降夜(1月11日・2)5
「で、でも意外としっかりしているからな。どこかでまた揉め事に首を突っ込んでるのかもしれないぞ。そのうち戻って来るかも。あのクソ餓鬼……」
ゴルトの言葉が空々しく聞こえないのは、彼女も必死の思いで祈ってるからに違いない。
「戻ってくると……そう信じたいですね、ミサ」
しばらく重い沈黙が続いてから、彼はゴルトの視線に気付いた。
「ミサ?」
「お飾りみたいにミサお嬢様と呼ばれるのが、すごく嫌だったな。ボスか、ゴルトと呼んで欲しかった。その方が強そうだろ」
「あ、わ、悪い」
反射的に謝っていた。お嬢様付きで嫌なんだったらまして呼び捨てなど我慢ならない、そう言われているように思ったのだ。
つい名前で呼んでいたのだが、馴れ馴れしすぎたろうか。
「いや、そうじゃなくて。貴様にミサと呼ばれるのは……まぁ、悪くない」
「そ、そうですか?」
どう返したらいいのか。顔を赤らめて降夜が黙ったのを見て、ゴルトは呆れたように目を細める。
「ちょ、調子に乗るなよ。不愉快なのに変わりはない」
久々に怒鳴られた。こういう所は変わってない。
心地良いのか不愉快なのか、どっちだよ。降夜の笑顔が引き攣った。
「それで? 貴様の悲しいくらいの貧乏っぷりはどうなった。仕事はあるのか?」
見下すような調子で変えられた話題に、降夜は胸を押さえた。棘がチクリと刺さるようだ。
「迷い猫捜しの依頼が来たけど断ったよ。僕はボディーガードだからな」
「仕事を選ぶな。だから貴様は駄目なんだ」
「………………」
駄目とか貧乏とか──事実とは言えちょっと痛い。
「貴様は日本に戻れ。汚職政治家のボディーガードでもすれはいい。危険は少ないし、金はいいし」
──ついてねぇな。
聞こえないように降夜は口の中で呟いた。下半身に麻痺が残ったと聞いたからこちらも悲壮な覚悟で見舞いに来たってのに、この言い草は何だ。元気じゃねぇか。
そう言っても彼女には「見舞いに来いなどと言った覚えはない」と反論されるに違いない。
「ミサは? これから?」
不貞腐れたように聞き返すだけ。するとゴルトは一瞬、口を噤んだ。
「しばらく入院──先は見通せんな。部下の一人も見舞いに来ない以上、帰るところももうあるまい。まぁ、少しでも足が動くようにリハビリしていくつもりだが……」
絶望的だな──両足を見つめながら、小さな声でそう呟く。
「そっか……」
希望を捨てるな、という言葉が何になる。降夜は彼女に何も言えなかった。
数分間、二人の間に重い沈黙が流れる。
「もう帰れ、降夜」
「ああ、うん。じゃあ、僕は……また来るよ」
そう言って降夜が部屋を出る背中を見送ってから、ゴルトは無感動に灰色の窓に視線を転じた。
悔しいとか辛いとか悲しいとか──心は何も感じない。
今度、奴はいつ会いに来てくれるだろうか。いや、もうここに来る事はあるまい。無感動にそう思う。
人生はここで終わったように感じた。
だから再び扉が開く気配にも、彼女は視線を動かさなかった。
看護士だろう。いつものように点滴を取り換えにきたに違いない。
近付いて来る音。何かを引きずるような少し重い……。
「逃げよう、ミサ」
「?」
突然の大声に、ゴルトはぎこちなく首を動かして扉方向を見た。
そこに居たのは見慣れた黒ずくめの男である。
「降夜、貴様何やって……?」
彼は両手に折りたたみ式車椅子を抱えている。
大股でベッドに近付いて来た彼はさっきまでとは違う明るい表情を彼女に見せた。
「ここから逃げよう」
「え?」
「一緒に日本に行こう。ドイツでもいい。そこで治療しよう。うん、それがいい。治るって!」
「に、日本 ドイツだって? おい、ちょっ……何やってんだ」
心電図や器具のコードを次々と外していく。彼女が怒鳴るのにもお構いなしだ。
ゴルトが思うように身体を動かすのが難しいのを良い事に、ひょいとその身を抱え上げると車椅子に座らせる。そのまま廊下に飛び出した。
「貴様、いい加減に……!」
怒るゴルトだったが、血相変えてこちらに走って来る医者を目にして咄嗟に叫んだ
「早く、降夜。逃げるぞ!」
「おう!」
廊下を突っ切り、車椅子を抱えて非常階段を下りる。歓声をあげながら路地を駆け抜けた。
灰色の街がこの瞬間、ふたりの前で金色に染まった。




