侯爵閣下エルフ説、あると思います
ただ我武者羅に走っているうちに、どうも見たことのある廊下に出た。扉の装飾をよく確認して、化粧室の扉だということに気づく。
──帰って、きたんだ。
知っている場所に戻ってきたというのに、少しも嬉しくはなかった。一刻も早くこの煌びやかな場所を立ち去りたい。
負担をかけすぎたせいか鉛のように重い足を動かして、わたしはホールの方へ向かった。
「シンシア嬢」
近衛兵が立っている側の壁に背を預けていたロマチストン侯爵閣下が、わたしを見てほっとしたように笑顔を浮かべた。
「ロマチストン侯爵閣下、大変お待たせいたしまして申し訳ございません」
一体どれだけの時間待たせたか定かではないが、普通に考えて怒られてもおかしくないほどの時間だったと思う。幸い侯爵閣下には怒っている様子はなかったけど、わたしはしっかりと頭を下げた。
「いや……それよりも、何かあったのかい?」
「いえ、何もございません」
「何も?」
「ええ」
これだけ長時間待たせておいて何もないだなんて、誰が聞いても嘘だとわかるだろう。でもわたしには、さっき見てしまったことを言うつもりも、その前に何故迷うような事態になったかを言うつもりもなかった。貴族令嬢の微笑みを貼り付けて、探るような侯爵閣下の視線を躱す。
「……そう、か。ああ、先程エドウィンの侍従が来てね、エドウィンは体調を崩していて、少し休んでから帰るつもりだと。君を一人にはできないから、帰りは送ってほしいと頼まれたよ」
「そ……です、か」
──嘘つき! 王女殿下と密会してるくせに! どうせ今日はあの部屋に泊まるつもりでしょ! まだ婚約もしてないのに! 不潔! ふしだら!! 最低男!!!
心の中で散々に罵って、胸を覆い尽くしそうな悲しみを誤魔化す。わたしは家に帰るまで、絶対に泣かないし動揺した姿を見せないと決めているのだから。
「でしたら、わたくしご挨拶する方もおりませんし、少し早いですがお暇したく存じます」
「ああ、わかった」
侯爵閣下は後ろを振り返ると、近くの壁際に佇んでいた男性に何か合図を送った。小さく頭を下げて足早に廊下を去っていく男性は、恐らく侯爵閣下の侍従だろう。
「あまり顔色が良くないな。馬鹿息子の代わりにエスコートさせていただいても?」
「そんな、畏れ多いですわ」
「こんなに可憐なご令嬢を一人で歩かせるなんて、紳士の名折れだよ。私の名誉のためにも、どうか」
その言い方はずるい。これで断ったら、わたしは侯爵閣下の名を貶めたいと主張することになってしまう。
どう考えても断れるわけがない。諦めて大人しくエスコートされることにした。
殊更ゆっくりとした歩調で、賑やかなホールを横目に出入り口を目指す。
何もなかったというわたしの嘘を追及するでもなく、侯爵閣下は薄い微笑みを浮かべたまま王宮の外へ出て、侯爵家の馬車に恭しくエスコートしてくれた。侯爵閣下の侍従から連絡を受けたのか、馬車の待機場で待っているはずのルーナもそこにいる。
わたしとルーナが馬車に乗り込んだあと、侯爵閣下も馬車に乗ってきてわたしはぎょっとした。
「こ、侯爵閣下! ここまでで結構ですわ。宰相も務めておいでですし、侯爵閣下にはご挨拶する方が大勢いらっしゃるのでは……」
「いや、そんなことはないよ。むしろ取り入ることしか考えない連中にずっと付き纏われて、それを見た噂好きの方々に変に肩入れしてると話を広められるよりも、こういう場ではさっさといなくなった方がよほど良いんだ」
「そ……そうなの、ですね」
なんというか、権力を持つというのも良いことばかりじゃないんだな、と非常に小物感溢れる感想を抱いた。いや、わたしそういう世界から遠いところにいたし。
「妻が一緒の時も2、3曲踊ってすぐに帰るんだ。そういう訳だから、早く帰る口実ができたことはむしろ良かったよ」
「でしたら、良かったです……ところで、今日は侯爵夫人はどうし……あっ」
──しまった! なんかこういうことってズバリ訊くのマナー違反じゃなかったっけ!?
貴族ってほんと面倒くさいことに、異性相手のパートナーに言及するのはある程度仲の良い人でないとダメらしい。そんな馬鹿なって思うけど、こんなところを他の人に見られたら、きっとわたしが侯爵閣下を狙ってるなんて噂が流れたりするんだと思う。マジで、本当に貴族って面倒くさい。
「ああ……そろそろ強引な手を打ってきそうだと思っていたからね、ヴィヴィアンは連れてきていないんだ」
怒るでもなく、侯爵閣下は普通に答えてくれた。ヴィヴィアンというのが侯爵夫人の名前だろう。
──それにしても、強引な手って何の話だろう? もしや侯爵夫人を狙う不届き者がいるんだろうか? それって一介の子爵令嬢のわたしが聞いてもいい話?
わたしが不安な顔になったのに気がついたのか、侯爵閣下は笑みを深めた。向かい合って座っているせいなのか、侯爵閣下の麗しい笑顔にものすごい圧を感じる。
なんだか、笑っているのに怖い。
「あれがこの事態をどう切り抜けるか。まあ、楽しみにしていよう」
──え、何? 侯爵夫人の話じゃないの? 何の話??
わたしは年齢不詳な侯爵閣下の美麗な笑みを見ながら、返事もできずに引き攣った微笑みを顔に張り付けていた。
──わかんない、ぜんっぜんわかんないよ侯爵閣下! やっぱこの人、絶対エルフ族だー!!
わたしの心の叫びは、もちろん誰にも気づかれなかった。……たぶん。