【アレクシス】憧れの王子さま 1
目の前に立つ婚約者の姿に、思わず額を押さえたくなった。
「はじめまして。ごきげんよう……アレクシスさま」
澄んだ声でそう挨拶した少女は、ふわりとスカートの裾をつまんで、優雅な礼をとる。小さな手つきは、どこかぎこちない。それでも、その仕草には一所懸命さがにじみ出ていた。
隣では、リナが「えらい! よくできました!」と拍手をしている。どこか誇らしげなその表情は、もはや親のそれにしか見えない。
褒められた少女は、嬉しそうにはにかんだ笑みを浮かべると、そのまま大きな紫紺の瞳で、まっすぐこちらを見上げてきた。
その眼差しに、私は一瞬だけ言葉を失う。
──この目は、間違いなくクラリス・エヴァレットだ。
だが、私の知る彼女ではない。
あの、冷静で完璧で、感情の読めない公爵令嬢とはまるで違う。記憶の中にある、初めて会ったときの人形のように無機質だった彼女とも、まるで別人だ。
目の前の少女は、感情のままに表情を変える、年相応の幼子だった。
……どうして、私の婚約者がこんなことになっているのか。
リナから話は聞いた。
曰く、図書館で偶然見つけた紙に描かれていた魔法陣にクラリスが触れたところ、突然それが発動し、その影響で身体も記憶も幼い頃に逆戻りしてしまったのだという。
──馬鹿げている。そんなもの、あるはずがない。
体と精神を時の流れに逆らわせるなど、それはもう魔術の領域を超えている。
荒唐無稽。そう断じたいのに、目の前の現実が、それを否定する。
けれど──
頭の奥に、ひとつの顔が浮かぶ。
不敵で、得体の知れない微笑を浮かべながら、世界の理を弄ぶような男。
私は無意識のうちに、眉間に皺を寄せていた。
──まさか、あの男の仕業か?
宮廷魔術師団の師団長、シリル・アルヴァレス。
エルデンローゼ王国一──いや、王国史上、最も卓越した魔術の才を持つと謳われる男。
その実力には一分の疑いもない。だが、問題なのは、その人物像だ。
妙にクラリスに関わりたがり、彼女のこととなると明らかに態度が変わる。挙句の果てには、「彼女は王太子にはもったいない」とまでのたまう不届き極まりない輩だ。
彼が何かの実験のつもりで、こんな魔法陣を仕込んだのではないか──
そんな疑念すら浮かんでしまう自分に、苦々しい思いが湧く。
……いくら何でも八つ当たりか。
あのシリルと言えど、学園の図書館に、しかもいつ開かれるかもわからない本に、得体の知れない魔法陣を仕込んでおくなど──
「あの……アレクシスさま?」
かすかな声が、私の思考の渦を断ち切った。
声の方へ視線を落とすと、そこには、胸元で指をもじもじと絡めながら、こちらを見上げるクラリスの姿があった。
その紫紺の瞳には、不安と戸惑いの色がにじんでいる。
私が、無意識に険しい顔をしていたせいだろう。何か気に障ることをしてしまったのではないか──そう思ったのかもしれない。
その小さな眉が、申し訳なさそうに寄せられているのを見て、私は心のどこかが痛むのを感じた。
「……すまない、驚かせてしまったな」
なるべく柔らかい声でそう言いながら、私は一歩前に出て、彼女の前にそっと膝をついた。
その背丈では、私を見上げることしかできないだろう。そのままでは、威圧してしまうかもしれない。
だからせめて、目線だけでも同じ高さに合わせ、彼女を安心させてあげたかった。
「お会いできて光栄です、クラリス嬢。私はアレクシス・フォン・エルデンローゼ──この国の王太子です」
できる限り紳士らしく、小さな淑女に礼儀を尽くして挨拶をする。
すると、彼女の表情がぱっと華やいだ。
「王子さまなのですね! わたくしも、お会いできて嬉しいです!」
彼女の予想外の反応に、私は思わず言葉を失った。
まさか、王太子という単語にここまで反応するとは思っていなかったのだ。
初めて会ったときのクラリスは、私を王太子と認識していただろうが、そのことに関心すら示さなかった。無感情で、王太子の婚約者という立場にも無関心だった。
けれど、今の彼女は──
私が“王子”であることに、まるでおとぎ話の王子様を前にした少女のように、感動している。
「そうだよね! 王子様って、女の子の憧れだもんね!」
……そうなのか?
リナがクラリスの手を握り、嬉しそうにニコニコと笑いかけている。
クラリスも「はい!」と無邪気な笑みを浮かべ、その顔は屈託のない喜びに満ちていた。
その光景が何とも面映く、私はどう反応していいのかわからなくなった。
……しかし、彼女もこんなふうに笑う子供だったのか。
私の記憶にある五歳のクラリスは、いつも無表情で、感情を押し殺すように生きていた。
泣きも笑いもせず、ただ淡々と完璧な令嬢として振る舞っていた。
けれど、今目の前にいるクラリスは──
戸惑い、不安げに眉を寄せ、ときには頬を緩めて屈託なく笑う。
表情がころころと変わる、隠しごとのない、まるで年相応の幼い少女そのものだった。
……どうして、彼女は変わってしまったのだろう。
その理由を探ろうとしたとき、胸の奥に微かにひっかかるものがあった。
「王子様といえば、舞踏会! これから舞踏会の会場を見に行こうね!」
リナの明るい声が、思考の中に割り込む。
──そうだ。
今日は学園祭の最終日に行われる舞踏会、グランドナイトガラの会場視察の日だった。
会場となるルーセントホールは、ここから少し距離がある。もうそろそろ出発しなければ、視察の時間に間に合わない。
「そうだな。ルークは後で合流すると言っていたから、先に行こう」
時計を確認して立ち上がると、クラリスが大きな瞳を輝かせながら、私を見上げてきた。
「王子さまは、そこで踊るのですか?」
「……いや、今日は視察──見に行くだけだ」
私の答えに、クラリスの眉がしゅんと下がった。その肩も、ほんの少し沈んだように見える。
……がっかりさせてしまったらしい。
悪いことをしたわけではないのに、罪悪感で胸の奥がわずかに痛んだ。
そもそも、王子イコール舞踏会というのは、一体何なのだ?
確かに、舞踏会は貴族の社交の場の一つだが、それと王子という立場がどう結びつくのか理解できない。
しかし、クラリスやリナの反応を見れば、王子が舞踏会で踊るのは当然という認識が、彼女たちの中にはあるようだ。
私の知らない世界が、女性の中では広がっているのかもしれない。
しかし、そうか……「王子様は女の子の憧れ」なのか……
この頃のクラリスにとっては、「王子様は憧れ」だったらしい。
その言葉が、自分の中で静かに──けれど確かに、嬉しい事実として刻まれていくのを感じた。
そんなことを考えていた私は、先ほど胸のどこかで引っかかった“何か”を、もう忘れてしまっていたことに気づかなかった。
クラリスにとって「王子様は憧れ」だったのが、よほど嬉しかったようです。
次回、舞踏会の会場でアレクシスが調子に乗ります。
6/3(火) 19:00更新予定です。
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今回のイラストは王子様談義で盛り上がるリナとクラリスです。王子様御本人は蚊帳の外(笑)。
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