天使が笑うとき(前編)
「わたし、おおきくなったら、かずゆきくんを『おむこさん』にする!」
色素の薄いふわふわの茶色の髪、真っ白な肌、ほんのりと桜色に染まった頬。
くるんと上向きにカールした長い睫に縁取られた、くりくりとした茶色い瞳を宝石みたいにきらきらと輝かせて、ぷっくりとした唇が上機嫌で紡いだ言葉に、彼女の母親は一瞬硬直した後、思いっきり顔を引き攣らせて俺を見た。
当時、久しぶりに人の優しさと温かさに触れた5歳児だった俺は、どうしておばさんはそんな変な顔をするんだろう、と不思議に思ったものだ。
「いいよね? かずゆきくん」
「うん、いいよ」
天使みたいに清らかで愛くるしい笑顔を向ける彼女に、俺は快く了承の言葉を返した。
実際、彼女は本当に天使のように愛らしかった。彼女みたいに可愛い子は、俺の通っていた幼稚園には1人もいなかったのだ。
俺は会った瞬間に彼女のことが好きになったし、5歳とはいえ、『おむこさん』とはすなわち『およめさん』の対であるということは、俺も理解していた。だから、彼女の言葉を笑顔で了承したわけである。
こうして俺はその日、彼女と初めて会った30分後に将来の約束をしたのだった。
その後、成長するにつれて、俺はあの時、何故彼女の母親が引き攣った顔で俺を見たのか、ということを嫌というほど理解することとなった。
俺がひと目で好きになった可愛い女の子は、天使は天使でも……なんていうか、愛を象徴するとか慈愛の化身だとか、そういうのじゃなくて、某宗教において終末のラッパを吹き鳴らして世界を強制的に終わらせる、そういう系統の天使に限りなく近かったのだ。
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「さぁ、他に何か言いたいことはあるか? ないんだね? ならもう黙りな!」
彼女はにっこりと天使のように微笑んで、『それ』をパンプスの爪先で蹴り上げた。
凄まじい音を立てて、『それ』は浮き上がって後方のごみ置き場に背中から突っ込んだ。
蹴り上げられた瞬間に「うっ」とか「げっ」とか呻いた『それ』は、大量のゴミの中に突っ込んだまま沈黙。気絶したのかもしれないが、それはある意味『それ』にとっては救いだろう。
何しろ今いる場所が場所なだけに、ゴミ置き場にあるごみは無分別。したがって『それ』の体には、生ゴミや元が何だったのか分からない液体、しれに妙に汚れた衣服の残骸などが降りかかっている。俺なら絶対に触りたくないな、あのゴミの山。
夕方、駅の裏にある繁華街。その奥まった場所にある、人通りの少ない裏通り。その場所で、俺の周りには、現在、地獄のような光景が作り出されていた。
つい今しがた、彼女が蹴り上げて沈黙させた『それ』の他に、『あれ』とか『これ』とか、もうこれマジで人間なの? 生きてんの? 状態の、『元・学校帰りの男子高校生に絡んできた、柄の悪いお兄さん達』が全部で8人、彼女によって散々嬲られて、各々、明らかに不自然な体勢で地面に転がっているのだ。……もう、「8人」じゃなくて「8体」って言ったほうが正確かもしれない……。
一方的な暴力ってのは、いまどきの映画やゲームの中では、ありふれたものだろう。
しかし、現実には、殴る方も殴られる方も、生きている人間なのだ。
だから目の前で行われる殴り合いというものは、思わず目を逸らしてしまいたくなるほど、おぞましくて怖ろしいものだ。
拳の衝突する音、骨が折れる音、殴られた相手の呻き声、胃の中のものを吐き出す音。目を閉じて音声を耳で拾うだけで、俺は逃げ出したくなるね。聞いているだけで、こっちまで痛くなってくる。
しかも、それが『明らかに喧嘩慣れした体格のいい男8人 VS 可憐で愛らしい少女1人』の戦いにおいて、全て、少女によってなされているとしたら。
想像してみてくれ。身長165センチ、ふわふわの背中までの茶色の髪をなびかせた、可憐で愛くるしい天使のような超絶美少女。
そんな少女が、にっこりと笑いながら自分より何倍も体格のいい相手を次々と蹴り上げ、ぶん投げては地に沈めていく様子を。
怖くないか? 怖いだろう? 俺は怖い!
