奥様の溜息~天使が覚醒した日の話~
それは確か、暖かな春の昼下がりのことだったと記憶している。
それまでは単にころころと転がっていただけの長女・明奈が、立派に「はいはい」ができるようになった日の翌日のことだ。
リビングにある、庭に面した大きな窓の前で、天使のように可愛らしい明奈が一生懸命はいはいして自分の方にやって来るのを、わたしは胸をどきどきさせながら待っていた。
娘の外貌は平凡なわたしに似ず、やたらと顔の良い夫に似たので、それはそれは愛らしい赤ん坊だった。ぷくぷくしたほっぺたをほんのりと紅潮させて無邪気に笑いながらわたしの方へと這ってくる明奈は、そりゃもう最高に可愛かった。
娘・万歳!
妊娠中と出産前後の苦しみなど、この可愛い存在がわたしの前で生きていてくれる事実に比べれば、大した問題ではなかった。まさか自分の娘がこんなに可愛いなどと思ってもみなかったわたしにとって、明奈の存在は、新鮮な驚きと感動を毎日与えてくれた。
そんな可愛いわたしの小さな天使が、あともう少しでわたしの元へ辿り着く、という瞬間に、あの男が邪魔をしやがったのだ。
「へぇ。ちびっこ、だいぶん四つ足で這うのが上手になってきたねぇ」
腰にくる、甘やかでいて刃物のような鋭さのある心地よい低音とともに、天使の体が上へ持ち上げられた。いつの間にかリビングに来ていた、わたしの夫兼天使の父親である男が、天使を有無を言わせず抱き上げたのだ。
「ちょっと、要! 何するのよ、もうちょっとで明奈がわたしのところに到着したのに!」
やたらと存在感のある、人を惹きつけてやまない容姿の癖に、その気になれば完全に気配を消すことができる男の横暴に、わたしは当然ながら怒声をあげた。といっても、明奈をびっくりさせてはいけないから、そんなに大きな声ではなかったが。
「うん。人生、簡単に目的地に辿り着けると思ったら大間違いだということを、ちびっこに教えてあげようかと思ってね」
天上天下唯我独尊を地で行く鬼畜外道根性捻じ曲がり男はそう言って、蕩けるような笑みを見せた。わたしは瞬時に奴に対する殺意が湧いた。
なんだその滅茶苦茶な理屈は。ちょっと良いこと言いました、みたいな空気やめんか。
あといい加減「ちびっこ」じゃなくて名前で呼べ! 一応あんたとわたしで考えた名前だろうが! それと「四つ足で這う」とか言うな! 客観的な表現方法としては間違ってはいないが、それは普通、獣の類に対して用いる表現だ。間違っても血を分けた娘に対して使う表現ではない、断じて!!
わたしの文句を、奴は悠然とした笑みで受け流しやがった。殴りたい、と本気で思ったわたしを誰が責められるだろうか。
大体この男、平日なのに当時はやたらと家にいた。元々奴が担当するのは大口の仕事が多いから、担当する仕事がない時は本当に長期間に渡って暇になるのだが(それでも毎月きちんと目玉が飛び出る額の給料が入るのだから、妻としては有難いが、なんか世の中間違っていると思う)、 それにしても家にいすぎた――後から思えば、恐らく奴の人智を超越した勘が奴を家に留まらせていたのだろう。
「あー!」
明奈を抱き上げた夫とわたしの一方的な睨み合いは、娘が突然あげた声によって遮られた。
何かを激しく嫌がるその声に、わたしと夫は思わず明奈の顔を覗き込んだ。
「や、やー!!」
明奈は、夫の肩口まで伸びた襟足の長い髪を小さな両手で掴んで、思いっきり引っ張っていた。
それに留まらず、大声をあげて、小さい身体を目一杯じたばたさせて暴れていた。
これには夫もさすがに驚いたのか、明奈を落とさないように抱え直したが(一応、赤ん坊を落としたらマズイという程度の分別は奴にもあったらしい)、明奈は暴れやまない。慌ててわたしが奴から明奈を奪い取って、ようやく明奈はおとなしくなったのである。
「あきちゃん、どうしたの? お父さんの抱っこが嫌だった?」
明奈は父親であるあの男よりも母親であるわたしによく懐いていた。
だから、抱えあげた小さな身体をゆらゆら揺らしながらそう尋ねると、明奈は両手でわたしの胸元に縋りついてきて(どうでもいいが、明奈は奴の髪の毛を引っこ抜くことはできなかった。残念)、先ほどまでの機嫌の悪さが嘘のような可愛らしい笑顔でにっこりとわたしに微笑んだ。
その天使の微笑みに思わずわたしも頬を緩めると、明奈はふいに夫の方に首を向けて、びしっと右手の拳を突き出した。そして、
「やー!」
と、声をあげて夫に笑いかけた。
……笑いかけたんだ、天使みたいな笑顔で。うん。
可愛い笑顔だったよ、本当に。
ただ、その笑顔が、わたしが心底嫌いな夫の笑顔と酷似していたため、わたしは思わず硬直して、明奈を一瞬腕の中から落としそうになったのだ。
