第九話:お待ちかね、ドキドキ入浴回!?
くそまじめな凪留が去り――
なんとなくゆるんだ空気に、あたしたちは安堵の溜め息をもらす。
「玲萌、体調はどうだ?」
あぐらをかいた樹葵が上目遣いに尋ねる。なんでそんなこと訊くんだろうと思いながら、
「がんばれば歩けそうなんだけどね、きみのおかげで」
と答えると、
「湯屋いっちゃう?」
いたずらっぽい笑みを浮かべて提案してきた。
「行こう! めっちゃ体べたべたする!」
思わず立ち上がるあたしに、
「夕露ちゃんも行きまーっす!」
海に落ちてない夕露までノリノリで手を上げた。
番所の人に貸してもらった草履をひっかけて、風呂敷包みを手に湯屋へ向かう。
「この草履、おっちゃんサイズだからちょっとでかいな~」
「お湯屋さんの帰りに履物屋さんも寄りましょうね」
などと、夕露と話しているうちに目的地が見えてきた。
暖簾をくぐって番台で湯銭を払い、着物をかごに放り込むと、洗い場で丹念に砂を落とす。髪の毛一本一本の間にまで砂粒が入り込んでいて、全くとんだ目にあったものだと嘆息した。
「玲萌せんぱい、あたし先に浸かってますね」
「はいよー」
夕露はさっさと済ませてお湯に入る。
あたしもようやくさっぱりして手ぬぐい片手に湯船に向かうと、年配の女性が何やらくすくすと笑っているのが聞こえる。視線の先をたどると、男湯・女湯の仕切りにへばりついている夕露の姿。この湯屋は混浴ではないものの浴槽自体は一続きで、仕切りが設けられているだけである。天井近くと湯の中は男湯までつながっているが、まさかお湯にもぐって覗くバカはいない。
「ちょっと夕露、男湯のほうに足伸ばすのやめなさいって!」
「だって樹葵くんの足、白蛇みたいな鱗が生えてすべすべなんだもーん」
「あ、そういう感触なの? それはちょっと興味が――じゃないっ! ほかのお客さんもいるのに迷惑でしょ!」
折を見てこっそり腕の外側に生えてるやつにさわってみようと心に決めつつ、先ほどの女性にすみませんと頭を下げて、夕露を仕切りから引き離す。胸ばかり無駄に発育いいくせに子供なんだから!
「そーだぞ夕露」
と、仕切りの向こうから樹葵の声。「波立てんなよ。こちとら大波にゃあ飽き飽きしてんだ」
まったくである。あたしたちにとってはトラウマもんだ。
「なあ玲萌、俺たちしばらく身を隠してたほうが安全かもしれねえぜ」
立ちのぼる湯けむりの中、姿は見えぬがすぐ近くから樹葵の声が聞こえる。「摩弥は頭に血が上ると、何しでかすか分かんねえからな、俺ら全員ホルマリン漬けかも――」
「やめてよ縁起でもない」
あたしは熱い湯の中で身震いする。
「でもしばらく経って怒りが鎮まると、自分のしたことを後悔するのがあの人なんだよなあ……」
樹葵の声はどこか悲しげだ。
あたしはやわらかい湯に身を沈めながら、
「ほとぼりが冷めるまで白草には帰らず、どっかに隠れるのが得策ってこと? でもあのクピドが小さな樹葵の姿だからこそ、彼女はかわいがってたんでしょ? なのにきみ本人を折檻する?」
「摩弥の怒りに理屈は通用しないよ。でもその理論でいくと一番危険なのは玲萌だぜ。あんたが拘束して魔物の動きを止めたから、俺は攻撃できたんだ」
「ちょっと怖い話しないでよっ」
思わず大きな声を出すと、木の壁に音が反響する。
「ハハッ、すまねえ」
樹葵が軽く笑うのが聞こえる。「まあ、まだ凪留と紫蘭は白草に到着してないだろうから、摩弥が仕掛けてくるまで時間はあるだろうけどな」
今日みたいに悪天候の日は、高い窓から日が差し込まないので浴場は薄暗い。湯気にけむる暗い天井を見上げながら考える。「身を潜めるったってどこに――」
茹だって湯船の縁に腰掛けていた夕露が、
「あたしのお母さんの実家なら、白草からも都からも結構離れてるよ?」
と言い出した。
振り返ると夕露のやわらかそうな太ももが薄紅色に紅潮している。目のやり場に困って、あたしは再び水のしたたる天井を見上げながら、
「いきなり押しかけて大丈夫なもん?」
「わけを話せば匿ってくれるよ!」
「ここから歩いてどのくらいかかるんだ?」
と尋ねる樹葵の声が、湯けむりの中に心地よく響く。
「う~ん、三時間…三日かな?」
「え? どっち!? 全然違うじゃん!」
混乱するあたし。樹葵も仕切りの向こうで苦笑している気配がする。
「いつも馬に乗せてもらうから分かんないよ~」
「このお大尽め!」
涼んでる夕露に、ばしゃん、とお湯をかけ、
「馬ったって普通に歩かせたら人間の早足とさして変わんないわよ。三時間が三日になるわけないでしょ!」
「そーなんですけどぉ、物見遊山も兼ねてるからまっすぐ行くわけじゃないし…… ちょっと脇道にそれて有名な神社にお参りしたり、男の人たちは色街に行っちゃったり、その間あたしたちはその土地の川でしか捕れないおいしいお魚料理を食べたり――」
「いーなー、うまそ!」
ときめいているのは魚に目がない樹葵である。「次行くときゃあ俺も混ぜてよ」
バカがうきうきした声を出す。殿方衆は色街ってとこ聞いてなかったのかな。
「樹葵ったらまだ色気より食い気のお年頃?」
あたしがからかったとき、
「さっすがだなー、帝国の船は」
という大きな声が男湯のほうから響いた。「こんな嵐ん中でも出航できるってぇのかい」
「三階建ての城みてぇにでっけぇ船でさ、いくつも帆が立ってんのさ」
「あれだけでかけりゃ、波が高くてもそうそう揺れないんだろうな」
「いやあれは漁船じゃなくて商船だから、出航するって話だぜ」
やいや、やいや言う男たちの声がひとしきりおさまってから、
「樹葵、いまの話聞いてた?」
あたしは声をひそめて、仕切りの向こうに話しかけた。
「ああ、どこに向かう船なんだろうな?」
彼も低い声で応じる。
足だけ湯船につけてぱしゃぱしゃしていた夕露が、ねえねえと背中から声をかけた。「あたしのパパのコネで乗せてもらっちゃおっか!」
『まじ!?』
あたしと樹葵の声が重なる。夕露は得意げに、
「あの港に出入りしてる廻船なら、全部うちの問屋で取り次いでるもん。沙屋の若旦那の一人娘、沙夕露が頼めば邪険にはできませんっ」
と宣言した。夕露の実家は大きな廻船問屋で、屋号は沙屋という。
すぐ横で、ざばんっと湯の落ちる音がした。樹葵が勢いよく立ち上がったらしい。
「そうと決まったら善は急げだ。すぐに港へ戻ろうぜ!」
「そうね、そんな大きくて目立つ船なら、番所で聞けば出航場所も分かりそうだし」
あたしもいい加減、のぼせてきたので手ぬぐいを手に立ち上がった。上がり湯をもらい、ちょっとふらふらしながら板の間へ戻った。