【アレクシス】憧れの王子さま 2
グランドナイトガラの会場であるルーセントホールは、エリューシア学園の中心部から少し離れた、静かな庭園の奥に位置している。
普段は固く閉ざされ、特別な行事や儀式のときだけ、その重厚な扉が厳かに開かれる。
「うわ、広い……!!」
会場に足を踏み入れた瞬間、リナが驚嘆の息を漏らした。その瞳はキラキラと輝き、彼女の顔には無邪気な驚きが満ちている。
一年生であるリナにとって、この会場を目にするのは初めてだろう。この壮麗な空間を目の当たりにして、息を呑むのも無理はない。
王宮で開かれる舞踏会の会場に引けを取らないこの場所は、まさに学園の象徴とも呼べるだろう。
リナに手を引かれて入ってきたクラリスも、大きな瞳を瞬かせていた。
この頃の彼女はまだ、舞踏会に参加したことなどないはずだ。その目には、初めて見る華やかな舞踏会の会場への驚きと好奇心が入り混じった光が宿っている。
中では、学園祭の最終日を締めくくる舞踏会──グランドナイトガラに向けて、着々と設営が進められていた。
これだけの規模の会場を整えるには、学生だけでは到底手が足りない。王宮の舞踏会の設営にも関わる熟練の職人たちが招かれ、彼らの手によって細部まで入念に準備が進められている。
「会長」
そんな中、私たちの姿に気づいた一人の学生が、静かに近づいてきた。
この会場設営の責任者を務めているノアだ。
「ノア。準備は順調なようだな」
私の声に、ノアは小さく頷いた。
「はい。フロアの装飾とシャンデリアの調整は完了しました。現在、バルコニーの仕上げと、タペストリーの設置を行っています。あとは照明の最終調整だけです」
ノアの声は落ち着いていたが、その瞳にはわずかな緊張感が宿っていた。
彼は二年生で、生徒会には属していないが、ガラの会場設営という重要な役割を担ってもらっている。
白い作業用の手袋をつけ、鋭い目つきで周囲の進行状況を確認しているその姿は、誰よりもこの場の責任を感じていることを物語っていた。
メインホールは円形に広がり、天井は高く、中央には巨大なシャンデリアが煌びやかに輝いている。無数のクリスタルが光を反射し、まるで星の瞬きが会場全体を包み込んでいるかのようだ。
白い大理石の床には、金色の装飾が施され、中央にはエリューシア学園の紋章が誇らしげに描かれていた。
ホールの上部にはいくつかのバルコニーが設けられ、そこからは舞踏会の様子を一望できる。貴族のゲストたちは、バルコニーから学生たちが踊るのを眺めることが多い。
壁には季節ごとに入れ替えられる色鮮やかなタペストリーが掛けられ、ガラの夜には特別に「結びの花」を描いたタペストリーが飾られる。
この「結びの花」は、友情や愛情、そして運命の絆を象徴しており、舞踏会のテーマそのものを体現している。
「──ああ、君のおかげで会場の設営は間に合いそうだな。このまま頼む」
周囲を見渡し、特に問題がないことを確認すると、私はノアに労いの言葉をかけた。
ノアは安心したように一つ息をつく。だが次の瞬間、ようやく私の隣にいるリナとクラリスの存在に気づいたのか、怪訝そうな表情を浮かべた。
「……会長、その子は……?」
リナと手を繋いでいるのは、ここにいるはずのない年齢の、しかもこの学園の制服を着た幼い少女。
キョロキョロと周囲を見回していたクラリスは、自分に向けられる視線に気づき、はっとして慌てて淑女の礼をとった。
「はじめまして、ごきげんよう。わたくしはクラリス──」
「──クラリスの血縁者だ」
私は挨拶を始めたクラリスの言葉を即座に遮り、ノアにそう告げた。
視界の端では、リナがすかさずクラリスの口を両手で覆っている。どうやら私の意図を察してくれたようで、これ以上クラリスに話をさせまいとしてくれているようだった。
クラリスがこんな姿になっていることは、あまり広めない方がいいだろう。
まして、得体の知れない魔法陣が図書館にあったことなど知られれば、下手をすれば学園の責任問題に発展しかねない。原因が明らかになるまでは、内密にしておくべきだ。
「彼女の親族に学園を案内してほしいと頼まれてな。今日はクラリスが来られないので、私たちが代わりに案内しているところだ」
私は何でもないことのように、できるだけ自然に説明する。
「そう……ですか」
ノアは納得しきれない様子で、なおも訝しげな表情を崩さない。それも当然の反応だろう。
……しかし、これ以上説明すれば、かえってほころびが広がるだけだ。
ノアも事情を察したのか、深く追求してくることはなかった。
さすがは優秀な男だ。空気を読むことにも長けている。
静かなホールに、どこかで聞いたことのある旋律がふわりと流れ始めた。舞踏会でよく耳にする、格式あるワルツのメロディだ。
音のする方に目を向けると、調律の合間にピアノを奏でる姿が見えた。その音色は、まだ調整の途中とは思えないほど滑らかで、ホール全体に柔らかな余韻を残している。
──トン、トトン……
微かな足音に気づいて振り向くと、クラリスが音に惹かれるように、そっと足元でリズムを刻んでいた。小さな靴が大理石の床を軽やかに踏むたび、ぎこちないながらも、そこには確かな拍が感じられる。
まだ幼い彼女にしては、十分すぎるほどの出来栄えだ。
「上手……とっても上手だよ、クラリスちゃん……!」