だからとりあえず、俺は音声の聞こえない安全地帯まで逃げようとしたんだが、それは素早く彼女に襟首を掴まれて阻まれ、現在に至っている。
「ふん、軟弱な奴らだな。女のくせに生意気だ思い知らせてやる、などと言っておきながら結局口先だけじゃないか。和之、君もこんな塵芥のような奴らに簡単に絡まれるんじゃないよ。待ち合わせの時間になっても来ないと思って探したら、バカそうな男どもに繁華街に連れ込まれた挙句にカツアゲされてるなんて、ベタな三流ドラマみたいで面白すぎて爆笑してしまったじゃないか」
「何も好きで絡まれてたんじゃないっての……。お前もさ、もうちょっと手加減しろよ。絶対骨何本か折れてるだろ、こいつら」
「わざわざ人が助けてあげたっていうのに、そんな偉そうな口をきくの? 最初にわたしに手を出したのはこいつらなんだから、わたしに何をされたとしても自業自得ってものだよ」
鼻で笑う彼女に溜息をつきつつ、俺は転がっている8人の『物体』を見る。いや、まだ息はあるんだよなぁ……。鼻血とかのせいで、見た感じは血まみれで、かなりやばそうだけど……。
なんていうか、足とか腕とかが、全員、ありえん方向に曲がっていたり捻じれていたりしている。中には白目を剥いて、泡を吹いて気絶している奴もいるから、恐ろしい。
痛いよなぁ、そりゃ。
抵抗むなしく彼女に蹂躙される様子があんまり怖いんで、俺は途中から目を逸らしていたが、なんか凄い音してたしな……。
「それで? 和之、わたしに対して何か言うべきことはないの?」
「あー……、待ち合わせ、遅れてごめん。助けてくれてありがとう、明奈」
ちょっとやりすぎだけどな、という俺の付け足しは無視して、満足そうに彼女――俺の幼馴染にして現在交際12年目の天使のように可愛い恋人、木崎明奈は微笑んだ。
木崎明奈と俺、三条和之が初めて出会ったのは、俺と明奈が5歳のときだ。
なんでも、俺の父さんと明奈の両親が高校時代からの友人だったらしく、高校を卒業した後も、たまに連絡を取り合っていたそうだ。
当時、うちの非常に危険な家庭環境を知った明奈の両親の勧めにより、俺は5歳の時から小学校2年生の頃まで、短い間だったが、明奈の家で育てられたのだ。
あの頃、俺と父さんとの関係は物凄く危ういものだったから、明奈の両親は俺たち父子にとって、本当に救世主みたいな存在なのだ。
何しろ、ある日突然俺の母親――とはもう言いたくないし、認めたくもない女だ――が記入済みの離婚届だけを残して、その時幼稚園に行っていた1人息子である俺を置いて、他の男と駆け落ち同然に家を出て行ってしまったのだ。さらに信じられないことに、母親と逃げた男は父さんの6つ年上の兄で――俺の母親は、義理の兄にあたる人と浮気していたのだ。
寡黙だが穏やかで誠実な父さんは、明るくて活発な俺の母親を、それはもう愛していた。子ども心に、俺にもそれがよくわかるくらい、父さんは母親にベタ惚れだったのだ。後に明奈の両親に聞いたところ、父さんたちは、父さんの4年間の片思いと3年間の交際の末に、ようやく結婚できたらしい。
それなのに、俺の母親は父さんと結婚した直後あたりから、俺の伯父にあたる人と浮気していたのだ。
生みの親とはいえ、呆れるし、むかつく話である。まぁ、そんなことがあって、当時の俺と父さんの関係は、かなり危険な状態にあった。
母方の祖父母は、自分たちの娘が悪いのではなく、弟の嫁を誘惑した伯父と自分の妻の管理も出来ない甲斐性なしの父さんが悪いのだと主張して、知らんぷり。父方の祖父母は、いち会社員の父さんよりも、大学時代に起業して以来、そこそこの規模の会社を経営している伯父の方がお気に入りで、弟の嫁に手を出した大馬鹿野郎を責めず、父さんがしっかりしていないせいだと責めた。
そして、俺の存在が何よりも大きな問題だった。
父さんは俺を伯父と母親の間に出来た子どもだと思い、俺に対する接し方がわからなくなった。伯父と母親は、俺は父さんの子どもだから絶対に引き取らない、と言い張った。
こんな状況で、いたいけな5歳の俺が幸せに笑っていられたか?
