無自覚にもほどがある
学園長とゼノとの話し合いを終え、生徒会室に戻ると、室内には異様な空気が漂っていた。
威圧感を纏い、腕を組んで座るアレクシス。その前で、半泣きになりながら書類を握りしめるリナ。
え、なにこれ。どういう状況?
二人から少し離れた席に座るルークに視線を送ると、彼は困ったように肩をすくめた。
「……これがわからないのか……」
アレクシスが低い声で呻いた。その迫力に、リナは小さく「ひっ」と悲鳴を上げる。
まずい。この状況は非常にまずい。
私はとっさにリナの手から書類を取り上げ、中身を確認する。その瞬間、二人はようやく私が戻ってきたことに気づいたようだった。
書類に目を通し、私は状況を把握する。それは学園祭の企画に関するもので、貴族の常識や礼儀作法に基づいた形式で書かれている。リナにとっては馴染みのない内容だろう。
付き合いが長い私にはわかる。アレクシスは怒っているわけではない。彼はリナの反応が自分の理解の範疇を超えていたため、困惑しているのだ。
彼は責任感が強い。そのため、自分の教え方に問題があるのではないかと自問自答しているのだろう。
リナとしては、何がわからないのかわからない。アレクシスとしても、どこがわからないのかわからない。噛み合っていないのだ。
私は小さく息を吐き、静かに言葉を発した。
「アレクシス様」
私の声に、アレクシスはこちらを向く。その瞳には自身への苛立ちと、戸惑いが入り混じっていた。
「リナさんは貴族ではありません。我々が当然と考える常識や感覚を、彼女が理解しているとは限らないのです」
アレクシスは目を見開き、一瞬言葉を失った。そして、リナを見つめる。その視線には先ほどの威圧感はなく、思案する色が浮かんでいる。
「……それは、そうだな」
彼は少しの間、私と言葉の意味を咀嚼するようにリナを交互に見つめ、やがて素直に頭を下げた。
「すまない、リナ」
突然の謝罪に、リナは驚いた表情でアレクシスを見上げた。しかし、すぐに小さく「い、いえ、大丈夫です」と返事をする。
「むしろ、色々教えてくださってありがとうございます……!」
リナは立ち上がり、アレクシスに向かってペコペコと頭を下げる。その小動物を思わせる仕草はとても可愛らしく、微笑ましかった。
王太子として、軽々しく相手に頭を下げるのは悪手だ。少なくとも、彼が学んできた帝王学では、そのような行為は避けるべきとされているはず。
しかし、アレクシスはそんな常識にとらわれない。それよりも、自分が信じたことを貫き、誠実さを示すことを選ぶ。それが、彼の持つ大きな魅力の一つだ。
世の乙女ゲーマーたちは、そんな彼の真っ直ぐさに心を奪われるのだ。
だが──そもそも、普段のアレクシスなら、こんな事態にはならなかったはずだ。彼は相手の力量を冷静に見極める能力を持っている。それなのに、なぜ今回だけ、未熟なリナに対して私やルークに向けるような高い期待を抱いてしまったのか。
……やはり、ステータスが足りないのに無理やり彼女を生徒会に加入させてしまった私の判断が問題だったのだろうか。その点については、私も反省するべきだろう。
「やり直しをさせてくれ。今度はちゃんと、最初から教える」
「……は、はい! ありがとうございます!」
わだかまりが解けた二人が和やかに会話を始めたのを見て、私は胸を撫で下ろした。結果オーライと言っていいだろう。
あら、これはアレクシスルートも行けるんじゃないかしら?
