逃げられませんでした
「シンシア」
「え……、エドウィン様?」
最初に思ったのは『しまった』ということだった。お母様に協力してもらって病気療養中ということにしてあるのに、滅茶苦茶元気に友人宅から出てきたのをばっちり目撃されてしまった。端から信じられていたかはわからない嘘が完全にバレたのは明らかだ。
「動けないほど体調を崩しているって訳じゃなくて安心したよ、シンシア」
「え、ええ……その、今日は以前からの約束でしたので、少し無理をして出てきましたの……ほほほ」
──いや、ムリ! 誤魔化すとか絶対ムリ! エドウィン様の目が、目が笑ってない!!
エドウィン様は顔が整いすぎて無表情だと怖いけど、笑うとほんとに優しい顔になるって思ってた。でもそれは違ったと今わかった。あんなに優しい顔になるのは、目がちゃんと笑ってたからだ。優しく細められた目がないとほんっとに恐怖の笑顔すぎる。
わたしは完全に引き攣った笑みで逃げ場──馬車をちらっと確認した。
「そうそう、シンシア」
「ひゃいっ」
「来週の王宮で開かれる夜会に、私と出ると約束しただろう?」
「え? あっ」
そういえば忘れていた。まだわたしがエドウィン様とイチャイチャしていた──何も知らずに遊ばれていたともいう──頃、春の終わりに毎年王宮が主催する夜会に、エドウィン様のエスコートで出ると約束していた。でもあれは口約束だったし、恐らく届いた招待状にはお父様がわたしは欠席と返事したはずだ。招待状が届く頃にはわたし王都にいなかったし。
当主にはよほどのことがない限り出席の義務があるけど、子息や令嬢にはそういう義務はない。つまりもうわたしには関係のない話だ──と思いたかったのに。
「私がシンシアをエスコートすることは、父から既に国王陛下にまで伝わっているはずだ。そろそろ王都に帰って準備した方がいい」
「はっ!?」
──はあっ!? 何言ってんの!?
思わず叫ばなかった自分を褒めたい。称えてもいい。
エドウィン様の父というと、宰相のロマチストン侯爵だ。そりゃあ国王陛下に話は通しやすいだろう。けど、けどっ。
──信っじらんない! 権力行使しやがった!
当たり前だけど、王宮主催というのは王族主催ということで、一度夜会に参加の返事をしたら何が何でも出席しないとまずい。でないとあそこの家は簡単に約束を反故にするとかって言われてハブられるし、国王陛下にそんなことをするのは不敬だってことで親王派からは目の敵にされる。
それをわかっていて、エドウィン様はわたしが逃げられないように、父親に頼んで国王陛下にわたしの参加を伝えてしまった、ということだ。
ムカムカ~っときて、反論しようと口を開きかけた。だけど、目の笑っていないエドウィン様の笑顔を直視したら、怒っていた気持ちがプシュ~っと萎れていった。
──ああ、そうか。わたしはエドウィン様にとって、権力で思い通りにしていい相手ってこと、なんだ……。
胸がぎゅっと痛んで、目の奥が熱くなった。
だけどわたしは強く奥歯を噛み締めて、下がろうとする口角を無理に上げてにこりと笑顔を浮かべる。
絶対に、泣きたくなかった。これは貴族令嬢の意地じゃなくて、わたしの、シンシア・スメキムスの意地だ。わたしはわたしを軽く見て、権力でもって抑えつけるような男に屈する女になりたくない。
はっと息を呑んで怖い笑顔を崩したエドウィン様を制するように、わたしは口を開いた。
「あら、でしたらまだ数日ゆっくりする時間がございますわ。わたくしはもう少々領地にて療養いたしますので、夜会の日にお目にかかりたく存じます」
「シ、シンシア……」
「では失礼いたします、ロマチストン侯爵ご令息」
「っ」
さっさと馬車に乗り込もうと歩を進めると、自然エドウィン様に近付くことになる。何でもない顔をしながら横を通りすぎようとした瞬間、腕を掴んで引き止められた。
「ちょ、」
「やめてくれ、シンシア……そんな他人行儀な呼び方は」
「他人で合っておりますわ」
その瞬間、エドウィン様がぎゅっと唇を噛み締めた。切なそうな、そう──傷付いたような表情、で。
──な、なによ。傷付いたのはこっちよ!? いや、違うわ、きっと演技してるんだ。わたしの良心につけこもうとしてるんでしょ!
「私は……私は、君を愛している。シンシア」
「はっ」
──はああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!???
あまりの驚きに、むしろ叫べなかった。
──こっ、こいつ! ついに禁断の言葉まで使いだしやがった!!
自分が捨てるより前に捨てられるのが、そんなに嫌なんだろうか。遊び相手にまるで本気みたいに愛を告げるほど?
