第十話:思いもかけぬ逃避行、旅は続くよどこまでも
全身ほかほかしながら湯屋の暖簾をくぐっておもてへ出る。話し込んでいたせいで、すっかり長湯をしてしまった。
「さっきよりだいぶ風がおさまってるんじゃない?」
かすかに磯の匂いを含んだ風が、通りの土埃をさらってゆく。
「これなら出航できそうだな。でかい船だっていうし」
先に外へ出て、ひさしの下で空を見上げていた樹葵が答える。
履物屋に寄って、それから屋台で浜前寿司を放り込んで、船番所へ戻ってきたときには、大きな商船は出航間近だった。こういうとき凪留がいたら無駄足は一切許さないのだが、あたしたち三人だとてんで駄目である。
「あの鼻緒かわいかったなぁ」
まだ未練がましく履物屋で見た下駄の話をしているのは、あたしでも夕露でもなく樹葵である。
「紺と白って色合わせがいいよな、さわやかで。これからの季節にぴったりじゃんか」
確かに、白と紺の市松模様は粋であった。が、その上に目立つ柄ではないものの金糸で小花が刺繍してあり、店の親父さんはご婦人用だと言っていた。しかし、美しいと思えば水龍の鱗でも手に入れてしまう、人と妖の境さえ軽々と飛び越える樹葵に、男女のファッションの垣根などないに等しい。
「台選んで鼻緒すげてってやってたら、船間に合わなかったでしょ」
と、たしなめるあたし。樹葵のことだから下駄の台を選ぶにも、またこだわるはずだ。
下駄屋さんというのは、好みの台と鼻緒を別々に選んで、足にあわせてすげてもらうので、急いでいるときに樹葵のような洒落者を連れて行ってはいけない場所なのだ。
「大体これからまだ旅が続くってぇのに――」
あたしが文句の続きを言う前に、
「玲萌せんぱい、樹葵くん、乗せてくれるそうです! 早く早く!」
話がついたらしく、帝国製の大きな船が泊まった桟橋から夕露が手を振る。
彼女の横にいた船員と思しき初老の男性は仕事があるのだろう、夕露に声をかけると船の甲板へ上がって行った。それは巨大な木製の船で、窓がいくつも並んでいる。正面には守り神のような空想上の動物の顔がはりついていた。おそらく隣の帝国で信じられている神獣なんだろう。
「どこまで行くの?」
見上げると首が痛くなるような高さの船をあおぎながら、夕露に尋ねる。
「中国地方行きだそうです」
「ちょっと遠すぎるけど摩弥に襲われるよりはマシよね」
振り返ると樹葵も、だな、とうなずいた。
甲板に上がると桟橋が遥か下に見える。船はゆっくりと岸を離れていく。
「こんな大きい船でなに運んでるのかな」
潮風に吹かれながら思わず一人つぶやくと、帆の向きを調節しているおっちゃんが太い綱を片手に
「そりゃあ嬢ちゃん」
とこちらを見下ろした。「隣の帝国までいろんな品物を運ぶんだ。しょっちゅう出る船じゃない。大きくもなるさ。帰りはまた、陶磁器や珍しい宝石、海外の書物まで積んで戻ってくる」
「え? 隣の帝国……? この船の行き先って――?」
「チュォンホア帝国の都だが?」
「ですよね~ ありがとうございますぅ」
笑顔でおっちゃんにお礼を言って、あたしはゆっくりと振り返った。
「夕露ちゃぁぁぁん!? 今の話聞いてたかなあ?」
「玲萌せんぱい、顔が怖い……」
何かを悟ってじりじりと後ずさる夕露。かわりに樹葵が、
「海の向こうの帝国行きたぁ、どーりで運賃が高ぇわけだ。夕露の親のコネがあるにしちゃあ、普通にとりやがると思ってたとこだ」
と、金子の話を始める。
「う、海の向こう!?」
今さら目をきょろきょろさせる夕露に、
「そーよ! この船チュォンホア帝国行きだって言ってたわよ!!」
大きな声を出すと、
「ちゅ? ちょ? ちぇ?」
