温もりの記憶(中編)
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――≪エリン≫、いたか?!
――いや、いない。奴は何処に行ったんだ?
――クソッ、逃がした!女の方は、確認取れたか?!
――ああ。【AR―30098】だった。後は【AR-43309】、奴だけだ。
――あいつが1番厄介だってのに! 4班の奴ら、油断しやがって!
――落ち着け。待っていれば、直に片が付く。
――何を悠長なことを! ≪青い猫≫、わかってるのか?!
今回の任務に失敗したら、俺たちの命が危ないんだぞ?!
――だからだ。≪黒い犬≫が【AR-43309】を追っている。
――何?!
――もともと、【AR-43309】は≪黒い犬≫がずっと追っていたんだ。大丈夫だ。
――俺たちは、連絡が来るまで待っていればいいんだな?
――そうだ。下手に追うな。殺されるぞ。【AR-43309】より、あいつの方がずっと危険だ。
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大きな鞄を持っていたお姉さんは、その中からきれいな箱を取り出して、「お土産だよ」と言って、あーちゃんにおいしそうなシュークリームをくれた。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
あーちゃんは、さーちゃんが教えてくれた『お客さまが来たときの対応の仕方』を思い出して、お姉さんに紅茶を淹れてあげた。あーちゃんが飲む分は、オレンジジュースにした。あーちゃんはまだ紅茶が苦手で、まーくんやさーちゃんのようにおいしそうに飲めないのだ。
そして、お皿にシュークリームを2つ載せて、お盆の上にそれらを置いた。
あーちゃんは、お盆の上のものをこぼさないように、そろそろと歩いてお姉さんのいる部屋に行った。
座布団の上にお行儀よく座っていたお姉さんは、お盆を持ったあーちゃんを少しびっくりしたような目で見て、それから「ありがとう」ときれいな笑顔で言った。
「君は偉いね。いつも家のお手伝いをしているの?」
「うん。さーちゃんがね、いっぱい教えてくれるの」
お姉さんは、優しく笑ってあーちゃんの頭を撫でてくれた。あーちゃんは頭を撫でられるのが大好きだから、とっても嬉しかった。
それから、あーちゃんはお姉さんと一緒にシュークリームを食べた。ふわふわした生地の中に、甘いカスタードクリームがたっぷり詰まっていて、とってもおいしかった。お姉さんは、あーちゃんが淹れた紅茶を飲んで、「とってもおいしいよ」と言って、またあーちゃんの頭を撫でてくれた。
「お姉さん、さーちゃんは死んじゃったの?」
シュークリームを食べながら、あーちゃんはお姉さんに聞いた。
お姉さんはきょとんとした顔をして、それから首を傾げて、あーちゃんに聞き返した。
「どうして、そう思うの?」
「あのね、まーくんのメモに書いてあったの」
あーちゃんは、まーくんのメモをお姉さんに見せた。お姉さんはそれを読んで、なんだか面白そうに笑った。
「なるほどねぇ……」
「お姉さん、さーちゃん、死んじゃったの?」
あーちゃんは、隣に座らせていたゆーちゃんを抱きしめて、お姉さんにもう一度聞いた。
お姉さんはあーちゃんの目を覗き込むようにして、優しく笑った。
「ううん。死んでいないよ」
「そっかぁ。よかった……」
「『さーちゃん』が死んじゃったら、悲しい?」
「うん。さーちゃん、優しいし、あーちゃんに色んなことを教えてくれるんだよ」
あーちゃんがそう言うと、お姉さんは「そうなんだ」と言って、何かを考えるように、視線を空中にさまよわせた。
「お姉さん。お姉さんが来たから、あーちゃんは逃げなくってもいいんだよね?」
「うん? ……ああ、そうだよ」
「そっか。よかったー」
あーちゃんは、ゆーちゃんに「よかったねー」と言った。
あーちゃんは、ゆーちゃんと一緒に家でまーくんを待っている方が好きなのだ。あんまり別の場所にはいたくない。だって、メモにはいつになったらまーくんがあーちゃんの所に来てくれるのか、ということが書かれていなかったから。まーくんとずっと会えなくなるのは、嫌なのだ。
「ねぇ。まーくんとさーちゃんは、君のことを『あーちゃん』って呼んでるの?」
お姉さんに聞かれて、あーちゃんはこっくりと頷いた。
「うん。まーくんもさーちゃんも、あーちゃんのこと、『あーちゃん』って呼ぶよ。ゆーちゃんも、『あーちゃん』って呼ぶんだよ」
ゆーちゃんの手をぴこぴこと動かしながら、あーちゃんは答えた。ゆーちゃんは、あーちゃんと2人きりのときは、とってもおしゃべりなのだ。
あーちゃんの答えに、お姉さんは優しく笑った。その時になってようやく、あーちゃんはまだ、お姉さんに名前を聞いていないことに気がついた。
「あのね、あのね。お姉さんも、あーちゃんのこと『あーちゃん』って呼んでいいよ。だから、お姉さんのお名前、教えて?」
「ん? ああ、そうだね……。お姉さんの名前は、『ミレイ』っていうんだよ」
「みれい?」
「うん」
「えっと、じゃあ、『みーちゃん』って呼んでいい?」
「うん。いいよ」
みーちゃん、みーちゃん。
ゆーちゃんと一緒に、あーちゃんはお姉さんの名前を繰り返した。お姉さんは、それを優しく見ていた。
「あーちゃん。君は、まーくんとずっと一緒にいるの?」
