第2話「王立学園と捕食者の視線」
王立学園の大講堂は、圧倒的な静寂と緊張感に包まれていた。
高い天井には宗教画のようなフレスコ画が描かれ、シャンデリアが煌びやかな光を落としている。
新入生たちは身分ごとに整列し、その最前列には王族や高位貴族の子息たちが並んでいた。
わたしは従者としての立ち位置、つまり講堂の最後方、壁際に控えていた。
ここからなら目立つこともない。
空気のように気配を消し、ただ時間が過ぎるのを待つ。
それがわたしの作戦だった。
『広いな……それに、空気が重い』
肌にピリピリとした刺激を感じる。
これは魔力だ。
この学園に集う生徒たちは、皆優れた魔力の持ち主である。
特に貴族階級の生徒たちは、幼い頃から英才教育を受けており、その魔力量は平民の比ではない。
加えて、ここには「性」によるヒエラルキーが存在する。
会場の前方に漂う、圧倒的な威圧感。
それは高ランクのアルファたちが放つ、特有のオーラだった。
わたしのような隠れオメガにとっては、呼吸をするだけで肺が焼けるような感覚に陥る場所だ。
抑制薬を飲んでいなければ、この場に立っていることさえできなかっただろう。
「新入生代表、ジェラルド・アークライト」
司会の声が響き渡ると同時に、会場の空気が一変した。
ざわめきが波のように広がり、そして瞬時に静まり返る。
最前列から一人の青年が立ち上がり、演台へと向かって歩き出した。
その姿を見た瞬間、わたしの心臓が早鐘を打った。
『あれが……ジェラルド・アークライト』
黄金の髪は照明を受けて輝き、氷のように冷たく、それでいて吸い込まれそうな蒼穹の瞳。
整いすぎた顔立ちは、神が手ずから彫り上げた彫刻のようだ。
長身痩躯でありながら、服の上からでもわかる鍛え上げられた肉体。
歩くたびに、周囲の空気が彼に従うように揺らぐ。
彼こそがこの国の第一王子であり、ゲームのメイン攻略対象。
そして、最強のアルファだ。
『やばい、直視できない』
本能が警鐘を鳴らしている。
あれに関わってはいけない。
あれは、わたしのような小動物を捕食するために存在する生き物だ。
わたしは慌てて視線を伏せた。
だが、その声は鼓膜を震わせ、脳髄に直接響いてきた。
「……我々は選ばれた者として、その力と責任を自覚し……」
低く、甘く、そして絶対的な響きを持つ声。
ただの祝辞が、まるで王の勅命のように聞こえる。
会場にいるオメガたちはもちろん、ベータや下位のアルファたちでさえ、その声に魅了され、あるいは畏怖していた。
わたしの隣にいた別の貴族の従者が、顔を赤らめてため息をつくのが聞こえる。
フェロモンにあてられているのだ。
わたしは必死で理性を保ち、無の境地を維持しようと努めた。
『わたしは石だ。ただの背景だ。誰の目にも留まらない、路傍の石ころだ』
ジェラルド王子のスピーチが終わると、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
彼は優雅に一礼し、壇上を降りる。
その時だった。
ふと、彼がこちらを見たような気がした。
広大な講堂の、最後方の隅にいるわたしの方を。
背筋に冷たいものが走る。
『気のせいだ。あんな遠くから、こんな地味な従者が見えるはずがない』
わたしは自分に言い聞かせ、さらに深くうつむいた。
しかし、その視線の熱さは、わたしの肌を焼くように残っていた。
入学式が終わり、生徒たちがそれぞれの教室へと移動を始める。
わたしはカイル様と合流するために、人混みを避けて廊下を歩いていた。
カイル様はクラスメイトの取り巻きたちと談笑しているはずだ。
その輪に入りたくはないが、従者としての務めがある。
「おい、そこをどけ! 邪魔だ!」
突然、前方から怒鳴り声が聞こえた。
見ると、数人の男子生徒が一人の生徒を取り囲んでいる。
囲まれているのは、小柄で愛らしい顔立ちをした青年だった。
ハニーブロンドの髪に、大きな琥珀色の瞳。
『あれは……ノエル!?』
