第6話「薔薇の園と隠蔽工作」
学園の伝統行事の一つに「薔薇の園遊会」がある。
学園内の広大な庭園で、生徒たちが交流を深めるという名目の、実質的な貴族たちの婚活パーティーだ。
従者であるわたしは、本来なら壁の花……どころか、給仕係の一員として働くはずだった。
しかし、カイル様が「僕のエスコート役がいないと格好がつかない」と駄々をこねたため、特例として同行することになった。
わたしは目立たないグレーのスーツに身を包み、カイル様の後ろを影のように付き従う。
庭園には色とりどりの薔薇が咲き乱れ、甘い香りが充満していた。
これが曲者だ。
強い花の香りは、フェロモンの匂いを隠してくれる反面、嗅覚を麻痺させ、異常事態に気づくのを遅らせる。
「カイル様、飲みすぎないでくださいね」
「わかってるよ。あー、暇だ。ジェラルド殿下はどこにいるんだ?」
カイル様は王子に媚を売るチャンスを伺っている。
わたしは周囲を警戒していた。
ゲームのシナリオ通りなら、この園遊会で「ある事件」が起こる。
ヒロインであるノエルの、初めてのヒートだ。
本来なら、ここで攻略対象たちが彼を助け、絆を深めるのだが、今回は状況が違う。
ノエルはまだ誰とも深い仲になっていない。
もしここで衆人環視の中ヒートを起こせば、理性を失ったアルファたちに襲われる危険がある。
それはバッドエンド直行コースだ。
『何も起きなければいいが……』
嫌な予感は的中する。
庭園の奥、人目の少ない東屋の方から、微かな異臭が漂ってきた。
甘く、熟れた果実のような、脳を蕩かす香り。
これは薔薇の香りではない。オメガのフェロモンだ。
「……何の匂いだ?」
近くにいた男子生徒が鼻を鳴らす。
まずい。
わたしはカイル様に言った。
「カイル様、少し気分が悪いので外の空気を吸ってきます」
「はあ? お前、こんな時に……まあいい、早く戻ってこいよ」
許可を得て、わたしは匂いの元へと走った。
東屋には、ノエルが一人でうずくまっていた。
顔は真っ赤で、荒い息を吐いている。
「はぁ、はぁ……熱い……」
「ノエル君!」
駆け寄ると、彼は涙目でわたしを見上げた。
瞳の焦点が合っていない。
完全にヒートの初期症状だ。
「り、リアンさん……? 助けて、体が変なんだ……」
「落ち着いて。薬は持ってる?」
「わ、忘れてきちゃって……」
最悪だ。
周囲の空気が変わり始めている。
遠くから、数人の男子生徒がこちらに向かってくる気配がする。
血に飢えた獣のような気配だ。
彼らに見つかれば、ノエルは終わりだ。
わたしは覚悟を決めた。
「失礼するよ!」
わたしは上着を脱ぎ、ノエルの頭から被せた。
そして彼を抱きかかえる。
小柄な体は驚くほど熱い。
わたしの匂いがついた上着で、彼のフェロモンを少しでも誤魔化す作戦だ。
だが、それは諸刃の剣だった。
至近距離で強烈なオメガフェロモンを浴びたことで、わたしの体内の抑制薬の効果が揺らぎ始めたのだ。
頭がくらくらする。
奥歯を噛み締め、わたしは裏道へと走った。
保健室は遠い。
近くにある空き教室、いや、温室なら鍵がかかるはずだ。
「ここだ!」
使われていない古びた温室に飛び込み、内側から鍵をかける。
ノエルをベンチに寝かせ、わたしは自分のポケットから予備の抑制薬を取り出した。
これはベータ偽装用ではなく、緊急用の強力な抑制剤だ。
「これを飲んで! 少し楽になるはずだ」
ノエルの口に薬を含ませ、水を飲ませる。
彼は苦しそうに咳き込みながらも、なんとか飲み下した。
数分後、彼の呼吸が少しずつ落ち着いてくる。
危機は脱したか。
わたしは床に座り込み、汗をぬぐった。
その時、温室のドアが乱暴に叩かれた。
ドンドン! という音が響く。
「おい! 中に誰かいるのか! いい匂いがするぞ!」
追っ手だ。
理性を飛ばしかけたアルファたちが集まってきている。
鍵なんてすぐに壊されるだろう。
『どうする? 魔法で追い払うか? いや、そんなことをしたら大問題になる』
焦るわたしの耳に、別の足音が聞こえた。
カツ、カツ、という冷静で重厚な足音。
その音が近づくと、ドアを叩いていた生徒たちの動きが止まった。
「……何をしている?」
氷点下の声。
ジェラルド王子だ。
「で、殿下! いや、これはその……」
「失せろ。私の庭で騒ぐことは許さん」
圧倒的な威圧感。
生徒たちは悲鳴に近い声を上げて逃げ出した。
静寂が戻る。
わたしは安堵したが、次の瞬間、もっと恐ろしい事実に気づいた。
ジェラルド王子が、ドアの前に立っている。
そして、この温室の中には、ヒート直前のノエルの残り香と、それに当てられて不安定になったわたしの匂いが充満しているのだ。
「……開けろ、リアン。中にいるのはわかっている」
バレている。
わたしは震える手で鍵を開けた。
ドアが開くと、逆光の中に立つジェラルド王子の姿があった。
彼は中を見渡し、眠っているノエルと、座り込んでいるわたしを交互に見た。
そして、ゆっくりとわたしに歩み寄る。
「友人を守ったのか。勇敢だな」
褒め言葉だが、目が笑っていない。
彼はわたしの前にしゃがみ込み、汗ばんだわたしの額を指で拭った。
「だが、説明してもらおうか。なぜ、お前からオメガの匂いがするのかを」
ノエルの匂いが移っただけだと言い訳できるだろうか。
いや、彼の目は誤魔化せない。
わたし自身の奥底から湧き上がる甘い香りを、彼は正確に捉えていた。
「言い逃れはできないぞ。俺の理性が、これほど揺さぶられているのだからな」
彼の瞳が、深い、暗い欲望の色に染まっていくのを、わたしはただ呆然と見つめることしかできなかった。




