第六話:今度こそ絶体絶命!?
強く吹き付ける風のせいで、今日は波が高い。どの船も綱で杭につながれ、波に揺られている。並んで停泊する船底を打つ波音が、雁木の下から規則正しく響いている。
「今日はやめておく?」
あたしは常夜燈の立つ石積みの上、荒れた海を見下ろしながら夕露と凪留に尋ねた。
「天翔けさんはちゃんと飛べるのかな」
と心配そうな夕露に、
「彼女は嵐の中でも飛べますが――」
と凪留。彼女って―― あの鳥、雌だったんだ。
「それより漁船の出ない日に子天狗―― じゃなくてクピドでしたっけ? あれは出てくるんでしょうか」
「水揚げした魚をねらってるとしたら、今日はクピドくんもお休みかもね」
あたしの言葉に、番所へ帰ろうか、という雰囲気になったとき、
「よぉ、おはよーさん!」
うしろから曇天を吹き飛ばす明るい声がかかった。「あんたがたもいま出発かい?」
樹葵が漁師さん二人と並んで歩いてくる。
こいつは今日も動くのか―― するとクピドの身が危ない。
「今日は、摩弥特性睡眠薬に引っかからなかったのね」
思わずがっかりした声を出すあたし。紫蘭のやつ、しくじりやがって!
樹葵は海へ向かう石段を下りながら、
「今朝も紫蘭、朝飯にぜひってうまそーな海老を持ってきてくれたぜ。でも昨日の今日でだまされるかよ」
そりゃそーだ。紫蘭もなんで同じ手を使うかな。
漁師さんたちが船を固定する綱をはずすのを待ちながら、樹葵は石積みに寄りかかってあたしを見上げる。
「だから代わりに俺が、今朝は風が強くて冷えるから甘酒でもどーぞって睡眠薬入りのを渡してやったら、あいつ素直に飲んだぜ」
自分の使った手でだまされるって、アホさんなのかな。
「きみ、睡眠薬なんて持ってるんですか?」
凪留が目を見開く。
「まさか。紫蘭の持ってきた海老に仕込んであったやつを抽出したんだよ。俺の魔術なら一瞬さ」
「そんなことができるわけ――」
「王立魔道学院で教科書通りの教育しか受けてねぇあんたには不可能だろうが、俺は丸二年摩弥の――」
「研究を手伝っていたわけですか」
「いや、研究材料になったり実験台になったりしてきたからな」
絶句する凪留には構わず、
「あの人が作る魔法薬の構成は経験から大体把握してる」
樹葵の言う経験とは、実験台としての経験である。
「しかも俺は魔法薬成分を検知できるんだ。微細な魔力を視られるからな、ここの眼で――」
樹葵が自分の着物の襟を指先でつかんだとき、空を見上げていた漁師さんが、
「あの白いやつ、そうだよな」
「樹葵、船出すぞ」
と声をかけた。
「あたしたちも行こう!」
樹葵に負けじと出撃するべく、あたしも夕露と凪留を振り返った。
凪留が召喚した巨鳥・天翔けに乗って空へ舞い上がると、耳の横で風がうなる。袖口から風が吹き込み、寒いくらいだ。
「波止のほうに飛んでく、あれがクピドちゃんだよ」
夕露の指示に従って、凪留が天翔けを向かわせる。
「なんとしてもあたしが生きたまま学院に連れていかなきゃ!」
と意気込むあたしに、凪留は冷めた声で、
「でも連れて帰った先は摩弥のところでしょう? 学院長が彼女に研究させると言っているんだから。そんなに安全とも思えませんがね」
「うっ…… こっそり逃がしちゃう!?」
あたしのナイスなアイディアに、凪留は激昂した。
「玲萌くん、卒業したくないんですかっ? そんなにあれを救いたいなら、きみだけ留年してください!」
ちぇーっ、怒られてしまった。
「わーい、玲萌せんぱいがもう一年、学院にいてくれたら楽しいだろーな♪」
喜ぶ夕露はかわいいのだが、卒業試験はペアで受けることになっている以上、凪留にやたら迷惑もかけられない。彼の両親が経営する酒屋はあまりうまく行っていないうえ、彼には妹と弟が合計四人もいたはずだ。のんびり勉強できる環境でもないだろう。
あたしたちを乗せた鳥は、入り江を渡り波止のほうへ向かう。見下ろすと、樹葵を乗せた船もあたしたちの下を運行している。
「クピドちゃん、風にあおられてるね」
夕露の言う通り、なんだか危なっかしい飛び方だ。
「天翔けは大きい分、風の強い日はこちらに分がありますね」
あたしたちとクピドの距離はどんどん縮まってゆく。
「翠薫颯旋嵐、ほそく集き絆となりて、我が敵影、捕らえたまえ!」
あたしは魔術で生み出した風の網を、空中で強風にもてあそばれているクピドめがけて投げつける。
「よっしゃ、かかった!」
今度こそ、慎重にたぐり寄せ――
しかしその刹那、海面の船から樹葵の魔術が放たれた!
