4.再会
大学に進学した後も、幸太は真那と定期的にカフェなどで直接会って、その後の清香の動向を聞いていた。
その頃には、すでに清香は他人を常に認識出来なくなっていた。
「こういう言い方はあまりしたくないけど、清香はもう幸太が知ってる昔の明るい清香じゃないよ。本当に、びっくりするくらい全然別人。ネガティブで、ヒステリックで、パニックが起こしたら薬を飲まないと落ち着けないくらいメンタルがやられちゃってるの」
真那は微笑みながら言った。真那の額には白い絆創膏が貼られていた。
「その傷、どうした?」
幸太は絆創膏を指さして尋ねた。
「清香にやられた。あの子、最近むしゃくしゃすると物を投げるんだ。でも、狙って投げられたわけじゃないよ。当たったのは本当に偶然。あの子が誰かを狙って物を投げられるわけないしね」
真那はそう言って、苦笑した。
大学に入学してから、幸太は写真サークルに入った。
会員がたった五人しかいない、たまに皆でレンタカーを借りて写真を撮りにどこかへ出かけるというだけの、本当に細々としたサークルだったけれど、四年の会長がお古のデジタル一眼レフカメラと安いレンズを一通り貸してくれたということもあり、体験入会からだらだらと居続けてしまい、とうとう正規会員になってしまった。
その後、幸太は割の良いコールセンターのバイトを始め、ずっとカメラを借りたままでは悪いと想い、バイトをして貯めたお金で会長からカメラを買い取った。
それから、幸太は写真を撮るのが完全に趣味と言えるほどになった。
元々、写真に興味を持ったのは、ずっと入院が続いている清香に、綺麗な風景の写真を撮って見せてあげたかったからだった。
良い写真が撮れたと思った度に、幸太は清香に写真の画像を送り続けた。
どれだけ写真を送っても、既読表示が付くだけで返事は一切なかった。けれど、既読表示が付く度に、まだ清香とのつながりが残っている実感がし、清香の笑顔が浮かんで心が安らいだ。
『絶対に清香を独りにはしないから』
指輪は返されたけれど、その書き置きは返されなかった。
だから、せめて清香を独りにしないと約束してくれる他の誰かが現れるまで、清香から拒絶されない限り、幸太は彼女とつながり続けようと考えた。
大学三年の秋、清香に送り続けていた写真に、急に既読が付かなくなった。
それまでは遅くとも三日以内くらいには既読表示が付いていたのだけど、一週間経っても、二週間経っても、既読の文字は表示されなかった。
清香に何かあったのかと思い、幸太は真那に電話をした。
真那はしばらく返答に困っていた。
けれど、幸太がまだ清香のことが好きだと伝えると、深く溜め息をついてから、
『……清香、クリニックの自分の部屋で自殺しようとしたんだ』
真那は確かにそう言った。
「それで、清香は無事なのか?」
幸太は声をつまらせながら尋ねた。
『うん。幸い看護師さんがすぐに見つけてくれて、怪我は大したことなかったみたいなんだけど、それで一週間くらい前に精神科の病院に転院したの』
真那は言った。
幸太は安堵して、自分の部屋のベッドに倒れ込んだ。
『ちなみにこれは、幸太が何をしたから悪いとか、そういう話では全然ないから。今だから言えることなんだけど、三年前、清香が入院することになったのは、清香がおじさんやおばさんが留守の時にリストカットしたからなんだよ』
真那は淡々と言った。
「……それ、知らなかったの、俺だけ?」
幸太は尋ねた。
『……そんなの、誰も言えるわけないじゃない。……言ったらあんた、受験勉強を放り出して、絶対に清香の傍から離れなかったでしょ』
真那が涙声で言った。
「うん。そうだな。たぶんそうだったと思う」
幸太は言った。
「真那、清香が転院した病院はどこか知ってる?」
『知ってる。けど、教えない。清香や清香の両親の許可なく、私があんたに教えるのはルール違反だと思うし、行ったってどうせ会えないよ』
真那は幸太を突き放すように言った。
「だとしても、俺は清香に約束したから。『絶対に独りにしない』って」
幸太は言った。
真那が電話の向こうで号泣した。
「清香には望まれていないのかもしれないけど、でも約束した以上は、手だけはちゃんと清香に向けて差し出しておきたいんだ。もし清香が誰かの手を必要とした時に、清香にその手を掴んでもらえるように。たとえ清香に見えていなくたって、目の前にちゃんと手が差し出されていることを知っていてもらいたいんだ」
幸太は言った。
真那はしばらく涙声を続けながら、何かを考えているようだった。
幸太は真那が答えるのを待った。やがて、
『うん、わかった。今度、私が清香に会いに行く時に一緒に行こう』
と、真那は言った。
それから幸太と真那は電話越しに一緒に泣いた。
高校時代に、まだ清香が幸太と真那が見えていた頃のことを幸太は思い出していた。見えるか見えないかなんて、そんなくだらないことを考えなくても、毎日楽しく笑っていられた、あの頃。
きっと、真那も同じことを思い出しているんじゃないかと幸太は思った。
