1‐2 そのクラゲを回せ
男はクラゲのせいでここしばらくは釣りが上手くいかないと嘆いた。成果が全くないのは苦しいと言う。釣りに成果を鼻から期待してはいけないのだと力説するも釣りの才能がないのだと詰られてしまう。そうしたことを訥々と語る男はどの話を切り取っても家族愛という最も遠く共感しがたいものを出会ったばかりの他人に細かに描写させる才能で溢れていた。
ふと、どうしてクラゲを見に来たのかと聞かれて、水族館で回るクラゲを見たからというどこに行き着くわけでもない答案を返すと男は朗らかに肯定し、ならば自分で持ち帰ってクラゲを回してみるといいと海水が入っていたバケツにクラゲを網で掬いとって持たせてくれた。一掬いで溢れるほど入ったバケツは両手で持たなければいけなかった。網が掬って出来たすき間にクラゲが補充されて、遠くの方では波に誘われた憐れなクラゲが永遠に来ない順番待ちをしていた。
回してみろと言われてもクラゲを回すための実験用装置があるわけではない。持て余した大量の命は両の手に有り余るほどあった。バケツになみなみと注がれたクラゲを抱えてマンションの階段を上っていた時、住人とすれ違ったが、バケツから乗り出しているクラゲについては誰も触れず、挨拶だけを交わして階段を譲り二倍のスピードで追い越していった。
家の鍵を開ける時にバケツを地面に置くと、その衝撃で身を乗り出していたクラゲが脱走を図った。ずるんと半透明の体がグレーの地面を透かし、掃除で掃ききれていない細かなゴミを拡大した。落ちた衝撃で欠けた体が少し先で水滴のように点々と散らばっていた。鍵を開けてから落下した傘を両手でそっと持ち上げてわずかに開いているすき間に押し込み急いでバケツを持ち上げて、また半身が落ちないうちに浴室へと運びこむことに成功する。
しかし、育ちすぎたクラゲはどうやってもバケツに収まりきっておらず、もしかしたらヘンゼルとグレーテルが落としたパンくずのようにクラゲも帰りみちに一匹ずつ落ちているのかもしれない。さっき落としたクラゲはもうバケツから脱走し、排水溝の上に体を預けて蓋をしている。
その上からシャワーを掛けてみると、最初のうちはシャワーから流れる水が足元を埋め、子供用プールに浸かる保護者のように、足首まで溜まった。クラゲは一瞬中に浮き、プカプカと、足を軸にして右回りで漂い始めた。しかし、それでもシャワー当て続けているとやがてクラゲはお湯と自らの輪郭を曖昧にさせて萎み、最後には消滅した。
狭い一か所に集められたクラゲは醜く、むしろ、怠惰な体が肥満を想像させ観賞用としての存在にしかならないのだと思い至らせた。餌と排泄物で濁った水槽の中がライトに照らされる中で触手をだらしなく揺らすクラゲがどれだけ太っていようと、観賞物としてのクラゲは宙に浮かぶトルコランプのように輝いてみえる。しかし、今浴室の暖色ライトに照らされて、バケツの色を透過させた傘は雨が降った後の溝と同じ色をしていた。
そのまま浴室に置いて置くわけにいかず、何匹かはシャワーで溶かしてしまい、残った分だけを廊下に保管しておくことにした。潮が汗と混じり合い、肌に白い粉が浮き上がり、ついでに風呂に入ることにした。
風呂上がりに、廊下に出ると、体から発するボディソープの匂いに交じって香る磯の匂いが開いた毛穴に浸透し、それは人魚の体臭に限りなく近いものだった。
風呂場の熱気に浸食されていない廊下に出ると、ミントのシャンプーを使ったせいで頭皮に毛が生えていないという錯覚を起こさせた。期間限定だったからと思わず買ってしまったが清涼感を感じるにはそれほどまだ室内の気温は温まっていない。辺りに水滴を振りまきながら、乱暴に毛先の水分を三年もののタオルでふき取り、溜まった洗濯かごに放り込むと、収まりきることが出来ずに先端が廊下に触れた。
ドラム式洗濯機のすき間に押し込まれたクラゲは弾力という形を持って鼓動を伝えていた。ジェルボールを一つクラゲの上に落とし、扉を閉じると、最後に入れたクラゲの短い触手が扉のすき間から短い手を伸ばしていた。洗濯が始まり、水が投入されると中のクラゲは本来の姿を取り戻しつつあった。水を得たクラゲが洗濯物とダンスを踊り、ぐるりぐるりと挨拶を交わしては次の洗濯物に憑りついていった。泡立ち中で、呼吸をしようと喘ぎ、生命を繋ぐ口全てが科学の結晶体に敗北すると、クラゲは徐々に抵抗をやめて、四方にだらしなく溶け始めた。右に左にと回転して、やがて、最後の一匹が形を保てなくなるのを見届けた。
泡沫の命に比べ、バケツという固形物質は処分に困るものだった。どうしようか迷った果てにゴミ捨て場の前をうろうろしていると麦わら帽子を被った子供がカニを虫取り籠の中に入れて首から下げているのを見つけたので、声を掛けてみると、セミを捕まえにいったらカニがいたのでこれしかなかったと言った。小さなカニにしてみれば虫取り籠は捕らえられているという認識にすらならず、今にも道路にポトリと落ちて潰れてしまいそうだった。子供にバケツを渡すと喜んで受け取り、また海の方面に走って戻っていった。
後に残った磯とサボンが何重にも重なり、纏わりついていた。