【リナ】憧れの人
今日はまた、公爵邸にお呼ばれして、お泊まりすることになった。
前みたいに定期テストの対策ってわけじゃなくて、今回は純粋なお泊まり会。
あの豪華すぎるお屋敷には毎回びくびくするけれど、クラリス様と一緒に過ごせるのは、やっぱり素直に嬉しい。
──そう、思っていたのだけれど。
お屋敷に着くなり、私はお風呂に連れて行かれた。
しかも、客室用のお風呂じゃない。クラリス様がいつも使っているという、まさかの本邸のお風呂。
なんと、クラリス様と──一緒に。
頭の中が、一瞬で真っ白になった。
もちろん、孤児院にいた頃は、みんなで一緒にお風呂に入っていたし、誰かと入ること自体には慣れている。
でも、相手がクラリス様だなんて、話は別だ。
服を着ていてもあんなに美しくて、近くにいるだけでドキドキするのに。
それなのに、裸でお風呂……!? 無理、キャパオーバーすぎる。
お湯に入る前から、すでにのぼせそうだった。
けれど、そんな私の動揺とは裏腹に、侍女のエミリアさんはてきぱきと服を脱がせていく。
気づけば私はすっかり丸裸。呆然としたまま隣を見れば──
そこには、同じように裸になったクラリス様の姿があった。
一瞬、息をするのも忘れるほどの美しさだった。
……見てはいけない。
直視したら、目が──目が焼ける!!
私は慌てて目をぎゅっと瞑った。眩しすぎる。高貴さが、光になって迫ってくる……!
──そこから先の記憶は、なんだか曖昧だ。
クラリス様に手を引かれるままお風呂に入り、エミリアさんに身体を洗ってもらったことは、うっすら覚えている。
でも、隣で湯船に浸かっていたクラリス様の姿は、ぼんやりとしか思い出せない。
たぶん──あまりにも神々しすぎて、私の目にはちゃんと映らなかったんだと思う。
神様って、本当にいるんだ。
孤児院の礼拝室で、みんなと一緒に、ぼんやりと祈っていた頃のことをふと思い出す。
あのときは、「神様って本当にいるのかなぁ」なんて思っていたけれど、その“神様”みたいな人の隣にいるという現実に、じわじわと実感が追いついてきた。
……もう、自分が何を言っているのかわからない。
要するに、完全にパニック状態だった。
やっぱり私って、ポンコツなのかもしれない……
お風呂を出ても混乱はおさまらず、顔が赤くなったり青くなったり、忙しない。
そんな私を見て、クラリス様がちらりとこちらを見てきた。無表情なのに、ちゃんと心配してくれているのがわかって、私は慌てて平静を装う。
でも、クラリス様の視線が、なんだかいつもより強くて──私は落ち着かなくなって、ついもじもじしてしまった。
あの深い紫紺の瞳に見つめられると、胸の奥が妙にそわそわする。
……もしかして、全部バレてた? 私がずっとテンパってたってこと。
そんな不安も吹き飛ぶくらい、クラリス様の言葉は突然だった。
「……リナは、誰か気になる人はいないの?」
その一言に、私は完全に固まった。
間抜けな顔をしていた自覚はある。
でも、反応できなかったのだ。「気になる人」って言葉が出た瞬間、私の目の前にいる“その人”と、言葉の意味がぴたっと結びついてしまって。
……ちがう。ちがう? でも、ほんとう?
クラリス様の声が、少し遠くに聞こえる。
でも、私の頭の中はもう、その言葉だけでいっぱいになっていた。
「……グランドナイトガラで、一緒に踊りたいと思う相手は……いないの?」
──いる。
目の前に、ちゃんと。
私は、ゆっくりと天井を見上げた。
少しだけ熱の残る頬に、ふわりと風が触れた気がした。
……そっか。そうだったんだ。
心の奥で、何かが静かに形を成していくのを感じながら、私はゆっくりと顔を正面に向けた。
視線の先には、私の憧れの人──クラリス様。
黒曜石のように艶やかな漆黒の髪は、お風呂上がりのせいか、ところどころ濡れていて、しっとりと肌に貼りついている。その肌からはまだ湯気が立ちのぼっていて、思わず触れてしまいたくなるほど柔らかそうだった。
そして、その瞳──青みを帯びた紫紺色の瞳が、私をまっすぐに見つめていた。
私は、その瞳から逃げないように、しっかりと見返す。
「……憧れている人なら、います」
言葉を紡いだ途端、心臓が跳ねた。
やっぱり、恥ずかしい。
ぐっと熱くなる顔を隠すように、私はそっと視線を逸らした。
「……でも、その人とは、ガラで踊るとか、そういうのは無理だと思います」
グランドナイトガラ──
学園祭の最後を飾る、最大のイベント。
友情や愛情をテーマに、生徒同士はもちろん、時には教師さえも交えて語り合い、踊り、絆を深め合う特別な舞踏会。
当然ながら、踊るのは男女のペアが基本だ。
恋人同士でなくても、友情を確かめ合うために踊ることもある。
──でも、女の子同士でペアになるなんて、さすがに……
私はそっとクラリス様を見上げた。
すると、彼女の瞳に、驚くほど強い光が宿っているのが見えた。
「そんなことないわ、リナ。あなたとなら──踊りたいと思う人は、星の数ほどいるはずよ」
そのまっすぐな言葉に、思わずぽかんとしてしまう。
あまりにも真剣で、少し不器用な優しさがこもっていて──胸がくすぐったくなった。
そして、どうしようもなくおかしくなってしまって、私はクスクスと笑い出していた。
──クラリス様は、たぶん、気づいていない。
笑った私を見て、クラリス様は目をぱちぱちと瞬かせている。
その反応が愛しくて、また笑ってしまう。
「ありがとうございます、クラリス様。……楽しみにしてますね」
私がそう言うと、クラリス様は、ほんの少しだけ驚いたように見えた。
