2.降夜(コウヤ)【Kring(戦争)】真霧(マギリ)(1月10日・1)1
金で装飾を施された悪趣味な洋館を、街の者は皮肉も込めて黄金屋敷と呼ぶ。
マフィアの一派──ゴルト派の本拠地であるのだから、あながち的外れな名でもあるまい。奴等マフィアを中心とした金の流れを暗に揶揄した名前とも言えよう。
その派手な屋敷の側を、全身黒ずくめの1人の男が通り過ぎていた。
体格の良い、若い男だ。日本人だと分かる。
珍しいのは東洋人が、この街に完全に溶け込んでいるという事。
だらしなく足を引きずり、レザーの黒ジャケットのポケットは異様な形に盛り上がっている。銃を携帯している事を隠そうともしない様子だ。手にしているのは競馬新聞。
ぴくり。男のこめかみが震えた。次いで鼻腔が痙攣する。
「きな臭ぇ……」
呟くと同時にその場に蹲る。
一瞬後、路地裏で爆発音。炎と共にアスファルトの欠片が飛んできた。
動物的な様相でくんくんと鼻を動かす。
火薬、それから肉の焦げた臭い。
何人か死んだな、と男は呟く。
こんな事には慣れている。それにしても最近爆弾テロが多いな。マフィアの抗争が近いのだと、知り合いの女刑事が言ってたっけ。
「そんなこと、僕には関係ねぇ」
そんな事より……と、男は自らの腹を押さえた。さっきからグルグル鳴っている。
「ちっ、ついてねぇな」
彼は爪を噛んだ。
目当ての店が休みだと気付いたからだ。
路地裏という意味を持つ『ネーベン・ガッセ』──通称『シリアルK』は入口の扉を閉ざしていた。日曜にベルリンで行われる競馬の馬券を買って、ついでに昼飯を食おうと思っていたのに。
「潰れるな、この店」
悪態をついて引き上げる。
足取りは軽やかだ。爆発の相次ぐ物騒な街を、災難を縫うように進むのにはもう慣れている。しょうがねぇ。家に帰るか。
『シリアルK』からさほど遠くない路地裏。
見るからに古びた、それこそ潰れそうな雑居ビルの一室が彼の住処だ。
ボディーガード業事務所兼自宅。もっとも開店休業というのが現実で、依頼人なんてここ半年お目にかかったためしがない。
一匹狼の東洋人に、誰がガードなど頼むだろうか。そろそろ転職を考える潮時だと、しかし彼はまったく気にしてはいなかった。
事務所の前に人影を発見した彼は、反射的に柱の影に姿を隠す。
ヤベェ、借金取りか? 一瞬、不吉な考えが脳裏を過ぎったのだ。
しかし、人影は小さい。
女性──いや、女の子だ。白い服を着た小さな少女が、落ち着かなさげに扉の前に立ち尽くしていた。彼の足音に敏感に反応してこちらを見やる。
「あ、あの、降夜さんですか。何でも屋さんの」
震えるような小さな声だ。大きな眸は潤んでぷるぷる震えている。
「い、いや、何でも屋じゃなくて。僕は……」
ボディーガードだ。と告げて、普段なら即追い返す筈の彼──降夜だったが、今回はちょっと口ごもった。
小型犬のようにふるふる震える小さな姿を前に、きつい言葉が出てこなかったのだ。
哀れなくらい貧弱な体形の少女だ。栄養が行き届いていないのか、色素が抜け落ちたように肌は白く、骨が浮くくらい痩せている。実際年齢はともかく、見た目では十歳そこそこかと降夜は判断した。
しかし少女の整った顔立ちは、稀に見るくらいに愛らしいものだった。保護欲を掻き立てられる──そんな印象だ。
チワワって犬みてぇだな。だから可愛いんだ。降夜は単純にそう判断した。
チワワに似た少女は、全身を震わせながら降夜を見上げる。
「た、助けてください。シルがさらわれた。お願い。この街の警察はあてにならないけど、あなたなら動いてくれるって。腕も確かだって聞いたの。お願い、助けて」
一息に喋って、少女は肩を落とした。心底落ち込み、疲れ切った様子だ。放っておくわけにもいかず、取りあえず家に招き入れる事にする。事務所にしている居間の椅子に彼女を座らせた。
「聞いたって誰にだ?」
少女は「アパートの下の階の人です」と答えた。何だそりゃ、曖昧すぎんだよと、降夜は心の中で毒づく。
少女は真霧と名乗った。見たところ現地人のようだ。東洋系ならともかく、こちらの人間がそんな名を持つ事はまずないのだが。
「珍しい名前だな」
そう言っただけなのに、真霧はグスッと鼻を鳴らした。