「きゃぁぁぁぁっ」
悲鳴を上げたのはクピドじゃなくて、あたし。魔力の閃光はあたしの術を斬り裂き、さらにクピドの羽をとらえた。
「なんてことするのよ、樹葵!」
強風で聞こえるはずもないが、下に向かって思わず叫ぶ。凪留は天翔けに、
「あれをキャッチしてくれ!」
と頼み、風にもまれて落下してゆくクピドを追わせる。
急降下する天翔け。内臓が持ち上がるような気分の悪さが襲う。必死で天翔けの背にしがみつきながら、許すまじ樹葵、あとで絶対殴る! とあたしは誓った。
「クピドちゃんが落ちちゃう!」
夕露が叫んだときには、白い姿は襲いかかる波に吸い込まれたように見えた。樹葵たちの船からもかなり離れ、波止の先端付近に落下したと思われる。
「まずいっ これじゃ不合格に――」
凪留は慌てて、クピドの落ちたあたりに天翔けを飛ばす。しかし海面には何も浮かんでいない。海底に沈んでしまったのだろうか?
「なんとか助けてあげたい……」
あたしは唇をかむ。
時折、砕けた波から散る水しぶきが、天翔けに乗ったあたしたちまで届く。それを袖でよけながら、凪留は夕露を振り返った。「夕露くん、見えていましたか? クピドは海へ? それとも――」
「波が高くて分からないよぉ」
首を振る夕露の言葉に、あたしは決断した。
「風の結界をまとって、海に入って探すわ」
「危ないよ玲萌せんぱい! 流されちゃうよ!」
止める夕露とは反対に、凪留はうなずいた。
「危険を感じたらすぐに上がって下さい。僕たちは海面で待機していますから」
凪留の言葉が終わらぬうちに印を結ぶ。
「翠薫颯旋嵐、嵐舞回旋、汝が息吹き尽くることなく我が身、護り給え!」
魔術によって生み出された風が、あたしの全身を包み込む。迷うことなく、あたしは天翔けから飛び降りた。風の結界が海面を割り、あたしは海の中へ降りていった。
しかし――
「げっ」
海中に身を沈めてすぐ、あたしは苦い顔をすることになった。
荒れ狂う波が海底の砂を巻き上げるせいで、普段は遠くまで見渡せる澄んだ水が茶色く濁って、ほんの目先の海藻さえ見えないほどだ。
帯に挟んだ矢立から小筆を、懐の紙入れから紙片を取り出す。紙片の上部にはすでに梵字が書き入れられている。その下に「紅灼溶玉閃」と記し呪文を唱えた。
「暖かき灯火となりて煌めき給たまえ」
紙片に灯った小さな明かりをたよりに海中をさまよい、クピドの落下したと思われる付近から周囲をぐるりとくまなく探し回る。
海底に近づくと黄色・桜色・橙色など様々な色合いの珊瑚の陰に、魚たちがじっと身をひそめているのが、あえかな明かりにぼんやりと浮かび上がった。
風の結界を維持し続けるため、急速に気が奪われていく。
「そろそろ限界か?」
つぶやいた声に悔しさがにじんだ。なんの収穫も得られぬまま、あたしは海面へ上昇する。
「ここどこ!?」
海面に顔を出したあたしは、方向が分からなくなって真っ青になった。
「玲萌せんぱ〜い!」
風の向こうからかすかに夕露の声が届く。振り返ると強風の中、必死にこちらへ近づこうとする天翔けと、その向こうに常夜燈が見えた。
予想外に流されてる――
海面で待っていた凪留たちから遠く離れ、波止の外側まで来ていた。
「翠薫颯旋嵐、汝が大いなる才にて、低き力の柵凌ぎ、我運び給え!」
気を振り絞って空中遊泳の術を発動させる。どうやら風向きはこちらから凪留たちのほうへ向いているらしい。あたしが飛んでいった方が早い!
だがそのとき、視界の端から近づくものに気がついた。ひときわ高い波が山脈のように連なって、沖から押し寄せてくる。
――逃げられない!
あたしの身長の五倍はあろうかという高波が、入り江の幅いっぱいに広がって、野生動物のような速さで襲いかかる。
「玲萌くん!!」
轟音の向こうに、凪留の声が聞こえたような気がした。
上にも左右にも逃げられず、荒れ狂う凶暴な水の塊に、あたしは今度こそ飲み込まれた。
――やばい、これは無理かも……
遠のく意識の中、あたしは後悔にさいなまれた。大自然の威力をなめてかかっていた。人が扱う魔術など、大いなる海に比べたら豆粒みたいなものだった――




