木崎君の秘密の事情(中編)
その日は朝から雨が降っていた。
せっかくの日曜日だっていうのに、嫌な感じだった。
雨の日が大嫌いなあたしは、朝から機嫌が悪かった。
空は濃い灰色の分厚い雲に覆われていて、雨は一日中止みそうになかったし、じめじめした空気とざーざー煩い雨音のせいで、すごくイライラしていた。絶対外になんか出たくなかったから、仕方なく宿題と予習をして、その後は弟とゲームの対戦をして遊んでいた。
それなのに、夕方、お母さんにお使いを頼まれてしまって、あたしはむくれたまま家から少し離れたところにある神社へと向かった。
雨が降ってなかったら自転車で15分くらい漕いだら着く距離なのに、雨が降ってるせいで歩きだったから、いつもの倍は時間がかかってしまった。
「おじちゃーん! 狩野のおじちゃん、夕子ですー! 晩ご飯のお裾分けに来ましたー!! おじちゃん、いないのー?!」
あたしはいつものように、神社のすぐ横にある、広くてぱっと見は立派だが、実はぼろい外観の平屋建ての一軒家の戸をばんばん叩きながら大声を出した。インターホン、などという文明の利器がついていないのだ、この家は。
お狐さまを祀っている近所の神社は、無人の小さな寂れた神社である。
そこは神主さんがいない代わりに、神社の近くのお家が掃除などをしている。
現在、1番神社の掃除などを積極的に行っているのが、神社のすぐ横の家に住んでいる、お母さんの幼馴染である狩野敏行さん。あたしは単におじちゃんって呼んでるけどね。
おじちゃんは、お母さんの幼馴染っていってもお母さんより10も年上で、昔からうちの近所一帯の子どもたちのまとめ役をしていたらしい。その名残なのか、お母さんの世代の大人たちは、おじちゃんのことをとっても慕っている。
そして、未だに独身のおじちゃんの生活を心配して、こうして偶に夕飯のおかずのお裾分けをしているのだ。
「……あれぇ? いないのかな……」
いつもならドタドタという大きな足音とともに、すぐに出てくるおじちゃんが全然出てこなかったため、あたしはタッパーの入ったビニール袋片手に困ってしまった。おじちゃんの家の玄関は引き戸なので、ドアノブにビニール袋を引っ掛けて帰る、なんて真似ができないのだ。
あたしが声を出して呼びかけてから5分ちょっと。一向に反応が返ってこないことに、どうしようかなーと困っていると、ようやく聞き慣れた煩い足音とともに、おじちゃんが玄関の戸を開けた。
「やー、夕子ちゃん。待たせちゃって、悪い、悪い。ちょっと客が来ててさぁ」
小柄でちょっとお腹の出たおじちゃんは、いつも通りの人の良さそうな笑顔であたしを出迎えてくれた。おじちゃんのぽちゃっとした丸顔は、笑うと愛嬌があってなんだか可愛らしい。見てるこっちも、ほっこりしてくるいい笑顔だ。
あたしは「もう~」と怒ったふりをしながら、お母さんに渡された麻婆豆腐と酢の物が入ったタッパーをおじちゃんに手渡した。おじちゃんはにこにこしながら「いっつも悪いねぇ」と言って受け取った。
そのとき、あたしはおじちゃんの体から何やら甘い匂いが漂ってきたのに気がついた。いつものおじちゃんには全く縁のなさそうな、甘~い……生クリームの匂い?
「そうだっ!」
唐突におじちゃんが大きな声をあげて、あたしを見た。あたしがびっくりしていると、おじちゃんは満面の笑みで「夕子ちゃん、甘いもの平気だったよね?」と聞いてきた。
「はあ……。まぁ、好きだけど……」
「よっしゃ、そりゃ好都合!