――清香が精神病院からクリニックに戻ってきた後であれば。
三年ぶりに会った清香の両親は、清香に会いたいと言った幸太にそう言った。
とはいえ、それがいつ頃になるのか、というのは清香の両親も知らなかった。全ては清香の精神状態次第。精神科の先生とクリニックの先生が、清香が戻ることを認めてくれればという話だった。
そして、その日がやって来たのは、翌年、大学四年の夏のことだった。
その頃には幸太はすでに就職活動を終えていて、医療機器メーカーの内定をもらっていた。提示された給料はそれほど高くはなかったけれど、業績は安定していて、将来性も十分にある会社だった。
清香との再会の日、幸太は駅で真那と待ち合わせ、地下鉄とバスを乗り継いで清香がずっと入院していたクリニックに足を運ぶ。
真那はまだ就活中らしく、移動中はずっと就活の愚痴を幸太に言い続けていた。
クリニックの玄関まで行くと、待合ロビーの長椅子に清香の両親が並んで腰掛けていた。
それから幸太達は看護師さんに連れられて、清香がいる居室へと向かった。
清香の居室は、廊下の一番奥の角部屋だった。
居室の扉は中から鍵が掛けられるようになっていて、ドアノブに手をかけた看護師さんは片手に鍵を持っていた。
看護師さんがノックをした。
入り口の壁に付いていた緑色のLEDライトが光る。
看護師さんはその光を確認した後、居室の鍵を開けて部屋の中に入り、すぐに扉を閉めた。
「……はい。大丈夫です。会います」
清香の声が聞こえた。懐かしい声だった。けれど、その声は以前と比べ物にならないほど弱々しく、何かに怯えているような少し震えた声だった。
看護師さんが居室から出てきて、「どうぞ」と幸太達に中に入るよう促した。
すると清香の両親は、先に入るようにと幸太に向かって手を差し出した。
幸太は二人に向かって小さく会釈をしてから、居室の中へと入った。
何もない無機質な白い部屋。白いベッド。そのベッドに、清香はタブレットを手に持ち、上半身だけを起き上がらせて横になっていた。以前は一時期拒食傾向があったらしく、体は昔よりもずいぶんやせ細り、顔からは生気が抜けていた。髪だけが面会のためにかきちんとセットされていて、それが逆に彼女のひどく疲れ切った表情を際立たせていた。
看護師さんは幸太にナースコールの場所を教えてくれた後、幸太と清香を残して居室の扉を閉めて出て行った。
幸太はしばらく、久しぶりに会えた清香の顔を眺めていた。
すると、清香が近くに置いてあった、二つ並んだ椅子の方を見て呟いた。
「お父さん? お母さん? どうしたの? 何かあった?」
清香は言った。
幸太は何か書くものがないか部屋の中を見回した。居室の壁にはホワイトボードが取り付けられていた。
幸太はホワイトボードにメッセージを書き、ペンを置く部分にスマホを置いて着信音を鳴らした。『きらきら星変奏曲』。幸太がいつも、清香を呼ぶ時に使っていた曲。
『四年も待たせてごめん』
そのメッセージを見た瞬間、清香はすぐに口元を押さえて涙を流し始めた。
「……幸太?」
清香は言った。幸太は頷いた。
『この四年間でわかった。清香に俺が見えなくたって、清香の笑顔が俺を幸せにしてくれるんだって』
清香はずっとホワイトボードを見つめ続けた。
『この四年間、ずっと清香に傍に居てほしいと思った』
清香は小さく頷いた。
『もう二度と清香と離れたくないんだ』
「……うん」
清香は言った。
『ずっと俺の傍に居てくれませんか?』
幸太は清香の目の前にあったテーブルに指輪を置いた。それは四年間、幸太がずっと持ち続けていた、清香に一度返された指輪。
清香は指輪に手を伸ばす。そこにあった幸太の手に指が当たり、微かな感触をたどるようにして幸太の手を握った。
「……私なんかでいいの?」
清香はうつむきながら涙を流して言った。
幸太は片手でスマホを操作してメッセージを打ち、清香の前に置いた。
<私なんかって言うな。清香じゃないとダメなんだ>
清香は幸太のスマホの画面を見て頷いた後、今まで幸太が送り続けてきた写真をさかのぼっていくようにスクロールし始めた。
やがて、写真が終わり、高校時代のたわいないやり取りが流れていく。
バカみたいに何度も『好き』という単語が繰り返されるそのやり取りの記録を、幸太と清香は昔を懐かしむように一緒に微笑みながら眺めていた。
「……幸太、私もこの四年でわかったんだ。幸太のことが見えなくたって、幸太が傍に居てくれるだけで私は幸せだったんだって」
清香は言った。
そして、指輪をはめ、微笑みながら自分の左手を見せた。
「私は幸太と一緒に居たいです。これからずっと。いつまでも」
幸太は清香を抱きしめた。
すると、清香は幸太を強く抱きしめ返した。
「……幸太。ここに居たんだね。ちょびっとだけどわかる。……ごめんね。私、気づけなくて。姿が見えなくたって、幸太はずっと私の傍に居てくれたんだよね。四年間ずっと、私を独りにしないで居てくれたんだよね」
幸太は頷いた。
清香も頷いた。
そして、二人はキスをした。