【ルーク】僕は弱い
僕はその光景に呆然と立ち尽くしていた。心も体も、凍りついたように動けない。
一面に広がる氷。冷たく硬いそれは、僕の膝を、近くにいるアレクシスの膝までをも覆い隠している。
中心には姉さんがいた。リナを抱きしめるようにして、うずくまったまま動かない。その周囲すべてが、氷に閉ざされていた。
ついさっきまで、ここはただの森だった。訓練区域とはいえ、魔素の濃度がコントロールされているため、強い魔物などいないはずだった。
だが、それは突然現れた。リナを突き飛ばし、姉さんが氷漬けにしたその異形を、僕は見つめる。
──明らかに、ただの魔物じゃない。
禍々しい気配が周囲に漂っていた。それを目にした瞬間、濃密すぎる魔素の影響で変異した存在だと直感した。鋭く伸びた牙、異常に膨れ上がった体躯。もはや元がどんな生き物だったのか、想像すらできない。
本来、このような存在が訓練区域に現れるはずがない。しかし、それは音もなく現れた。そしてリナに襲いかかった。
その後は、ほんの刹那の出来事だった。
アレクシスが魔術の構築を終えるより早く、姉さんの力が放たれた。烈風のような恐ろしい力は魔物だけでなく、周囲一帯をも氷漬けにした。その冷気が空気を切り裂く音すら感じられるほどだった。
今もなお、姉さんの身体から氷魔術の力が漏れ出している。力を制御できていないのが明らかだ。彼女の周囲に広がる冷気は、まるで彼女自身の心が凍りついているかのように見えた。
深くうなだれた姉さんの姿は、僕の知る彼女とはまるで別人だった。その背中から感じるもの──それは圧倒的な力と、どこか悲痛な何か。
こんな姉さんを見るのは初めてだった。
僕は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
「クラリスっ!」
アレクシスが、僕より一瞬早く正気を取り戻した。彼は足元を覆う氷を火魔術で溶かし、凍てつく空間を駆け抜けて姉さんのもとへと向かう。その手が姉さんの肩を強く掴み、彼女の顔を無理やり上げさせた。
そして、アレクシスの動きが止まった。
僕も、息を飲む。
姉さんが──泣いていた。
いつもの無表情なその顔。だが、それは絶望に染まっているようにも見えた。白磁のように美しい頬を、涙が次々と流れ落ちていく。その光景に、僕は言葉を失った。
普段は深い紫紺をたたえたその瞳が、今はまるで金色に染まったように見える。涙に濡れた瞳の輝きが、光を受けて不自然なほどに煌めいているように思えた。それは美しさを超えて、どこか非現実的なものを感じさせた。
「──っ、クラリス! しっかりしろ! リナは大丈夫だ!!」
アレクシスの叫びが凍りついた空気を震わせた。彼が姉さんの肩を激しく揺さぶると、姉さんの瞳に少しずつ焦点が戻る。さっきまで金色に輝いているように見えていたそれが徐々に光を失い、紫紺の色へと戻っていく。まるで何か異質な力が引き剥がされ、彼女自身の色が蘇るかのように。
それが完全に元の色を取り戻したとき、姉さんの腕の中にいたリナが小さく呻いた。リナの声に気づいた姉さんは、無意識に発動し続けていた魔術を止めた。漏れ出していた冷気が徐々に収まる。
姉さんは、腕の中のリナを見つめる。次いで、凍りついた周囲の光景を。そして最後に、アレクシスを見上げた。
「アレクシス様……わたくしは……」
「落ち着け。リナは無事だ。だが、ケガをしている。訓練区域を出るぞ」
アレクシスの冷静な言葉に、姉さんはようやく状況を理解したようだった。アレクシスの目を見て、彼女はゆっくりと頷いた。
「どうかしましたか!?」