夕子ちゃん、雨の中わざわざ来てくれたんだから、ちょっと上がっていってよ」
「え? でも、おじちゃん、さっきお客さんが来てるって言ってなかった?」
「いやぁ、それがね、客は客なんだけど」
おじちゃんはあたしを「まあまあ、気にせず上がって」と促しながら、困ったように頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
「実はなぁ、今座敷にいる客なんだけど、いきなり昼過ぎにうちに大量にケーキを持って来たんだよ。で、今まで俺とそいつでケーキを処理してんだけど、量が半端なくってなぁ。夕子ちゃん、ちょっと食べてってくれない?」
あたしを奥の広い座敷の方に案内しながら、おじちゃんはそう言ってあたしを拝むようなポーズをとった。
そりゃ、ケーキは大好きだけど、そんなにいっぱいあって困ってるんなら他所のお家にいくつかお裾分けしたらいいのに。
そう言ったら、おじちゃんはなんとも言えない表情をして(なんか、思いっきり眉を寄せて口を歪めて、視線をあちこちに彷徨わせてた。不気味だった……)、「ちょっとそれはできないんだよなぁ」と困ったように言った。
いまいち状況がよく分からないが、どうやら手作りのものらしく、それで他所に分けるのを躊躇っているらしい。
まぁ、ケーキをおじちゃんに持ってきたそのお客さんには悪いけど、見た目がやばかったり、一口食べて不味かったらさっさと帰ったらいいや。
そんな風に気軽に考えていたあたしが、おじちゃんが「おーい、助っ人だぞー」の言葉とともに開かれた襖の先で見た光景は。
おじちゃんの家で一番広い座敷の中央に置かれた、長方形の巨大な机の上に所狭しと並べられた、全部で10個弱ほどの真っ白い生クリームとフルーツで彩られた美味しそうなホールケーキ(直径30センチ大)。
そこから漂ってくる甘い甘~い匂いと、それに囲まれて、あたしとおじちゃんにちょうど背を向けた形で黙々とケーキをホールのまま食べている少年。彼の左横には、食べ終わったケーキの大皿が6枚ほど重ねられていた。
その少年は、胡坐をかいて座っていた。
胡坐って、自然と猫背になるじゃない? その状態のまま物を食べるなら、特にね。
それなのに、彼の姿勢はすごく綺麗だった。全然だらしなく見えない、凛としたその後姿。――その姿に、何故か強い既視感を覚えたあたし。
彼はおじちゃんの言葉に、それまで一定の間隔で皿の上と自分の顔の辺りとを往復させていたフォークを握った右手をぴたりと止めた。そして、ゆっくりとこちらを振り返り――――
「ぅぇええええっ?! き、木崎君っ?!」
「……あれ、野中さん」
思いもよらなかった同級生の顔に、思わずひっくり返った声をあげてしまったあたしと、綺麗な瞳を軽く見開いてあたしの名前を呼んだ彼――木崎君。そして、
「お? なんだ、優吾、夕子ちゃんと知り合いだったのか?」
呑気な声をあげるおじちゃん。
それに冷静に「同級生だよ」と返す木崎君。
予想外の展開に、あたしは暫し呆然としてしまった。
「おじちゃんと木崎君って、知り合いだったんだね」
驚きから立ち直ったあたしは、木崎君の右隣に座ってケーキをつつきながら、そんなことを言った。
木崎君に「一緒にケーキ食べない?」と誘われて15分。そろそろ興奮が収まって、色々と聞きたいことがでてきたのだ。
「知り合いっていうか……友達?」
「えっ、どういう接点?」
木崎君が相変わらずどこかぼんやりした調子で答えるのに、あたしはびっくりした。
割と田舎なこの地域で、木崎君の家は昔からあるわけではないことは、あたしも知っている。
たしか、木崎君のご両親が結婚した後にこっちに移ってきたらしい、ということを聞いたことがある。
あたしの言葉に木崎君は少し首を傾げて、
「……ええと。小さい頃に、僕がよく迷子になった時に見つけて家まで届けてくれた」
「はぁ?」
またもや予想外の言葉が木崎君の口から出て、あたしはかなり変な声をあげてしまった。
迷子……迷子?!
