、ジェラルド王子からの「逃がさない」というメッセージであることは明白だった。

 箱の隙間から漂うのは、彼が愛用している香水の香り。

 冷涼でスパイシーな、アルファの支配欲を象徴するような香りだ。

 わたしの部屋に運び込んだ瞬間、狭い空間が彼の匂いで埋め尽くされた。


『……勘弁してくれ』


 ベッドに倒れ込み、わたしは天井を仰いだ。

 これではまるで、部屋ごと彼にマーキングされたようだ。

 抑制薬を飲んでいるとはいえ、本能がざわつくのを止められない。

 身体の奥が熱くなり、指先が痺れるような感覚。

 これが「運命のつがい」というやつなのだろうか。

 ゲームの設定では、運命の相手に出会ったオメガは、その相手のフェロモンに抗えないとされている。

 もしそうだとしたら、わたしの抵抗は無駄な努力なのかもしれない。


 翌日の学園でも、ジェラルド王子の影はちらついていた。

 直接話しかけてくることはないが、廊下ですれ違うたびに意味ありげな視線を送ってくる。

 そして、その視線に気づいた周囲の生徒たちが、ひそひそと噂話を始めた。

「あのアークライト殿下が、ヴァイオレット家の従者を見ている」「何か粗相をしたんじゃないか」「いや、あれは獲物を狙う目だ」などと、的を射た推測も飛び交っている。

 わたしは極力目立たないように、カイル様の後ろに隠れて移動した。


 放課後、カイル様が珍しく「今日は図書室で勉強する」と言い出した。

 どうやらジェラルド王子がよく図書室を利用するという情報を聞きつけたらしい。

 わたしは心の中で悲鳴を上げたが、従者として拒否権はない。

 図書室に向かうと、案の定、窓際の特等席にジェラルド王子の姿があった。

 彼は優雅に本を読みながら、紅茶を楽しんでいる。

 まるでそこだけ一枚の絵画のようだ。

 カイル様は緊張した面持ちで、王子の近くの席を確保しようとした。


「失礼します、殿下。お隣、よろしいでしょうか」


 ジェラルド王子は本から目を離さず、冷淡に答えた。


「断る。今日は静かに過ごしたい」


「あ……失礼いたしました」


 カイル様はすごすごと引き下がったが、諦めきれずに少し離れた席に座った。

 そしてわたしに命じる。


「リアン、参考書を取ってこい。古代魔法史の棚だ」


「はい」


 わたしは逃げるように書架の方へ向かった。

 王子の視線を感じながら背を向けるのは、背中に的を背負って歩くような気分だ。

 古代魔法史の棚は、図書室の奥まった場所にある。

 人気のないその場所で本を探していると、背後から音もなく誰かが近づいてきた。

 振り返る間もなく、背後から抱きすくめられる。


「……贈り物は気に入ったか?」


 耳元で囁かれた低音に、わたしは本を取り落としそうになった。

 ジェラルド王子だ。

 いつの間に移動したのか。

 彼はわたしの腰に腕を回し、首筋に鼻を押し付けてくる。


「で、殿下! ここは公衆の面前です!」


「ここは死角だ。誰も見えない」


 彼は悪びれもせず、さらに強く抱きしめてきた。

 その体温の高さに、わたしの思考回路がショートしそうになる。


「カイル様が見ています……!」


「あいつは今、夢中で自分の爪を眺めているよ。お前のことなど見ていない」


 彼の言う通りかもしれない。

 カイル様は自分のことにしか興味がない。

 ジェラルド王子はわたしの耳を甘く噛んだ。


「返事を聞かせろ。俺の畑に来る気になったか?」


「……なりません。私はまだ学生ですし、従者です」


「頑固だな。だが、そこがいい」


 彼は楽しそうに笑い、わたしのポケットに何かを滑り込ませた。


「これは前金だ。受け取っておけ」


「え?」


 彼が離れると同時に、わたしはポケットの中身を確認した。

 それは小さな小瓶だった。

 ラベルには何も書かれていないが、中に入っている液体は淡い金色に輝いている。

 蓋を開けて匂いを嗅ぐと、驚くほど澄んだ香りがした。


「最高級の抑制剤だ。副作用がない特注品だぞ」


 彼はウインクをして、何事もなかったかのように自分の席へ戻っていった。

 わたしはその場に立ち尽くし、小瓶を握りしめた。

 副作用がない抑制剤。

 それは今のわたしにとって、喉から手が出るほど欲しいものだ。

 彼はわたしの弱点も、必要なものも、すべて把握している。

 これは単なるプレゼントではない。

「お前の生殺与奪の権は俺が握っている」という無言のメッセージだ。

 わたしは小瓶をポケットの奥深くにしまい込み、震える足でカイル様の元へ戻った。

 わたしの顔が赤いことを、カイル様は「部屋が暑いからだろ」と一蹴した。

 その鈍感さに感謝しつつ、わたしはジェラルド王子の底知れぬ執着に戦慄していた。

 彼は本気だ。

 遊びではなく、本気でわたしを「収穫」しようとしている。

 その事実は、これからの学園生活がさらに過酷なものになることを予感させていた。

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