ゲームの主人公、ノエルだ。
彼はオメガだが、特待生としてこの学園に入学してきた。
その愛らしさと健気さで、次々と攻略対象たちを陥落させていく「魔性のオメガ」である。
だが今はまだ、ただの虐げられる平民の青年に過ぎない。
「平民のくせに、僕たちの前を歩くなんて生意気なんだよ」
「す、すみません……でも、急いでいて……」
「言い訳をするな!」
男子生徒の一人が手を振り上げる。
見ていられない。
ここでノエルが怪我をすれば、後のイベントに支障が出るかもしれない。
いや、それ以前に、目の前で理不尽な暴力が行われるのを黙って見過ごすのは、わたしの良心が許さなかった。
『くそっ、モブはモブらしくしてなきゃいけないのに!』
わたしは一瞬の躊躇のあと、彼らの間に割って入った。
カイル様の従者という立場を利用すれば、多少のことは許されるはずだ。
「そこまでになさってください」
わたしの声に、男子生徒たちがぎょっとして振り返る。
「なんだお前は? 従者の分際で」
「私はヴァイオレット家の従者、リアンと申します。主がお待ちですので、道を開けていただけますか? それとも、ヴァイオレット家の通行を妨げたと報告いたしましょうか?」
カイル様の実家の威光を借りる、典型的な虎の威を借る狐。
自分でも情けないとは思うが、効果はてきめんだった。
彼らは「ヴァイオレット家」という名を聞いて顔を引きつらせ、捨て台詞を吐いて去っていった。
残されたのは、震えるノエルとわたしだけ。
「あ、あの……ありがとうございます」
ノエルが涙目でわたしを見上げる。
その瞳は潤んでいて、確かにこれは守ってあげたくなる魅力がある。
だが、わたしはここで彼と関わりを持ちたくない。
「気にしないでください。たまたま通りかかっただけですから」
冷たく言い放ち、その場を立ち去ろうとした。
しかし、すれ違いざまにノエルがわたしの袖を掴んだ。
「待ってください! あなたから、すごくいい匂いが……」
「は?」
心臓が止まるかと思った。
抑制薬は飲んでいるはずだ。
匂いなどするはずがない。
「気のせいです。私はベータですから」
袖を振り払い、逃げるようにその場を後にした。
角を曲がり、壁に手をついて荒い息を吐く。
心臓の音がうるさい。
『まさか、薬が効いていないのか? いや、そんなはずは……』
焦燥感が胸に広がる。
もしフェロモンが漏れているとしたら、わたしの計画は初日から破綻していることになる。
震える手でポケットの中の薬瓶を確かめた。
硬い感触に少しだけ安堵する。
大丈夫だ、まだ終わっていない。
そう自分に言い聞かせながら、わたしは再び歩き出した。
だが、その先に待ち受けていたのは、さらなる絶望だった。
廊下の向こうから、数人の側近を連れたジェラルド王子が歩いてきたのだ。
逃げ場はない。
わたしは壁に張り付き、最敬礼の姿勢をとって彼らが通り過ぎるのを待った。
足音が近づいてくる。
コツ、コツ、と規則正しい音が、わたしの死刑執行へのカウントダウンのように聞こえる。
そして、その足音がわたしの目の前で止まった。
「……顔を上げろ」
頭上から降ってきた声に、わたしは凍りついた。
ゆっくりと顔を上げる。
そこには、氷のような蒼い瞳が、探るような光を宿してわたしを見下ろしていた。
「お前、名を何という?」
「……リアン、リアン・キャンベルでございます」
声が震えないようにするのが精一杯だった。
ジェラルド王子は目を細め、鼻をひくりと動かした。
その瞬間、彼の瞳孔が一瞬だけ縦に裂けたように見えたのは、わたしの恐怖が見せた幻覚だったのだろうか。
「……奇妙な匂いだ。甘いような、それでいてどこか冷たい」
彼はつぶやき、興味深そうにわたしの顔を覗き込んだ。
その距離、わずか数センチ。
整いすぎた美貌が視界いっぱいに広がる。
わたしは息を止めた。
吸い込まれそうだ。
捕食者に睨まれた小動物の運命を、わたしはこの時、はっきりと悟ったのだった。