そりゃ、木崎君ってよくぼけーっとしてるけど、それでも授業中に先生に当てられたらちゃんと正解を答える、そんな凄い人なのだ。だから、てっきりぼーっとしてても木崎君は根っこのところはしっかりしてると思い込んでいた。間違っても迷子にはなったりしなさそうなのに。
「なんか、自分じゃ覚えてないけど、僕は小さい頃、気がついたらよく行方不明になってる子どもだったらしくて。で、その度に母さんとかあきちゃん……姉さんが探してくれたんだけど、なんでか毎回、敏行さんが僕が神社の中にいるのを見つけてくれて、そのせいで仲良くなった」
淡々とした口調のまま、ぼんやりした目で木崎君はそう言った。
生クリームの食べすぎで既にギブアップ状態のおじちゃんは、少し離れたところでコーヒーを啜っていた。
あたしが目線でおじちゃんに「今の話、ほんと?!」と問いかけると、おじちゃんは疲れたような顔をしてヒラヒラと手を振り、「ほんとだよー」と言った。
「一番最初は確か、幼稚園にあがってすぐくらいのときかなぁ。
優吾君、家から遠いのに、3歳児の足でなんでか神社の中にいてね。夕方に掃除しようと思って神社に来たら、小さい子が1人っきりで石段に腰掛けてるから、ビックリしたよ、ほんと。名前と家の場所を聞いて、慌てて調べて電話したの。優吾君、いきなりいなくなっててたみたいで、お母さん半泣きでねぇ。すぐにお父さんと一緒に迎えに来たんだけど、その後も何回もそういうことがあってね」
いやー、もう5回目からは俺も慣れちゃってさー。
そう言って呑気そうに笑うおじちゃんに、あたしは物凄い衝撃を受けた。まさか、あたしの身近にいたおじちゃんと木崎君が仲良しだったなんて!
そうと知っていたら、もっと頻繁におじちゃんの家に寄ったのに! おじちゃんも教えてくれたらよかったのに! そしたら、もっと早い段階で木崎君と仲良くなれてたのに!!
誤解がないように言っておくと、あたしは別に木崎君に恋愛感情を抱いているわけではない。ただ、綺麗でどこまでもマイペースな木崎君がかっこいいから、ちょっと仲良しになりたいだけだ。
学校の大多数の生徒が木崎君に向ける感情も、憧れ、っていうのが一番多い。
綺麗で運動も勉強もできて、でもぼけーっとした木崎君は、学校のルールに縛られず、先生たちを黙らせるだけの成果を出しているのだ。恋愛対象にはならなくても、尊敬とか、憧れを抱きたくなる気持ちも分かってほしい。
ただ、木崎君は普段(ケーキを黙々と食べている今もだけど)、何を考えてるのかよく分からない人だから、話しかけづらい。だから、仲良くしたくてもきっかけがあんまりないのだ。
しかし! 今、あたしは何と木崎君に誘われて、一緒にケーキを食べている!! 8年くらいクラスが一緒だったけど、初めてちゃんと会話してる!!
万歳!! お母さん、雨の中無理矢理お使いに行かせてくれてありがとう!!