などと要領を得ない。
「あ~、これは隣の国の名前を知らないやつだな」
と樹葵。彼の言う通りなんだろう。もはや怒る気力も湧いてこない。
「今からでも空飛んで港に戻る?」
疲れた顔で提案するあたし。
「この距離なら飛べるだろうが、運賃もったいねえな」
港を振り返って苦笑しながら、相変わらず呪文も唱えずにふわりと浮かび上がった。樹葵には羽などいらなそうだが、風の術で飛んでも高度が知れている。鳥のように飛びたいのだろう。
「翠薫颯旋嵐、汝が大いなる才にて、低き力の柵凌ぎ、我運び給え!」
あたしと夕露も風を操り浮き上がる。しかし――
べちっ
派手な音を立てて夕露が甲板の床に激突した。
「ちょっと夕露、大丈夫!?」
慌てて手を差し伸べるあたし。
「あれ~ どしたんだろぉ」
緊張感のない声を出しながら、甲板の上でじたばたしている。
「もう一度、印を結んでちゃんと呪文唱えて!」
遠ざかる港の景色に焦りがつのる。空を飛ぶ術というと便利そうだが、飛距離は各自の魔力量に比例するので、船が沖へ出てしまうと戻れなくなる。
夕露は板にへばりついたままぶつぶつと、
「翠薫颯旋嵐、汝が大いなる才にて、低き力のしらがにしろき――」
「呪文間違ってる! 白髪に白き、じゃなくて『柵凌ぎ』よ!」
樹葵が空中に浮かんだまま笑いだす。「低き力の白髪ってなんだよ!」
夕露はめげずに再挑戦。「すいくんそうめんかん――」
「そうめん館ってどこの店! 食いて~」
樹葵がさらに爆笑した。
だめだこりゃ。
「夕露、呪文は響きで覚えるんじゃなくて、ちゃんと意味から理解するのよ」
樹葵はすっかりあきらめて、甲板の手すりに腰かけ足をぶらぶらさせている。「ま、いーんじゃね? さすがに隣の帝国までは追っかけてこないっしょ、摩弥のやつも」
あたしはため息をついて、ずいぶん離れてしまった港町をみつめた。厚い雲は風に吹き飛ばされ、空には太陽がのぞく。夏の陽射しに照らされて、遠く並んだ土蔵の壁が白く輝いている。
「この船、異国に行っちゃうの!?」
夕露がようやく状況を理解したらしい。
「そーだぜ。数日かかるんだ。ゆっくり船旅を楽しもうぜ」
樹葵の言葉に、夕露は驚くより目を輝かせた。「あたし、あきつ島から出るのはじめて! 父さんは時々、異国にも行ってるの! あたしもいつかって思ってたけど、それがこんなに早く実現するなんて――」
「よかったわね~、夕露」
ちょっとにらんでから、あたしも腹をくくった。「これはもう、行き当たりばったりの冒険を楽しむしかないか!」
「そうそう、ハプニングを楽しんでこその人生さ」
樹葵がにやりと笑った。
甲板から見下ろす波の上を、きらきらと陽の光が踊る。
「あれっ?」
と、隣で夕露がつぶやいた。「玲萌せんぱい、あの鳥なんか変――」
夕露が指さす遠い空、額に手をかざして仰ぎ見れば――
「あれ、クピドじゃない!?」
思わず叫ぶあたし。
「違ぇねえ。あいつあの波から逃げきったんだな」
樹葵も陽射しに目を細める。
「どこに飛んで行くんだろ……」
港からぐんぐん遠ざかる姿に、あたしはちょっと心配になる。
「いいんじゃねえか? あの港にいても結局、摩弥のもとに連れ戻されるのがオチだ。自由を求めて広い世界に羽ばたいていくんだよ。俺たちのようにな」
樹葵はやさしいまなざしで、小さくなるその後ろ姿を見送っていた。
あたしも心の中でエールを送る。
――いってらっしゃい。良い街をみつけてね!
この続きは、短篇『金貨百枚!生け捕りだ!』になります。
となりの帝国(中華風異世界)で依頼をこなす話です。
相変わらずギャグ多めでお届けしております。