天使のような、とびきり可愛い笑顔なのに、何故か既視感のあるその表情。
親愛を表すでもなく、相手に媚を売るでもない……お気に入りの獲物を見つけた肉食獣の微笑みが、わたしの天使の顔に浮かんでいた。
物凄く嫌な予感がして、恐る恐る夫の方を見ると――――小さな娘の大暴れによって乱れた髪と服を整えた男が同じ表情をして、わたしの腕の中の天使に笑い返していた。
何度見ても慣れることのない、背筋がぞっとするような恐怖によく似た妖艶さを称えた、男の顔に浮かぶ美しい肉食獣の笑みに、わたしは本気で泣きたくなった。
「あぁ……」
恍惚とした、甘い声で呟いて、夫がわたしを見つめた。
形の良い唇がゆっくりと動いて、「いいなぁ」と言葉を紡いだ。
「本当に、面白いなぁ。まさか、こんな子どもが生まれるとは思ってもみなかったよ。やっぱり君は最高だね、梓。この子はきっと、一生をかけて僕を潰し来るよ。そして僕はこの子を何度も返り討ちにして、屈辱と絶望を味あわせてあげる。あぁ、いいなぁ、最高だ。こんなに僕によく似た子どもが生まれてくれるなんて。あぁ、違うな。梓が僕によく似た子どもを生んでくれたんだよね?」
嬉しいなぁ――そう言った夫は、いつの間にかわたしの目の前に立っていた。
思わず身を引いたわたしを、夫は腕の中の娘ごとふわりと優しく抱き締めて、聞く者に圧倒的な恐怖と官能を植えつけ屈服させる甘い声でそっとわたしに囁きかけた。
「ねぇ、梓。これから、とっても楽しくなりそうだと思わないかい?」
あぁ、世界で一番君を愛しているよ、梓。それに、可愛い明奈。僕はなんて幸せ者なんだろう。世界一愛しくて、大好きで、大切な存在が奥さんで、近い将来必ず世界一嫌いになれて、尚且つ唯一僕と張り合えそうな愛しい存在が自分の娘だなんて。本当に幸せだ、きっと死ぬまで退屈することはないだろうね――――そう言って満足そうに笑う男と、同じように満足そうに無邪気な笑い声をあげる自分の腕の中の小さな天使に、わたしはこれからの自分の苦労を予感して、思わず気が遠くなりかけたのだった。
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「まぁ、なんていうか…………あの2人が仲悪いのは、同類嫌悪みたいなものだから」
明確な理由は無いのよ。相手が存在してるのが単に嫌なだけみたい。
わたしは思い出したくもない過去を記憶のブラックボックスの中から引っ張り出して、向かいのソファで座ってお茶を飲んでいる娘の幼馴染兼彼氏君(将来の約束までしてるから、もう婚約者でもいいかなぁ)にそう言った。
なんでこんな話になったのかと言うと、彼に「今さらですけど、なんであの2人って仲悪いんですか?」と聞かれたからだ。
仲の悪い父娘が相対している庭では、日常生活を送るにあたって工事現場などでしか聞けないような轟音が響いている。
ああー、また庭に穴とかが空いてたらどうしよう……。
「同類嫌悪、ですか……」
「んー、わたしも頑張ったんだけどね、明奈が子どもの中じゃ一番、外も中も要にそっくりになっちゃって」
「ああ……。なんとなくわかります……」
齢5つにして同い年の我が娘に惚れられて、がっつり将来の約束まで交わしてしまった少年は、遠い目をして呟いた。……色々苦労かけてすまない、少年よ。
「でも、明奈の方が要なんかより、よっぽどまともだし分別も弁えてるから。何か困ったことがあったら何でも言ってね?」
「はい。ありがとうございます」
年齢に似合わぬ丁寧な物言いとは裏腹に、照れたような笑顔は年相応で可愛い。
彼は学生時代に色々とお世話になった先輩の息子さんだし、明奈に振り回されても、ずっと笑って付き合ってくれている貴重な存在だ。このまま上手く2人の仲が進んで欲しいと、わたしは思っている。
何しろ、彼も家庭事情がなかなか複雑なのだ。
そのことが原因で、わたしや要、父親である先輩にも、彼はどこかしら遠慮する節がある。
しかし、明奈に関してはどうも、そうではないらしい。母親であるわたしが言うのもなんだが、色々と父親似の明奈はしかし、父親よりもまともで男前(ってなんか違う気もするけど)な性格に育った。精神的にも肉体的にも、同年代の子どもたちに比べて遥かに強い。そんな明奈が彼の支えとなってやれるのなら、彼にとっても明奈にとってもいいことだろう。
暫くして、庭の轟音が止んだのに気がついて、彼が娘のために救急箱(かなり本格的な治療ができる万能道具箱)を片手に庭へと向かった。その後ろ姿を眺めながら、わたしは小さく溜息をつく。
結局、わたしのあの時の予感通り、娘と父親の仲は月日が経つにつれ悪化し、今では事あるごとに壮絶な舌戦と下手をすれば殴り合いが起こっている次第である。
はい? 家庭内暴力? 何ですか、それ?