そんな風に内心で狂喜乱舞していたあたしに、木崎君が声をかけた。
「……そういえば、野中さんはよく敏行さんの所に来るの?」
「えっ、う、うん。うちのお母さんがおじちゃんと幼馴染で、晩ご飯の差し入れをよく持ってけって言われるから、差し入れに」
「ふぅん」
フォークを口に咥えたまま、木崎君は小さく首を傾げてあたしを見た。
綺麗な黒い髪が動きに合わせて、さらさらと流れる。長い睫に縁取られた真っ黒の瞳が、何もかも見透かすようにあたしを見つめる。
「いい子なんだね、野中さん」
そう言って、木崎君は小さく微笑んだ。
木崎君はいつも、どこかぼうっとした表情をしていて、あんまりそれが変わらない。だから、笑顔なんてのは物凄くレアだ。
あたしは思わず、その珍しくて綺麗な微笑みに、ぽかんと見蕩れてしまった。
「……食べないの?」
よほど間抜けな顔をしていたのか、木崎君が不思議そうに言って、慌ててあたしはケーキに取り掛かった。
ちなみに、あたしは一番小さそうなホールケーキをもしゃもしゃと食べている。
手作りらしいが、豪華な見た目に見合った、ふんわりとして全くくどくないクリームと中に挟まれた甘酸っぱいフルーツ、そしてしっとりとしたスポンジケーキは、有名店に並んでいてもおかしくないほどに美味しかった。
滅多に見られない木崎君の微笑みに、自然と赤らんでくる頬を誤魔化そうとして、あたしは大口を開けてケーキを食べながら、次の疑問を口にした。
「でもこのケーキ、すっごい美味しいけど、量もすごいよね! 木崎君のお母さんが作ったの?」
状況からして当然と言えば当然のあたしの疑問に、木崎君はぴたっとフォークを動かす手を止めた。
そして、なんというか……これまた珍しく、沈痛な表情をあたしに向けた。
「……母さんじゃなくて、馬鹿な父親が……」
そこまで言ってフォークを皿の上に置くと、肘を胡坐を組んでいる膝に乗せて、両手を組んでそこに額をくっつけて盛大な溜息を吐いた。
な、なんか聞いちゃいけないことだった? いやでも、この状況でこれを聞かないほうがおかしいよね! だってなんで(木崎君とおじちゃんが完食済みの分も合わせると)20個近いホールケーキがあるの? しかもそれをたった2人で片付けようとするとか、おかしいよね?
「お、お父さんが作ったの? 木崎君のお父さん、お菓子作り上手なんだね!」
「……あの人、基本的に何でも人並み以上にできるから……。でも、これは作りすぎ……。
注意したら、僕に処分しろって言うし……。嫌がったら有無を言わせず車にケーキごと詰め込まれて敏行さんの所に連行されて捨てられるし……」
ぶつぶつと暗い声で言う木崎君の表情は、垂れた髪の毛のせいで見えない。見えないけど……なんとなく想像はつく。きっと、これまた珍しく暗澹たる表情をしているに違いない。
「敏行さんも嫌がってくれればいいのに、簡単にあの人に言いくるめられて。
あんないい歳したおっさんに顔赤らめてどうすんの」
恨みがましい目で木崎君に睨まれて、ついでにその発言にあたしが思わず「え、おじちゃん、木崎君のお父さんに顔を赤らめるって……実はそういう性癖……?」という目で見てしまったため、おじちゃんは慌てて「違う! 違うから!!」と言った。
「いや、あれは、木崎さんが奥さんの誕生日用に作ったケーキの試作品が大量に余って困ってるって言ってたから! その、愛情に感激してだな!!」
断じて俺にはそういう趣味はない!!――と豪語するおじちゃんに白い目を向けていると、木崎君はまた溜息をついて、「あの人、自分の顔と声の使いどころはきっちり把握してるからなぁ……」とぼやいた。
そういえば、小学校の授業参観の時とかに見た木崎君のお母さんって、若いし可愛い感じの人だけど、木崎君には全然似てなかった。木崎君には悪いけど、ほんとに普通のレベル。で、なんで木崎君みたいな綺麗な子が生まれるんだろう?って授業参観の度に、クラスじゃ密かに話題になってたけど、木崎君は父親似だったんだ。なるほどねー。
あたしがひとつ謎が解けて感心している一方で、木崎君は疲れたような溜息をついて、再びフォークを動かし始めた。……どうでもいいけど、木崎君の胃袋すごいな。さっきから食べるペース、全然落ちてないんだけど。
そんなことを話しながらあたしがケーキを丸々ひとつ食べ終えて、ついでに一個ホールケーキをお土産に頂いた後(木崎君には何故か「変な味とか匂いとかしたら遠慮なく捨てて」と何度も念を押された)、あたしは木崎君とおじちゃんと別れて家に帰った。
この日を境に、あたしと木崎君は仲の良い友達付き合いを始めることになったのだ。