「うん。そうだよ。ゆーちゃんはね、あーちゃんが5歳のときから一緒にいるんだよ」
「そう……。じゃあ、あーちゃんは、まーくんのこと、好き?」
「うん! まーくん、大好き!」
「さーちゃんより?」
「うん! さーちゃんより好き!」
「ゆーちゃんよりも?」
「うん! あーちゃんはね、まーくんのことが、世界で1番大好きなんだよ!!」
あーちゃんの言葉に、お姉さん――みーちゃんはきょとんとした顔をして、それから一拍置いて、大きな声で笑い出した。
あーちゃんはびっくりしてみーちゃんを見た。
みーちゃんは、お腹を抱えて笑いながら、なんだかとっても羨ましそうな目であーちゃんを見た。
「みーちゃん、大丈夫?」
「あー、うん……。ご、ごめんね、こんなに笑ったのは久しぶりで……」
「ジュース飲む?」
笑いすぎて苦しそうなみーちゃんに、あーちゃんは飲みかけのオレンジジュースのコップを渡した。
みーちゃんは「あ、ありがと……」と涙目で言いながら、コップを受け取ってジュースをごくごくと飲んだ。
「そうかぁ……。あーちゃんは、まーくんのことが『世界で1番大好き』なのかぁ」
「うん。まーくんもね、あーちゃんのこと、大好きだよって言ってくれるの」
「ふうん。……いいなぁ」
コップを机の上において、みーちゃんはあーちゃんのすぐ横へと近づいてくると、目を細めてあーちゃんを見つめた。
「みーちゃん?」
「いいなぁ。まーくんが羨ましいよ」
「みーちゃんも、まーくんのこと、好き?」
「…………」
みーちゃんは少し考え込むようにして、あーちゃんを見た。それから小さく笑って、「好きだよ」と言った。
「なら、あーちゃんもみーちゃんのこと、好きだよ!」
「え?」
「まーくんのことが好きな人は、あーちゃんの仲間だもん。おいしいシュークリームくれたし、ゆーちゃんもみーちゃんのこと、好きだって!」
「……そう」
「あのね、でもね。あーちゃんの1番はまーくんで、2番はゆーちゃんで、3番はさーちゃんだから、みーちゃんは4番目ね!」
「……4番かぁ……」
みーちゃんは苦笑いして、あーちゃんの頭を優しく撫でた。そしてそのまま、ゆーちゃんを抱きかかえたあーちゃんをすっぽりと抱きしめた。
「みーちゃん?」
「うーん。4番かぁ……。微妙だなぁ……」
「えっと……えっとね。でもね、もしかしたら、2番くらいになれるかもよ?」
「うん?」
あーちゃんは、自分がみーちゃんに言った「4番目」という言葉に傷ついているのだと思って、慌ててみーちゃんの顔を見上げた。
みーちゃんは、何かを期待するような目で、あーちゃんを見つめていた。
「あのね。もし、ゆーちゃんとさーちゃんがいなくなったら、みーちゃんはあーちゃんの2番目だよ!」
「…………まーくんは?」
「え?」
「まーくんがいなくなったら?」
「えっと……」
あーちゃんは、困ってしまった。あーちゃんにとって、まーくんは世界で1番大好きな、大事な人なのだ。まーくんがいなくなってしまうなんて、あーちゃんには考えられない。そんなことになったら、あーちゃんは悲しくて悲しくて、きっとたくさん泣いて、そのまま溶けて消えてしまう。
でも、みーちゃんは怖いくらい真剣な目で、何かを期待するようにあーちゃんを見つめている。少しだけ、悲しそうな顔で。
あーちゃんはなんだか、みーちゃんが可哀相になってしまった。みーちゃんは、今日会ったばっかりのあーちゃんのことが、とっても好きみたいだ。もしかしたら、みーちゃんにはお友だちが少ないのかもしれない。
あーちゃんはまーくんが世界で1番大好きで、まーくんがいなくなるなんて考えられなかったけれど、みーちゃんにそのことを伝えたら、みーちゃんは泣いてしまうかもしれない。
みーちゃんは、今まであーちゃんが会ったことのある人の中で、1番きれいな人だ。すごくきれいだから、そのせいでお友だちが少ないのかもしれないし、誰かに1番好きになってもらえないのかもしれない。そんなのは、可哀相だ。
だから、あーちゃんはちょっとだけ、嘘をついた。
「まーくんがいなくなったら、みーちゃんがあーちゃんの1番だよ」
まーくんが、あーちゃんの前からいなくなることなんて絶対にないから、そんなことはありえないけど。
あーちゃんの言葉に、みーちゃんはとっても嬉しそうな顔をして、あーちゃんのことをぎゅうっと強く抱きしめた。あーちゃんとみーちゃんの間で、ゆーちゃんの白いふわふわな体が潰れてしまった。
「ありがとう、あーちゃん」
「みーちゃん、苦しいよ……」
「うん。大丈夫、すぐに楽になるからね」
あーちゃんが苦しくてみーちゃんの顔を見上げると、みーちゃんは天使みたいにきれいな顔で笑って、あーちゃんのほっぺたに顔を寄せて、ちゅっとした。
あーちゃんがびっくりしていると、みーちゃんは笑ったまま、あーちゃんのほっぺたに頬擦りした。
あーちゃんは、なんだかよくわからないけど、みーちゃんが喜んでくれたから安心した。みーちゃんみたいにきれいな人が、あーちゃんのせいで悲しい顔をするのは、嫌だったから。
そして、あーちゃんはなんだか、ふわふわな気持ちになってきた。
ふわふわ、ふわふわ。
目がとろんとしてきて、体に力が入らない。
ぼんやりしたまま、あーちゃんはみーちゃんを見た。
みーちゃんは微笑んだまま、もう一度、あーちゃんのほっぺたにちゅっとした。
それから、座布団の上に、だらっとしたあーちゃんの体を横たえた。
みーちゃん?
