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第3話「図書室の密会と甘い罠」

 ジェラルド王子との遭遇から数日が過ぎた。

 幸いなことに、あれ以来彼から声をかけられることはなかった。

 あの時は単なる気まぐれだったのだろう。

 そう自分に言い聞かせ、わたしは日常を取り戻そうと必死だった。

 学園生活は忙しい。

 カイル様の身の回りの世話、授業の予習復習、そして何より、自分の正体を隠し通すための細心の注意。

 心休まる暇などない。

 唯一の安息の地は、放課後の旧校舎にある第二図書室だった。

 ここは本館の大図書室と違って人気がなく、埃っぽい匂いと静寂に満ちている。

 わたしのお気に入りの場所だ。

 カイル様は放課後になると取り巻きたちと街へ遊びに行くため、この時間だけは自由になれる。


『ふう……やっと一息つける』


 重たいカバンを机に置き、わたしは書架の間を歩いた。

 目当ては薬草学の専門書だ。

 抑制薬の副作用を軽減する方法がないか、独自に調べているのだ。

 市販の薬は強力だが、体に負担がかかる。

 自分で調合できるようになれば、より安全に、かつ効果的に正体を隠せるかもしれない。

 古い背表紙を指でなぞりながら、奥へ奥へと進む。

 窓から差し込む夕日が、舞い上がる塵を金色に照らしていた。


「あった……これだ、『古代薬草の調合と効能』」


 分厚い本を手に取り、近くの席に座る。

 ページをめくると、難解な専門用語が並んでいたが、前世の知識と今の魔法知識を組み合わせれば理解できないことはない。

 わたしは夢中で読み耽った。

 時間を忘れ、文字の世界に没頭する。

 それが油断を生んだのかもしれない。

 不意に、背後で扉が開く音がした。


『誰か来た? こんな時間に?』


 わたしは慌てて本を閉じ、気配を消そうとした。

 ここは滅多に人が来ない場所だ。

 教職員か、あるいはわたしのような物好きな生徒か。

 書架の陰からそっと様子をうかがう。

 入ってきた人物を見て、わたしは息をのんだ。


「……ここなら静かだと思ったのだが、先客がいたか」


 そこにいたのは、ジェラルド・アークライトその人だった。

 制服のジャケットを脱ぎ、ワイシャツのボタンを少しだけ緩めている。

 完璧な王子様の、少しだけ乱れた姿。

 それは暴力的なほどに美しく、見る者の理性を揺さぶる。

 わたしは反射的に隠れようとしたが、遅かった。

 彼の鋭い視線が、正確にわたしの潜む場所を射抜いた。


「そこにいるのは誰だ。出てこい」


 逃げられない。

 わたしは覚悟を決めて、書架の陰から姿を現した。


「……失礼いたしました、殿下。お邪魔をするつもりはございませんでした」


 深く頭を下げる。

 心臓が口から飛び出しそうだ。

 なぜ、よりによって彼がここに来るのか。

 わたしの平穏プランは、神様によって徹底的に妨害されている気がしてならない。

 ジェラルド王子はわたしを見ると、眉をわずかに動かした。


「お前は……先日の従者か。リアン、だったな」


 名前を覚えられていた。

 それだけで絶望的な気分になる。

 モブがメインヒーローに認知されるなど、あってはならないことだ。


「はい、恐縮でございます」


「そう硬くなるな。今は公務でもない。ただの学生としてここにいる」


 彼は近くの椅子に腰を下ろし、長い足を組んだ。

 その仕草一つ一つが絵になる。

 わたしはどうすればいいのかわからず、立ち尽くしていた。


「座れ。許可する」


「は、はい……失礼します」


 彼の向かい側の席に、恐る恐る腰を下ろす。

 机を挟んでいるとはいえ、距離が近い。

 彼の身体から漂う、冷涼でスパイシーな香りが鼻腔をくすぐる。

 これがトップアルファのフェロモンか。

 ベータを装っているわたしには「ただの良い匂い」としてしか感じられないはずだが、なぜか体の奥が熱くなるような感覚があった。


『まずい、落ち着け。反応するな』


 わたしは必死で呼吸を整えた。