──クラリス様は、もう「氷の公爵令嬢」なんかじゃない。
かすかに、けれど確かに──彼女の表情には、感情の揺らぎが現れ始めている。
その微かな変化が、周囲の空気をやわらかく、あたたかく変えていく。
それに気づける人が、少しずつ増えてきている。
──クラリス様と踊りたい人も、きっと山ほどいる。
……私が男の人だったら、絶対にほうっておかないのに。
でも、クラリス様には、幸せになってほしいから。
クラリス様が好きな人と、踊ってほしいな。
「クラリス様は……いないんですか?」
「え?」
私には、クラリス様が誰と踊りたいのか、わからない。だから、素直に聞いてみたんだけど──
クラリス様はきょとんとして、美しい眉をわずかに寄せた。質問の意図がすぐには伝わらなかったらしい。
私は、もう一歩踏み込んでみる。
「気になる人、です」
──そのときのクラリス様の反応は、本当に衝撃だった。
まるで「そんなこと、考えたこともなかった」とでも言いたげに、目を見開いている。
思わず、私のほうがびっくりしてしまう。
「えっと……グランドナイトガラでは、どなたと踊るんですか?」
何気ないつもりで問いかけたその言葉に、クラリス様は一瞬、固まったように動きを止めた。
困惑の色が、見る間にその端正な顔に広がっていく。まるで、頭の中が一瞬で真っ白になったかのような……そんな表情だった。
「わたくしが……?」
ぽつりと漏れた声には、自分が誰かと踊るなどという発想すらなかった──そんな驚きが滲んでいた。
──あれほど完璧で、美しくて、誰もが憧れる存在なのに。
そんなことすら、考えたことがなかったなんて……ある?
胸の奥が、ざわりと揺れた。
もちろん、クラリス様が周囲の好意にどこか鈍いことは、前から知っていた。
けれど、今の反応は──ただの無自覚や天然といったものではない。もっと深い、何かがある。
これはきっと……クラリス様ご自身が、「誰かと結ばれる未来」なんて、初めから持ち得ないものだと、心から信じてしまっているのだ。
まるで、それが自分に課された宿命だと言わんばかりに。
──どうして? なぜ、そんなふうに……
言葉にはできないまま、私はクラリス様との間に、静かに立ちはだかる見えない壁を感じていた。
姿は見えているのに、手を伸ばしても届かない。
声は聞こえているのに、気持ちは伝わらない。
そんなもどかしさに、私は──怖くなった。
このままクラリス様が、私の手の届かない場所に行ってしまうんじゃないか。
言葉にできない不安が、心を支配していく。
──嫌だ。そんなの、絶対に嫌だ!
私は衝動のままに、手を伸ばした。クラリス様に向かって、まっすぐに。
その手は、確かに届いた。
見えない壁は、私の想いを拒まなかった。
そのまま、クラリス様の首にそっと腕を回し──ぎゅっと、抱きしめた。
細く柔らかな髪からは、微かに花の香りがした。洗髪料の香り。
きっと、私の髪も同じ香りがしているだろう。
クラリス様の体がわずかにこわばり、息を呑んだ気配が伝わってくる。
突然の行動に戸惑っているのが、ありありと分かった。
それでも、私は離さなかった。
「リ、リナ?」
「……約束してください、クラリス様」
お願いだから、私の前から──いなくならないで。
心の奥底からこぼれた、その願い。
でも、それをそのまま口にすれば、クラリス様はきっと困ってしまう。戸惑わせてしまう。
だから、言葉を選んだ。
「クラリス様も、グランドナイトガラで……誰かと踊ってください」
誰でもいい。
クラリス様のそばにいて、ここに留めてくれる、誰かであれば。
そうでなければ──きっとクラリス様は、遠くへ行ってしまう気がして。
私は、クラリス様の肩に顔を埋めたまま続けた。
「……クラリス様が誰とも踊らないなら、私も踊りません」
「──そ、それは、ダメよっ!」
クラリス様にしては珍しく、焦った声。
その声が愛おしくて、私はそっと顔を上げる。
──その先にいるクラリス様の本心を、どうしても見たくて。
そこにあったのは、クラリス様の──いつもの無表情。
……けれど、私にはわかる。
ほんのわずかに寄せられた眉。
紫紺の瞳が、大きく揺れていた。
凛として美しいその顔に浮かぶのは、迷いや戸惑い──困ったときの、クラリス様の顔。
誰よりも気高く、誰よりも遠い存在のはずなのに。
今、こんなにも近くで、その心の揺れを感じている。
──私の、大好きな人。
「……じゃあ、約束ですよ?」
そっと囁くように、言葉を届けた。
私では、クラリス様の隣に並ぶことはできない。
だからこそ──せめて、クラリス様の幸せを、心から祈りたい。
クラリス様を笑顔にしてくれる誰かがいるなら、その人のことを……私は、本気で応援したいと思う。
この想いが、少しでもクラリス様の胸に残ってくれたなら──それだけで、今は十分だ。
至近距離で感じる、クラリス様の体温と息づかい。
その確かな存在に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
いつかこの想いが報われる日が来ると信じて、私はにっこりと微笑んだ。
危うく道を踏み外すところでしたが、なんとか持ちこたえました(笑)。
次回は新章、とうとう学園祭に突入!
8/1(金) 19:00更新予定です。
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今回のイラストは、ヒロイン・リナの眩しい笑顔です!
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