森の入口で待機していたライオネル先生がこちらへ駆けつけてきた。周囲一面を覆う氷に、彼の目が驚きに見開かれる。だが、視線が姉さんとリナに向かうと、彼の顔色は一気に変わった。
「クラリス殿、リナ殿!?」
二人に駆け寄ってきたライオネル先生に、アレクシスが短く命じる。
「ライオネル。リナはケガをしている。医務室に運べ」
状況を飲み込んだライオネル先生は即座に頷き、姉さんの腕からリナを受け取ろうと手を伸ばした。
──しかし。
姉さんは、リナを放そうとしなかった。
腕の力を無意識に強め、その瞳に一瞬、怯えのような色を浮かべる。
「──クラリス殿……」
ライオネル先生が優しく声をかけると、姉さんはハッとしたように我に返った。そして、力を込めていた腕をゆっくりと緩める。
「申し訳ございません……」
姉さんの震える声には、自己嫌悪と戸惑いが混ざっていた。それは、無意識の行動だったのだろう。けれど、その様子は、大切なものを必死に守ろうとしているように見えた。
ライオネル先生は、姉さんの肩にそっと手を添え、穏やかな声で言い聞かせるように告げた。
「お任せください。リナ殿は、俺が責任を持ってお守りします」
その言葉を聞いた姉さんの肩が、微かに震えた。彼女は一瞬ライオネル先生を見上げ、そして静かに頭を垂れる。その仕草には、言葉にならない感謝と安堵が滲んでいた。
それを合図に、ライオネル先生はリナを抱きかかえ、森の入口へと向かって走り出す。
彼の背を見送ったアレクシスが、一息ついて姉さんに声をかけた。
「立てるか? クラリス」
姉さんは小さく頷き、地面に手をついて身を起こそうとした。しかし、足に力が入らなかったのか、その体が崩れ落ちそうになる。その瞬間、アレクシスが素早く腕を伸ばして彼女を支えた。
「……も、申し訳ございません……」
「無理をするな」
アレクシスの声は低くも優しい。
「あれだけの魔術を構築したんだ。体への負担は大きいに決まっている」
そう言うと、アレクシスは自然な動きで姉さんの膝裏に手を差し込み、そのまま彼女を横抱きに持ち上げた。
姉さんの瞳が驚愕に見開かれる。その反応に気づいたアレクシスが、口の端を少しだけ上げて笑った。
「どうやら正気に戻ったようだな。だが、これは無茶をした罰だ。このまま大人しく運ばれろ」
言葉とは裏腹に、彼の声はどこか優しい色をにじませていた。アレクシスは抱えた姉さんの重さをものともせず、まるで何事もなかったかのように森の入口へ向かって歩き出す。
──僕は。
僕は、その場に立ち尽くしていた。
森を覆っていた氷は、力の根源を失い、徐々に溶け始めている。僕の足元を覆っていた氷も解け、水浸しになった靴が冷たく、じっとりと気持ち悪かった。
視線を少し動かすと、あの魔物がいつの間にか魔石になっているのが見えた。拳ほどの大きさの魔石。冷たく輝くそれを見て、僕はあの魔物が規格外であったことを改めて思い知る。
リナが魔物に吹き飛ばされた直後の光景が脳裏をよぎる。
あのとき、魔物は次の攻撃を放とうとしていた。それをアレクシスが即座に風魔術の壁で阻止し、同時に別の魔術を構築して魔物本体を狙っていた。そして姉さんは、一瞬にして全てを凍らせた。
──僕だけが、何もできなかった。
悔しさが、体の奥底から湧き上がってくる。それを必死に押し込めるように、僕は奥歯を強く噛み締めた。
一瞬の出来事で反応できなかったなんて、ただの言い訳だ。
僕はまだ──弱い。
姉さんを当然のように抱え去っていくアレクシスの背中を見つめながら、僕は自分の無力感に打ちひしがれていた。
周りが規格外すぎてルークは大変です。
次回は3/19(水) 19:00更新予定です。