あーちゃんは、みーちゃんの方に視線を向けた。体に力が入らなくて、うまく動かない。それに、とってもふわふわして、気持ちいい。
でも、なんだか、不安になった。
みーちゃんをこのままにしてはいけない、という、不安。
みーちゃんは、ゆーちゃんを片手でつかんで、そのまま勢いよく壁にぶつけた。みーちゃんがつかんでいたゆーちゃんの頭がおかしな音を立てた。
ふわふわなゆーちゃんに似合わない、何か固い物が壊れる音。
みーちゃんはポケットから、何か、小さな細長いものを取り出した。それがシャキン、と音を立てて、ナイフになった。
みーちゃんは、空いている手でナイフを握って、ゆーちゃんの頭にそれを突き刺した。
ゆーちゃん!
あーちゃんは悲鳴をあげたけど、声は出なかった。ただ、喉の奥からひゅうっと空気が押し出される音だけがした。
みーちゃんは一瞬だけあーちゃんの方を向いて、困ったように笑った。
それから、すぐにゆーちゃんに向き直ると、ゆーちゃんの頭をナイフで引き裂いた。可愛いゆーちゃんの顔が真っ二つに割れて、たくさんの真っ白な綿と、小さな銀色の固まりが出てきた。銀色の固まりは、変な形に歪んでいた。
みーちゃんはゆーちゃんの体をぽいっと投げ捨てて、銀色の固まりを摘み上げて、それを色々な角度から眺めていた。
みーちゃん、ひどい。ゆーちゃんに、何をするの。
あーちゃんはとっても悲しくなった。それに、みーちゃんがすごく怖かった。
涙がぽろぽろ溢れてきて、それに気がついたみーちゃんが、どうしてだか嬉しそうに笑った。
「泣いた顔も可愛いね、あーちゃん」
それから、みーちゃんはあーちゃんに背中を向けた。
あーちゃんには、もう、みーちゃんの顔は見えない。
みーちゃん、ひどい、ひどいよ。ゆーちゃんに、ひどいことしないでよ。ゆーちゃんが死んじゃうよ。みーちゃん、あーちゃんのことが嫌いなの?
ぽろぽろと涙をこぼしながら、あーちゃんはみーちゃんの背中をにらみつけた。
そして、いつの間にか、みーちゃんと向かい合っている人影に気がついた。
いつから、そこにいたのか。
みーちゃんは、あーちゃんたちがいる部屋の扉の方を向いていた。
あーちゃんが紅茶などを持ってきたときに、きちんと閉めたはずの扉が、開いていた。
そして、まーくんが、みーちゃんと向かい合って立っていた。
まーくん! まーくん、助けて!
あーちゃんは、まーくんにそう叫ぼうとしたけど、やっぱり声は出なかった。それに、とってもふわふわな気持ちが強くなって、どんどん眠くなっていった。目が開けていられず、瞼がゆっくり落ちていく。
あーちゃんは、まーくんとみーちゃんが、何か言い争っている声を聞いた。でも、何を言っているのかまでは、わからなかった。
まーくん、まーくん……。
あーちゃんは、本当なら、まーくんの名前を呼んで、飛びつきたかった。まーくんの、大きくて温かい体に抱きしめてほしかった。
でも、もう、無理だ。もう、あーちゃんはまーくんには会えない。次にあーちゃんが目を覚ましたとき、きっと、まーくんはあーちゃんの前から、永遠に消えていなくなっている。
どうしてだか、そんな予感がして、あーちゃんはまた一粒、涙をこぼした。悲しくて、苦しくて、悔しかった。
真っ暗になっていく意識の中で、あーちゃんは最後に、いつものようにまーくんに「あーちゃん」と名前を呼ばれて、そしてぎゅっと抱きしめてもらえなかったのが、ひどく寂しい、と思った。