わたしには全然わからない思考だ。わかりたくもない。
いっそ嫌いになってしまえればよかったのに。そう思ってしまうほど、目の前にいる男は最低な遊び人だ。だけどまだ、わたしはエドウィン様を嫌いになれない。
──だって本当に、優しかったんだもん。
わたしはエドウィン様にエスコートされている時、一度も歩きにくいと思ったことがない。女性の平均身長よりずっと小さいわたしは、どうしても他の女性よりも歩幅が小さい。だからお父様やクリスお兄様にエスコートされる時でさえ、たまに歩きにくいことがある。なのに長身のエドウィン様は最初からずっと完璧にわたしに合わせてくれた。
それに、夜会でわたしを強く睨むご令嬢がいるなあと思えば、必ずその人との間に身体を割り込ませて視線を断ち切ってくれたし、お花摘みの帰りに高位貴族のご令嬢から嫌味を言われていれば、すぐに察知して迎えにきてくれた。夜会の行き帰りだって心配だからって毎回送迎してくれた。
わたしが宝石にもドレスにも興味がないのを察して、プレゼントには花束や栞を贈ってくれた。特に栞はわたしの好みの可愛い柄のものをいくつもくれた──わたしが栞を集めるのが趣味だって言ったことはないのに。
歯の浮くような台詞ばかりが目立ったけど、エドウィン様はずっとそうやってわたしを大事にしてくれた。いつだって優しかった。
その優しさが全て嘘だったと、わたしはまだ信じられない。
「こんな場所ですまない……だが、私は君を愛しているんだ。どうか、もう一度チャンスをくれないか。君の望まないことは絶対にしない、だから……頼む、シンシア。私は君を諦められない」
──はぇ~、すっごい愛されてる気分だわ。エドウィン様の本気、すごい。
わたしは白旗を上げた。だってもう、こんなに熱烈に口説かれたら本気にしちゃいそうだから! そうならないうちに逃げ帰りたいの!
「わ、わかりましたわ、エドウィン様」
「っ、シンシア、ありがとう……」
「あの、わたくしそろそろ帰らないと家族が心配しますので」
「ああ、そうだな。引き止めてすまなかった」
エドウィン様はあの優しい笑顔に戻って、掴んでいたわたしの腕を離した。ずっと握られていたせいでそこだけ熱くなっていて、なんだか空気がひやりとする感じがした。
馬車に乗るのにもエドウィン様はにこにことエスコートしてくれて、わたしはまた後日、と挨拶して座席にぐったりと座りこみたいのを我慢してそっと座り、扉が閉まってしばらくして馬車が出発すると、ようやく背凭れにべしゃりと倒れこんだ。
もちろん同乗している侍女と護衛は見ているけど、二人は昔からのわたしの専属だから、令嬢らしくない姿なんて今更だ。
「お嬢様、申し訳ございません、わたくしどもでは侯爵ご令息に意見ができず……出待ちを許してしまいまして」
「申し訳ありません」
わたしの侍女ルーナは男爵令嬢で、護衛のダンに至っては平民だ。エドウィン様に意見だなんて勿論求めてない。慌てて身体を起こして「ううん、大丈夫よ」と声をかけると、ダンはほっとしたように胸を撫で下ろした。ルーナはというと、謝罪するような神妙な顔ではなく、何故か笑いを堪えるような変な顔になっている。
どういうことかと見ていると、ルーナは急ににやにやと意味ありげな笑みを浮かべた。
「なに、どうしたの、ルーナ」
「いえ……お嬢様、よかったですね」
「え? なにが?」
「ロマチストン侯爵ご令息ですよ! お嬢様は王都から急に領地に帰ってきたと思ったら布団虫になってしまわれて、きっと侯爵ご令息と仲違いされてしまったんだろうと思っていましたが、追いかけてきてくれて、しかもあんなに熱い告白までされて! 本当によかったですわ」
「あ、あー……」
あの夜会でエドウィン様に言われたことを、わたしは親友二人にも詳細は話していなかった。だってあまりにも勘違いしてた自分が恥ずかしすぎて。
だけどでも、そうなると周りからはルーナが言った通り、わたしたちはちょっと仲違いしたけど元サヤに戻った、という認識になるわけだ。
──でも、話せないよねぇ。
本当に、前世で恋愛経験積んどけばよかったって心から思う。遊び人に引っかかって、その遊び人を好きになっちゃって、遊ばれてたって言われました──なんて誰にも言える訳がない。せめて真っ当な恋愛の経験が一つでもあれば違うのかもしれないけど、そういうことから遠ざかっていたわたしには厳しすぎる。
これはもう一旦逃げるのは諦めて、エドウィン様が飽きるまで付き合うしかなさそうな気がする。
──はあ。エドウィン様、さっさと飽きてくれないかな……。
エドウィン様の告白がどうも琴線に触れたらしいテンションの高いルーナの声を聞きながら、わたしは馬車の窓から高い空を見上げていた。