彼女の意思 2
──私は間違っていたのだろうか。
医務室のベッドで静かに眠るリナの青ざめた顔を見つめながら、私は自分の手を強く握りしめた。
医務室の先生の診断は「過労」。
三週間にわたる授業、生徒会の仕事、個別指導、そして早朝特訓──あれほど体力があるリナですら、知らぬ間に限界を迎えていたのだ。
先生は「しっかり眠れば回復する」と微笑んでくれたが、私の胸を覆う罪悪感が晴れることはなかった。
私はこの間ずっと、リナを成長させることだけを考えていた。
そうしなければならなかった。そうしなければ、この世界は滅び、私も死んでしまう。
クラリス・エヴァレットとして、それは避けられない運命だったから。
けれど──それは本当に、リナにとって必要なことだったのだろうか?
彼女は私とは違う。この世界の未来も、「封印の鍵」の力の存在も知らない。
そんな彼女にとって、私の行動はただの過剰な干渉でしかなかったのではないか。
理由も告げず、ひたすら成績や技術を向上させることを強いる日々を、彼女はどんな気持ちで過ごしていたのだろう。
「……ごめんなさい」
絞り出すように、小さく謝罪の言葉が漏れた。
強く握りしめた手のひらに、爪が食い込む。
そのとき。
氷のように冷え切った私の手に、大きく温かい手が重ねられた。
「クラリス殿のせいではありません」
その穏やかで力強い声に、私は顔を上げる。
リナの側で黙って彼女を見守っていたライオネルが、真剣な眼差しをこちらに向けていた。
「申し訳ありません。彼女の異変に気づけなかったのは、俺の落ち度です」
ライオネルの瞳には、自責の念がにじんでいた。
だが、私は静かに首を振る。
「違います。リナに無理をさせたのは、わたくしです。彼女の体調を管理するのは、わたくしの役目でした」
そう──彼女はヒロインだから大丈夫。
私は、どこかでそう思い込んでいたのだ。
けれど、リナは「ヒロイン」という存在である前に、一人の生身の少女だ。
血が通い、疲れ、傷つき、倒れる。
ゲームの中で眺めていた姿ではなく、この世界で、確かに息づく人間なのだ。
私はどこかで、そのことを忘れていた。
ゲーム感覚で彼女を導こうとし、結果、リナを限界まで追い詰めてしまった。
「……わたくしのせいです」
唇をきつく噛み、俯く。
視界の片隅で、ライオネルの手が静かに、けれど確かに私の手を包み込んだ。
その温かさが、冷え切った心にそっと染み渡っていく。
「彼女の努力を否定しないでください」
その言葉に、私は動きを止めた。
恐る恐る顔を上げると、ライオネルは先程よりも強い眼差しで、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「きっかけを与えたのはあなたかもしれません。しかし、彼女は自分で努力することを選びました。そしてその選択を、誇りに思っています」
ライオネルの低く優しい声が、私の胸にじわりと染み込んでいく。
──リナが、自分の意思で努力を選んだ?
「俺にはわかります。この二ヶ月、あなたと一緒に、彼女を見守ってきたのですから」
そうだ。
私は彼に頼んだのだ。リナを見守ってほしいと。
彼はその言葉通り、リナの剣術指導を引き受けてくれた。そして、手を抜くことなく、誠実に彼女と向き合い続けてくれた。
「だから……彼女に無理をさせたなんて、自分を責めないでください。それは、彼女の努力を踏みにじることになります」
私は──リナに自分の都合を押し付け、強制しているだけだと思っていた。
彼女の努力は、世界を救うために必要なことだったし、私が生き残るためでもあったから。
仕方がない。
私はその言葉を盾にし、彼女がどう感じているかなど、考えないようにしていた。
もし、本当は嫌がっていたら?
もし、心の中で拒絶していたら──
そんな可能性を考えるのが怖かった。
私は、真実から目を背けていたのだ。
けれど、ライオネルの目には、違うものが映っていた。
リナは私に従わされたのではなく、自分の足で前に進むことを選んでいた。
──もしそれが、本当にそうなのだとしたら。
「私がやらせたから彼女はやっている」などという思い込みは、リナに対する侮辱だ。
「そう……なのでしょうか」
ライオネルの言葉は、私にとってあまりにも都合がよく、信じきれずに疑問がこぼれる。
自分でも驚くほど、頼りない声だった。
「間違いありません。──俺の剣にかけて」
ライオネルは口角を少しだけ上げ、自信に満ちた声で言った。
騎士である彼が「剣にかけて」と誓うなら、それは何よりも確かな証拠だろう。
その瞬間、ふっと肩の力が抜けた。
どれだけ緊張していたのか、顔のこわばりが解けるのがわかった。小さく息を吐くと、全身が軽くなったように感じる。
「ありがとうございます……ライオネル様」
心からの感謝を込めて、ライオネルのダークグレーの瞳を見つめ返す。
ライオネルの目が大きく見開かれた。
「えっ、あの」と短く声を漏らし、視線を泳がせる。その視線の先には、重なったままの私たちの手があった。
「──っ」
ライオネルは息を呑むと、慌てて手を離し、片手で顔を覆った。
しかし、その大きな手でも隠しきれなかった、耳から頬にかけてほんのり赤く染まっているのがわかる。
しまった。
ライオネルは、意外にも純情なのだった。女性の手を握ったことに、今さら気づいて動揺しているのだろう。
そのとき、薬を取りに行っていた医務室の先生が戻ってきて、扉が開いた。その音に、ライオネルは勢いよく立ち上がる。
「何やってるの? ライオネル先生……」
呆れたような声と共に、彼が倒した椅子をじっと見つめている。
ライオネルは立ち上がった拍子に、椅子をひっくり返していたのだ。
医務室の先生は普段冷静なライオネルの狼狽ぶりに、目を丸くしていた。
「す、すみません! 今、戻します!」
ライオネルは慌てて椅子を起こしながら、医務室の先生に頭を下げる。
私はそんな彼を見て、ようやく気持ちが緩んだ。
肩の力が抜けたばかりか、心の中まで少しだけ温かくなった気がした。




