トラウマほじくり返さないでください!
王女殿下とのダンスを終えたエドウィン様は、すぐに戻ってくると思っていた。
だけどあれから、わたしがりんごジュースを3杯飲み干しても帰ってきていない。
このホールの横には扉で小ホールが2つくっついていて、踊らなかったり歓談をする人たちはそちらに流れていった。そのお陰でホールは見渡しやすくなり、音楽に合わせて踊る男女の向こうに、エドウィン様がずっと王女殿下と話し込んでいるのがよく見えた。
──エドウィン様は、わたしで遊ぶのはやめて王女殿下に乗り換えたいんだろうか?
これ以上エドウィン様の遊びに付き合うなんてごめんだと、エドウィン様が早く飽きてくれればいいと思っていたのに、いざそうなると思うとこんなに胸が痛いのは何でだろう。
「……エドウィン様のばか」
「そうだね、エドウィンは大馬鹿だ」
「っ」
うっかり心の呟きが漏れた上に、一番聞かれてはいけない人に聞かれてしまった。わたしは慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ありません!」
「いや、いいんだよ。言っただろう? 私もエドウィンは大馬鹿だと思っている。というか、大馬鹿になってしまった、が正しいかな」
「あ、ええ……そ、そうですか」
反論したら高位貴族への口答えだし、肯定したら高位貴族への侮辱だ。なんと難しいことを言ってくれるんだ、と思ったけど、発端は自分の失言だった。文句を言う権利なかったわ、わたし。
「人間味がでたと喜んでやれればよかったんだがね。立場と境遇がそれを許さない。特に今は状況がよくないからね……一分の隙もなくすよう考えを巡らせないと、大事なものは零れ落ちていってしまう。そう、忠告もしたんだが聞いているのかどうか」
──な、何の話だろう?
わからないまま微笑み続けるわたしを見て、侯爵閣下は笑みを深めた。
「君にも一つ、忠告しておこうか。内に籠るのはやめなさい。まず目の前のことを大事にするのが肝要だ。でないと、一度通り抜けた風は二度と同じ風として吹いてはくれないのだから」
ドキッとした。侯爵閣下の麗しい笑みではなくて、その言葉に。
『内に籠るのはやめなさい』
見透かされている気がした。わたしの奥底に眠る記憶を。
それは前世での記憶に由来する。元々引っ込み思案だったわたしは、中学生になって初めて友だちができた。だけど、わたしは偶然その友だちと同じ人を好きになってしまった。とはいえ特に付き合いたいとかでもなく、ただ姿が見られたら嬉しいとか、挨拶できるだけでいいみたいな、恋というより憧れの感情に近かった。だけどそれを知った友だちは、わたしの悪い噂と共にあちこちでそれを吹聴して回った。結果として、わたしは淡い恋心のようなものをクラス全員の前で一刀両断されるという、ひどい経験をした。
それ以来、わたしは友だちを作らなかった。そして読書にのめり込んだ。だけど前世でもポジティブだったから、ヒーローに溺愛されるヒロインが羨ましくて、わたしも大人になったら誰も知り合いのいないところでこんな恋愛してやるんだ、と思っていた。
でもやっぱり、心のどこかでは他人が怖かった。
友だちだったはずのわたしを貶めたあの子や、わざと皆の前で『お前だけは無理』と言い放ったくそ野郎、くすくすとわたしを嗤うクラスメイトたち。
前世を思い出すまでの7年、家族に溺愛された記憶のお陰でほとんど埋もれていた記憶だけど、なくなった訳じゃない。
この世界でできた親友の2人にだって、わたしはずっと身分を偽っている。エドウィン様にも貴族令嬢らしくない本当のわたしを見せたことはない。
──だって、心を開いてまた裏切られたら?
どこかでそう思ってしまうからだ。
わたしは他人を信用するのがこわい。だから自分の中に閉じた世界を作り上げて、すぐそこに引き篭ろうとしてしまうのだろう。
わかったところで、改善の方法なんてすぐには思い浮かばない。
わたしはにこりと微笑んでみせた。
「ええ、気をつけますわ。ところで侯爵閣下、わたくしお化粧を直したいのですが……」
「……そうか。では廊下まで送ろう」
「お願いいたします」
きっと侯爵閣下にはわたしが聞き流したことを知られただろう。でももう、取り繕う気にはなれなかった。わたしの心をこれ以上暴かれないためにも、わたしは逃げることにした。
足早に廊下に出ると、女性用の化粧室が並ぶ方の廊下への入り口で立ち止まる。ここから先は男性の立ち入り禁止だ。近衛兵が二人控えて厳しく見張っている。
「では、ここで待っているよ」
「いえ……」
「私は息子から君を頼まれている。それに君は私の……いや、気が早かったな。エドウィンのことを言えないな、私も」
「え?」
後半はぼそぼそと喋られてよく聞き取れなかった。聞き返すと、侯爵閣下はにこりと優しそうな笑みを浮かべる。優しそうなのに、どこか圧を感じる笑みを。
「何でもない。とにかく私はここにいるから。どうせ妻もいないしホールにいる意味もないからね」
「ええ、それでは……」
反論を許さない雰囲気を感じ取ってわたしは頷いた。こんなに優しそうなのに宰相だなんて、とさっきまでは思っていたけど、どうやらわたしの思い違いだったらしい、と考えを改めながら。