温もりの記憶(後編)
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寂しい、さみしい、サミシイ……
あーちゃんは、まーくんに、もう会えないのが、かなしい、さみしい……
あーちゃんは、まーくんに、もう……
……『あーちゃん』? 『まーくん』?
『あーちゃん』とは、誰のことだ? それに、『まーくん』とは?
≪わたし≫は今まで、『あーちゃん』などと可愛らしい名前で呼ばれたことがあっただろうか?
≪わたし≫は、わたし、は……
わたしは、今、一体、なんの、夢を……
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「……さ、あずさ」
ああ、相変わらずいい声がする……。
この、妙にぞくぞくする色気のある声は、ある意味犯罪だな……。
「あずさ……梓。ほら、もう起きないと」
ああ、なんか勝手に体が浮いてる……。
背中と膝の裏に回された腕の感触から、わたしは俗に言う「お姫様抱っこ」というものをされていることがわかった。この抱き方、スカートだと下着が丸見えになる大きなリスクがあるが、わたしは基本的にスカートは履かないため、問題はない。
ゆっくりと体が移動して、ソファの上に座らされる。
それから、額に冷たい唇の感触。ちゅっと軽い音をたてたそれが、少しくすぐったかった。夫は、こういう可愛らしいことをするのが好きなのだ。濃厚なやつはもう、本当に半端なく濃厚なのだが。わたしは夫のこういう可愛らしいキスは、嫌いではない。
わたしは目を開けた。カーテンの開け放たれた昼間の寝室は、照明を点していなくても十分明るい。
眩しくて、少し目を細める。ベッドから少し離れた位置にある2人がけのソファに、わたしは座らされていた。
ソファの正面に置かれているテーブルの上には、可愛らしい皿にこんもりと盛られた、夫お手製の大量のシュークリームと、温かい紅茶が2人分。夫はわたしの隣に座って、わたしを見てにっこりと笑った。
「おはよう。よく寝てたね」
「んー……」
答えつつ、紅茶に手を伸ばす。うーん、美味しい……。わたしが淹れるより、断然美味しい……。淹れる手順は一緒のはずなのに、一体何が違うのやら。
何をやらせても人並み以上のことをやる夫は、お茶を淹れるのも上手だが、料理もお菓子も作るのが得意だ。お前もうプロになって店出せよ! と言いたくなるくらい、上手い。
わたしは料理はともかくとして、お菓子の類は作るのが苦手だ。手順や分量がいちいちきっちり決まっているのが、もう、面倒くさい。なので、お菓子の類は夫に一任している。奴は特にお菓子作りが好きというわけではないが、わたしが夫手製のお菓子が好きなのを知っているため、仕事から帰ってきたら、大抵はキッチンに籠もって何かを製作する。
今回は、シュークリームを作ったようだ。しかし、毎回思うが、何故こんなにたくさん作るのだ。確かに美味しいのだが、もう少し量を減らしてくれてもいいのに。
「あきちゃんは?」
「今は隣の部屋で昼寝してる。よく寝てるよ」
「……わたしに昼寝させてくれたのはありがたいけど、あんたにあきちゃんの世話させたのだけは不安だわ……。変なことしてないでしょうね?」
「してないよー。まだ、さすがに2歳児にはね。ころころ転がしたり、ぬいぐるみで殴られたり、ほっぺたひっぱったり、目潰し食らわされかけたりして、お互いに有意義に過ごしたよ」
「………………そう」
不安だ。
ものすごく、不安だ。
わたしは明奈の無事を確認したくて、とりあえずシュークリームをひとつ口の中に突っ込んで、立ち上がった。
……あれ?
「……ねぇ、要」
「ん? 何? 美味しくない?」
「あ、いや、美味しいんだけど……」
ふわふわの薄めの生地。中にたっぷり詰まった、決してくどくはない、程好い甘さのカスタードクリーム。
夫が作ったシュークリームは、何も今日初めて食べたわけではない。
それこそ、夫とわたしが初めて会った、わたしが中学生だった時に、奴が初めてわたしに振舞った手料理がこれだった。
だから、このシュークリームに奇妙な懐かしさを感じても、それは別に、おかしくはない、はずだ。夫がシュークリームを作ったのも、そう言えばずいぶん久しぶりなのだから。
ただ、なんとも言えない、奇妙な感覚がある。
夫と初めて会った頃よりも、もっと、もっと昔。
まだ小さかった頃に、この味を食べたような。
そんなこと、あるはずがないのに。
「どうしたの?」
訝しげにわたしの顔を見つめる夫に、わたしは曖昧に微笑んだ。
変だな。
何故か、不安になった。
世間一般の父と娘の触れ合いとは、大きくかけ離れたことをしている夫と明奈のことも、十分不安ではある。しかし、それとは別に、初めて感じる不安が、わたしの胸の中に渦巻いていた。
何か、大事なものを失くしてしまったような。
何か、大切なことを忘れているような。
何か、何か――それが『何』なのかが、わからない。わからないけれど。
「夢……」
ぽつりと、わたしが無意識に呟いた言葉に、夫が首を傾げた。
「夢? 夢がどうかしたの?」
「うん……」
なんと言えばいいのか。
多分、さっき惰眠を貪っていたときに、何かの夢を見たのだ。
ただ、その内容を綺麗さっぱり忘れてしまったため、何の夢だったのかはわからないが。
いや、本当は夢なんて見ていなかったのだろうか。
記憶が真っ白なような、真っ黒なような。何かあるような、ないような。
不思議な空白が、わたしの中に存在していた。
「怖い夢でも見た?」
立ち上がった夫が、優しく笑ってわたしの顔を覗き込む。
身長差があるのだから、それは別におかしなことではない。いつものことだ。初めて会ったときから、夫は背が高い男だったのだから。
なのに何故、今、それを懐かしく感じるのだろうか?