リナはノアに聞こえないよう、小声でクラリスにエールを送っている。まるで我が子の成長を見守る親のように、感動のあまり目を潤ませていた。……感情移入しすぎだ。
ふと横を見ると、ノアも感心したようにクラリスを眺めていた。
この年齢で、ここまで正確にリズムを取れる子供はそう多くない。さすがはクラリスだと、認めざるを得なかった。
だが、私たちの視線に気づいたクラリスは、ハッとしたように動きを止めた。
頬をほんのり赤く染めながら、恥ずかしそうに俯く。
「も、申し訳ございません……」
小さな声で謝るその姿に、私は思わず微笑んだ。
「謝る必要はない。よくできていたぞ」
できるだけ柔らかく声をかけると、クラリスは戸惑いながらも、少しだけ顔を上げた。
けれど、その紫紺の瞳はどこか不安げに揺れている。
「でも……“完璧なしゅくじょ”には、ほど遠いのです」
ぽつりとこぼれた言葉は、まるで自分自身を責めるような響きを帯びていた。
そんな彼女の姿を眺めながら、私はふと、エヴァレット家に伝わる家訓を思い出した。
「完璧であれ」──それが、エヴァレット家に課された宿命。
クラリスも、彼女の父であるエドワードも、その言葉に恥じぬ完璧さを身にまとっている。一見軽薄に見えるルークですら、その実力には揺るぎがない。
私自身もまた、王太子として常に高い理想を求められてきたが──それでも、私は比較的自由に育てられた方だろう。
私が王太子としての責務を果たす限り、父王は口出しをせず、私の意思を尊重してくれている。
だが──彼女は違う。
“完璧”という名の檻に囚われた、小さな雛鳥のようだった。
完璧であることに執着し、それ以外のものを切り捨てて生きてきた。
それが、いつものクラリスの姿だった。
そんな彼女も、このくらい幼い頃には、きっと理想と現実の狭間で戸惑っていたのだろう。私と出会ったときには、もうすでに、その葛藤すら飲み込み、乗り越えてしまっていたが。
私はふっと笑みをこぼしながら、目の前のクラリスをそっと抱き上げた。
「きゃっ!」
小さな悲鳴が上がるが、私は気にせず、彼女の体を縦に抱き直す。
以前、彼女を抱いたときとはまったく違う感触に、思わず苦笑が漏れた。
「アレクシスさま?」
戸惑いを隠せない声とともに、大きな紫紺の瞳がきょとんと私を見つめてくる。
私は彼女の漆黒の髪をすくように撫でながら、そっとその目を見つめ返した。
「では、君が完璧に踊れるように、私がエスコートしよう」
「え?」
首を傾げるクラリスを、そのままの体勢で軽く抱えたまま、私はゆっくりとステップを踏み出す。
流れてくる音楽のリズムに合わせて足を運び、優しく旋回する。
クラリスの小さな身体を支えながら、彼女にもわかるように、丁寧に舞の所作を伝えるように動いた。
最初は真剣な面持ちで、私の動きをじっと観察していたクラリスだったが──
やがてその表情がふっと緩み、ふわりと無邪気な笑顔が咲く。
まるで、踊ることの楽しさを初めて知ったかのようだった。
そのまま一曲を踊り終えると、ホールの片隅から自然と拍手が湧き上がった。どうやら、周囲の職人たちやスタッフが見守っていたらしい。
視線を向けると、リナが目を潤ませ、感極まったように猛烈な拍手を送っていた。その隣では、ノアが若干引き気味の表情でリナから距離をとっている。気持ちはわかる。
私はクラリスをそっと下ろすと、踊りの所作について簡単なアドバイスを口にした。
クラリスは真剣な表情で頷いたが、すぐに困ったように眉を寄せ、照れたように俯いてしまう。
「どうした?」
思わず問いかけると、彼女は小さな声でポツリと呟いた。
「……みたいでした」
聞き取れずに首を傾げると、クラリスはおずおずと顔を上げ、はにかむように笑って答えた。
「お姫さま、みたいでした」
その一言に、私は虚を突かれたように目を見開いた。
「ほんと、王子様と踊るお姫様みたいだったよ!」
興奮した様子で駆け寄ってきたリナが、クラリスの言葉に同意するように笑顔で頷く。
私は嬉しそうに頬を染めるクラリスと、満足げなリナを交互に見つめながら、ふと疑問が浮かんだ。
「君は……お姫様になりたいのか?」
問いかけに、クラリスは一瞬きょとんとした後、ぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべた。
「はい。お姫さまになりたいです」
その無垢な返答に、私はしばし黙って彼女を見つめ、やがて小さく口角を上げた。
大きな紫紺の瞳の奥に、かつての彼女の面影と、これからの彼女の姿を重ねながら、私はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「大丈夫だ。君は、お姫様になれる」
私の言葉を理解しきれなかったのか、クラリスは小さく首を傾げる。
そんな彼女に向かって、私は微笑みながら続けた。
「君は、私の婚約者だ。つまり──」
──王子様と結ばれて、お姫様になれる。
そう続けようとしたとき、誰かに肩を強く掴まれた。
次回、調子に乗ったアレクシスのストッパーが登場。
6/6(金) 19:00更新予定です。
Xでは更新連絡やAIイラストの投稿もしています。
今回のイラストは、アレクシスと幼女クラリスのツーショットです!
https://x.com/kan_poko_novel