ゲーム内で、アレクシスが初めてヒロインに向けた優しい微笑みを思い出す。そのシーンはプレイヤーとして胸が熱くなる場面の一つだった。
クラリスとしての記憶を持つ今の私には、どう反応すればいいのか難しいけれど、二人が幸せそうにしているのは、純粋に嬉しい。
そんな気持ちで二人を見守っていると、不意に彼らの視線がこちらに向けられた。その瞬間、二人がピタリと動きを止める。
アレクシスは、見てはいけないものを見てしまったかのように表情を硬くし、顔を背ける。片手で口を覆い、何かを堪えるように小さくうめいている。一方のリナは、顔を茹でタコのように真っ赤にし、両手で口元を覆って小刻みに震えていた。
後ろになにかあるのかと振り返ってみるが、特に何もない。
二人の奇妙な反応に首を傾げていると、いつの間にか帰り支度を済ませたルークが隣に立っていた。
「姉さん、今日の仕事はもう終わりでしょ。帰ろう」
呆れたような表情で二人を一瞥しながら、ルークは私の肩に手を置いた。その行為に私は少し動揺する。
なんだか最近、ルークとの距離が近い気がする。一緒に帰ろうなんて言うとは思わなかった。いつの間に姉弟愛に目覚めたのか。
とはいえ、いい雰囲気になり始めたリナとアレクシスを、二人きりにしてあげるのは良い判断かもしれない。少し釈然としないものを感じながらも、私は帰り支度を始めた。
「……ほんと、無自覚にもほどがある」
「え?」
「なんでもない」
私の帰り支度を眺めながら、ルークが何かを呟いた。しかし、大きなため息をつくと、それ以上何も言わなかった。
生徒会室を出ようとしたところで、ふと足を止める。
「リナさん。明日の朝、七の時から、定期テスト対策を始めます。ゼノ先生が教えてくださるそうなので、いつもより一時間早く登校してちょうだい」
「へ?」
リナが口を両手で覆ったまま、間の抜けた声を漏らした。
「わたくしも一緒に参ります。定期テストまであと一ヶ月、頑張りましょう」
「何!」
「え?」
今度はアレクシスとルークが声を上げた。
え、今の話に何か驚く要素があった?
内心首を傾げつつ、リナの返事を待たずに「では、ごきげんよう」と軽く頭を下げ、その場を後にした。なんとなく、このまま部屋に留まっていると面倒なことに巻き込まれそうな気がしたからだ。
後ろからルークが追いかけてくる。と言っても、彼のほうが背が高いので、あっという間に私に追いついた。
「姉さん……ゼノ先生と朝から一緒なの?」
訝しげな声に、私は内心でストップをかけた。
いや、ちょっと待って。その言い方は何かおかしい。
「……ゼノ先生がリナさんの定期テスト対策をしてくださるから、わたくしはただ付き添うだけよ」
誤解を招くような言い方はやめてほしい。このゲームは全年齢対象だ。
「じゃあ、僕も参加していい?」
足を止め、振り返る。立場上、彼も初めての定期テストには不安を感じているのかもしれない。
彼の顔をじっと見つめると、ルークは困ったように視線をそらし、頬を少し赤らめた。弱音を吐いたことに照れているのだろうか。
しかし──
「……あなたは大丈夫よ」
ルークがわざわざ定期テスト対策など必要ない。エヴァレット家の非常識な教育に耐え抜いてきた男なのだから。
学園で学ぶことなど、彼にとっては既に超えた領域の話だ。
彼がここで学ぶべきは、将来の──おそらくアレクシスの隣で宰相として並び立つための──政治的手腕。学園は、まるで一国の縮図だ。そこに集まる貴族たちとの駆け引きを通じて、彼は将来のための布石を打っていかなければならない。
そっと彼の頭に手を置く。途端に彼の体がビクリと震えた。
自分からルークに触れるのは、久しぶりのことだ。彼がまだ幼い頃、エヴァレット家の過酷な教育に打ちひしがれていた時、私は手を差し伸べたことがあった。
もっとも、このクラリス・エヴァレットがただ優しく弟を慰めるわけもなく、手を差し伸べながら地獄に突き落としたこともあったが。
「わたくしが保証します」
ルークがゆっくりと私を見下ろす。その空色の瞳が微かに揺れた。
学園の定期テストで、不安に思う必要などない。私は、彼がどれだけ努力してきたかを知っている。
私という高すぎる壁が、彼の自信を削いでしまった部分もあるかもしれない。それは申し訳なく思う。
だけど──
彼は、私の自慢の弟だ。
私はそっと手を離し、踵を返して歩き出した。ルークが後を追ってくる気配はない。照れているのだろう。実は、私もちょっと照れている。
でも、私の中のクラリスがずっと思っていたことを、ただ言葉にしただけだ。
「……ほんと、ずるい……」
背後から、彼の呟く声が微かに聞こえたが、振り返らず、そのまま歩き続けた。