 ジェラルド王子はわたしの手元にある本に目を留めた。


「『古代薬草の調合』……ずいぶんと専門的な本を読んでいるな。従者が学ぶ内容とは思えないが」


「……主人のために、少しでも役に立ちたいと思いまして」


 咄嗟に嘘をついた。

 まさか「自分がオメガであることを隠すための薬を作りたいんです」とは言えない。

 彼はふーん、と興味なさそうに相槌を打ったが、その目は笑っていなかった。


「ヴァイオレット家のカイルか。あの愚か者に、それほどの忠誠を誓う価値があるとは思えんがな」


 辛辣な言葉に、わたしは苦笑いするしかなかった。

 確かにカイル様は愚かだが、わたしにとっては隠れ蓑として重要な存在だ。


「愚かゆえに、従者の支えが必要なのです」


「殊勝な心がけだ。だが、お前からは主への忠誠とは別の、何か必死なものを感じる」


 どきりとした。

 この人は勘が鋭すぎる。

 野性の直感というやつだろうか。


「そ、それは……生活がかかっておりますので」


「ふっ、なるほど。金のためか。正直でいい」


 彼は初めて、わずかに口元を緩めた。

 その笑顔があまりにも破壊力抜群で、わたしは一瞬思考停止に陥った。

 笑うと年相応の青年に見える。

 それが余計に恐ろしい。


「ところでお前、やはり変な匂いがするな」


「っ!?」


 話題が急転した。

 わたしは椅子から飛び上がりそうになるのを必死でこらえた。


「先日は気のせいかと思ったが、今ははっきりとわかる。甘い蜜のような、それでいて拒絶するような……不思議な香りだ」


 彼は身を乗り出し、机越しに顔を近づけてきた。

 鼻先が触れそうな距離。

 蒼い瞳が、わたしの瞳の奥底まで覗き込んでくる。


「な、何をおっしゃっているのか……私はベータです。匂いなど……」


「ベータからは何の匂いもしない。だがお前からはする。微かだが、俺の本能を刺激する何かが」


 逃げたい。今すぐここから走り去りたい。

 だが、体が動かない。

 蛇に睨まれた蛙のように、彼に縛り付けられている。

 ジェラルド王子の手が伸びてきて、わたしの頬に触れた。

 その指先は熱く、触れられた場所から火傷しそうな熱が広がる。


「……隠していることがあるなら、暴きたくなるのが俺の性分でな」


「で、殿下、誰か来ます……!」


「誰も来ない。ここは俺のお気に入りの隠れ場所だ。人の出入りは制限させている」


 つまり、ここは密室。

 絶体絶命だ。

 彼はわたしの顎を指先ですくい上げ、強引に上を向かせた。

 首筋が無防備に晒される。

 オメガにとって急所であるうなじ

 そこを彼に見られているという事実が、本能的な恐怖と、奇妙な高揚感を引き起こす。


「っ……やめ、て……」


「震えているのか? まるで怯える小動物だな。だが、その目は反抗的だ。気に入った」


 彼はそうつぶやくと、ゆっくりと顔を近づけてきた。

 唇が触れるか触れないかの距離で、彼は低く囁く。


「お前が何者なのか、時間をかけて調べてやろう。覚悟しておけ、リアン」


 パッと彼が離れた。

 わたしは椅子に崩れ落ちそうになった。

 彼は何事もなかったかのように立ち上がり、ジャケットを羽織る。


「今日はこれで帰る。邪魔をしたな」


 そう言って、彼は颯爽と図書室を出て行った。

 残されたのは、抜け殻のようになったわたしと、彼が残していった圧倒的な残り香だけ。

 わたしは自分の首筋を押さえ、荒い息を吐いた。

 心臓が痛いほど脈打っている。


『……溺愛ルート回避どころか、完全にロックオンされたんじゃないか?』


 わたしの平穏無事な学園生活計画は、音を立てて崩れ去ろうとしていた。

 だが、まだ終わったわけではない。

 わたしは諦めない。

 彼が「調べる」と言ったなら、徹底的にしらばっくれてやる。

 そう決意を新たにするが、震えはしばらく止まらなかった。

 この日以来、わたしの学園生活は、ジェラルド王子とのスリリングな攻防戦へと変貌していくことになる。

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