うちの夫と娘は骨が折れても1週間でくっつき、痣ができても翌朝にはほとんど目立たなくなっている、そんな化け物のような体質をしていますので、問題ありません。娘の方はともかく、夫も阿呆ですが加減は弁えています、まだ圧倒的に実力差のある今のところは。無力な母と争いごとの嫌いな息子2人は巻き込まれませんので、大人げない構いたがりの父親と反抗期の娘のじゃれあいだと思ってください。
…………そうとでも思わなければやってられん。
幸いにして、後に生まれた息子2人は要遺伝子のせいで多少変わったところはあるものの、長女ほどぶっ飛んではいなかった。夫も息子2人とは普通に仲が良い。よかった、よかった。
まぁ、なんというか。あの似た者父娘は、本当によく似ているのだ。
外見や能力についてだけではなく、生みの親であるわたしにもどうにもできない根本的なところが。
だから、年々似通ってくる相手がどうにも気に食わないでいるのだ。
夫にとっては出来の悪い自分が、娘にとっては変な方向に突っ走った自分が、それぞれ相手を通して見えてしまうのだろう。
しかし、互いに互いを嫌ってはいるものの、一応親子としての愛情は持っているらしいので、そこだけは安心できる。これで心から憎み合われた日には、わたしは絶対に離婚してやる。
「何を考えてるの?」
物思いに沈んでいたわたしの耳に、甘やかな低音が心地よく響いた。
相変わらず気配を完全に消して移動しやがる迷惑な夫が、わたしが座っているソファの背もたれから手を伸ばして、わたしにもたれ掛かってきた。重い。うぜぇ。
「どっかの馬鹿な構いたがりの父親と、勝てないって分かってるのに構われに行く馬鹿で可愛い娘について考えてたの」
わたしの答えに、夫は喉を鳴らして笑った。吐息が耳を掠めてくすぐったい。小さく身をよじると、身体にまわった腕の拘束がより強くなった。
「ねぇ、梓。子どもがいるって、楽しいねぇ。僕は自分がこんなに充実した結婚生活を送れるとは思ってもいなかったよ。苦労して君を捕獲して結婚まで漕ぎ着けて子どもを仕込んで、本当によかった」
「……わたしも子どもがこんなに可愛いとは思ってもいなかったし、今は十分幸せだけど。あんなに必死に逃げまくったのにあんたに捕まって結婚までもっていかれたのだけは、何故か納得できないのよね……」
子どもを仕込まれた云々ってのは、もうほんと、抵抗しても無意味だったっていうか、致し方ないんだけど。
そこまでに至る過程が……ううん。やめとこう、思い出したら本気で人生リセットしたくなってしまう。
わたしをしっかりと抱き締めて擦り寄ってくる夫の顔を両手で押しとどめながら、わたしは娘とその恋人の行く末を思う。
願わくば、彼がわたしがかつて歩んだ苦悩と苦労と絶望の茨の道(最終到着地点は悪夢の結婚式)を歩むことがないことを誠心誠意お祈りしておく。わたしも夫も息子2人も、君になら喜んで熨斗つけて娘を任せるよ!
……とりあえず、今は娘たちが戻ってくる前に、この鬱陶しい男をどうにかしなければ。
はぁ……。
後半、若干表現が下品だったかも。すみません。あと、家庭内暴力はいけません。あしからず。
奥様……といっても梓さんはごく普通の専業主婦です。でも旦那の会社の人には「木崎さんの奥様」と呼ばれています。木崎さんと結婚した(させられた?)がために、旦那の勤め先の人や旦那の知人・友人から憐れまれたり尊敬されたり崇拝されたりしている苦労性の女性です。「不憫」と「巻き込まれ」は彼女と和之の代名詞。
※簡易人物紹介
木崎梓:木崎家の奥様にして子どもたちの母。37歳。苦労性。専業主婦。木崎家唯一の普通の顔、普通の人。ただし、要と結婚して子どもまで作ってる時点で一番普通じゃない、と要の関係者に思われていることを、幸いにも彼女は知らない。
木崎要:木崎家の旦那様にして子どもたちの父。42歳(実年齢は本人も不明)。声と容姿は極上、能力も最強、ただし性格がなんかもう駄目。仕事は海外がメインなので、基本的にあんまり家にいない。