「……わからない」
小さく答えると、夫は黙ったまま、わたしを優しく抱き寄せた。
わたしの頭を撫でる夫の手の感触に、またも奇妙な懐かしさを感じる。
これは、何?
「……ねぇ。なんで今日、シュークリームを作ったの?」
胸を締め付けるような、奇妙な懐かしさと不安から逃れたくて、無理矢理話題を変えた。
夫の腕の中から一刻も早く抜け出したかったが、逆にもっと強く抱きしめてほしくもあった。
体を鍛えているくせに、夫の体温は低い。
それでも、冷たいというほどではない。
その体温が、わたしにとっては時に恐怖で、時に嫌悪で、そしていつも幸福だった。
わたしは夫を鬱陶しいしうざったいし腹立たしいと思う。もう本当に、何度コンクリ詰めにして海の底に沈めてやろうと思ったことか。結婚したことだって、何回も悔やんではいる。
しかし、わたしはそれでも確かに夫が好きだし、愛してもいる。
でなければ、子どもを作る前に自殺してでも逃げている。こんな風に、大人しく抱きしめられてもいない。
どれだけ溜息をつく事態が生じても、わたしが夫といるのは――こんなこと、絶対に口に出して言ってやらないが――彼のことが、世界で1番大好きで、大事だからだ。
それは確かなことで、絶対に変わらない事実だ。
この妙な不安と懐かしさがあっても、この気持ちだけは揺らがない。それは断言できる。
しかし、この奇妙な懐かしさと、不安は何なのだろう。
「ああ。梓と初めて会ったときのことを思い出して、なんとなくね。あの日も、今日みたいに涼しい、秋の日だったから」
「え?」
夫の返答に、一瞬、意味が分からなかった。
「何言ってるの? 要と初めて会ったのは、真夏だったじゃない」
そうだ。わたしが夫と初めて会ったのは、わたしが中学生になったばかりの年の、夏休み。夏の暑い日だった。
「……ああ、そうだったね。ごめんごめん、勘違いしていたよ。あの日は、梓に思いっきり崖から突き落とされて海に落ちたから、それで勘違いしてた。夏とはいえ、夜は冷え込んでたからね」
「……ご、ごめん……。あれはわたしが悪かったわ……」
やべぇ。忘れていたかった事実を思い出してしまった。
ごめん、あれは本当にわたしが悪かった。夫だからこそ、あんなことがあったのに今、生きているのだ。そうでなければわたしは、ほぼ確実に殺人者なっていた。
しかし、夫が勘違いをするとは珍しい。無駄に記憶力がいいくせに。
そう思って見つめると、夫は優しく笑ってわたしを抱きしめた。夫の胸のあたりまでしか身長のないわたしは、そのまま奴の胸に顔を押し付ける。
綺麗な笑顔のまま、夫の顔がわたしの顔に近づいてきた。柔らかい濃い栗色の髪が頬を掠める。薄い茶色の瞳が、優しい光を称えてわたしを見つめていた。
夫の形のいい唇が、わたしの耳元で小さく動いた。
「でも、初めて会ったときから、僕は梓のことがすぐに好きになったよ」
ぞくぞくする、いい声だった。わたしが1番好きな声だ。
その言葉に何故か、声変わりをしていない、少女のような、綺麗な少年の声が重なって聞こえた気がしたが、何を言っていたのかは分からなかった。
シュークリームは、まだたっぷりある。紅茶は冷めてしまっただろうから、また淹れ直さなくては。 明奈を1人で眠らせておくのは可哀相だし、心配だ。こっちの部屋に連れてこよう。
でも、もう少しの間だけ、このまま。
そう思って、わたしは胸の中にある奇妙な懐かしさと不安が小さくなり、そして完全に消えてなくなるまで、世界で1番心地よい、夫の体温を感じていた。
奥様は旦那様のことが、(あれだけ罵ってても)大好きなんですよ、というお話でした。
旦那様は、奥様のために張り切りすぎて大量にお菓子を作ってしまうのです。
子どもらは、たとえ父親の方が料理と菓子の腕が圧倒的に上手かろうと、母親の作ったものの方が好きだし「美味しい」と褒めます。むしろ、父親を褒めたら彼ににらまれます。