答えは、否だ。俺は周囲の変化についていけなかったし、正確に状況を把握していたわけでもなかった。ただ、父さんや優しかった祖父母の俺を見る目が、悪い方向に変わってしまったことは、敏感に感じ取っていた。
そして、大好きだった母親と、よく家に遊びに来ていた伯父が俺のことを本当は嫌っていたのだ、ということにも気がついた。
そのせいで俺は情緒不安定になり、全く笑えなくなったばかりか、急に癇癪を起こして暴れ出すようになってしまった。
父さんも、それまでは母親に俺の世話を一任していたし、家事も不慣れなもんだから、家は自然と荒れていった。おまけに家庭に問題があっても働かなくちゃいけないから、仕事のストレスも溜まっていって、父さんは次第に追い詰められていった。さらに俺が急に癇癪を起こしては父さんを困らせ、疲れさせていき――まさしく八方塞がりな状況だったのだ。
この時、人づてに話を聞いた明奈の両親が父さんを訪ねてきて、救いの手を差し出してくれなかったら、一体どうなっていたことか。
父さんは、俺を自分の子ではないんじゃないかと疑いながら、決して俺に冷たい言葉を吐かなかったし、手をあげることもなかった。優しくて穏やかな人だから、母親と兄の裏切りについて、子どもの俺を責めることが出来なかったのだろう。
ただ、あのままの状況が続いていたら、絶対に俺と父さんの関係は完全に壊れていた、ということは確信をもって言える。父さんは優しくて穏やかな人だが、決して傷つかず、人を恨み憎むことがない、聖人君子ではないのだ。
もしかしたら、俺にとっては最悪の状況――それこそ父さんによる虐待死、なんて未来が待ち受けていたかもしれない。それくらい、当時の俺と父さんの関係はギリギリの均衡の上に成り立っていたのだ。
そういう意味で、明奈の両親には父子揃って本当に感謝しているのだ。
父さんが精神的に落ち着き、母親らとの諸々の問題が片付くまで、俺を引き取って、実の子と変わらない愛情を注いで育ててくれた。家事の不慣れな父さんのために、食事を差し入れたりもしてくれていたらしい。
離婚の際の財産分与や慰謝料の問題、父方と母方の祖父母と親戚連中との問題、そして俺が誰の子か、という問題についても、明奈の両親が腕のいい弁護士を手配してくれたり、父さんの相談に乗ってくれたりしたそうだ。
結局のところ、その後のDNA鑑定によって、俺は正真正銘父さんと愚かな母親との間の子どもであることが判明した。
俺と父さんは、浮気をした挙句に出て行った母親と伯父から取れるだけの慰謝料をふんだくり、財産分与も俺たちにとってがっつり有利な条件を飲ませ、以後絶対に俺の親権を母親らが主張しないこと、俺に私的に会わないことを誓わせた。おかげで母親の方の実家とも父親の方の実家とも完全に縁を切ったが、まぁ、俺と父さんにとっては一番満足できる結果に落ち着いたわけだ。
そして、明奈の家族と俺たち父子との付き合いは、現在でも続いている。
俺と明奈が初めて会ったその日から将来の約束をして、以来恋人になったことも理由のひとつだが、父さんが離婚問題などのごたごたが片付いた際にずっと勤めていた会社を辞めて、住んでいた家も引き払って木崎家の近くに引っ越してきて、明奈の父親と同じ職場に再就職したことも理由のひとつだ。
ありがたいことに、俺の父さんも明奈の両親も、俺と明奈の交際を快く認めてくれている。ただし、明奈の母親――梓さんは時々、かなり申し訳なさそうな、同情と哀れみのこもった顔で俺を見ているが。
明奈は、かなり可愛い。
容姿の好みは人それぞれだが、明奈のことを「可愛くて可憐で天使みたいだ!」と俺が言っても、反論する人間は絶対にいないだろうと、俺は確信を持って言える。
身長は165センチと女子にしては少しだけ高めかもしれないが、父親に似て色素の薄い髪と瞳に、日本人離れした、目鼻立ちのはっきりとした愛らしい顔立ちといい、スラリとしていながら出るとこ出て締まるところ締まっているスタイルといい、もう本当に、見た目は最高だと思う。
…………ただ、その最高級の外見に似合って、頭脳もずば抜けて高い上に、身体能力も「え? 実は背中にチャックついてて中に宇宙人でも入ってんじゃねぇの?」と言いたくなるような素晴らしさ。
性格は、その天使のような外見を裏切って、さばさばとした男前かつ好戦的で、おまけに血も涙もないサディスト気質。精神的にも容赦ないが、つい先ほど俺に絡んできた不良を徹底的に嬲ったように、肉体的にも容赦がない。明らかに性別を間違って生まれてきたんじゃないのか、と思いたくなる精神的・肉体的強さを持っているのだ。
そして俺にとって困ったことに、凡人である俺には思いもつかない行動を起こしては、俺を巻き込んで暴れるのが大好きなのだ。
まぁ、今回のように、道を歩いているだけで、何故かよく不良などに絡まれる俺を爆笑しつつ助けることも多い。……毎回、かなりやり過ぎてはいるんだけど。
硝子細工のように繊細な心臓と一般常識をもつ俺としては、特に暴力沙汰には、あんまり巻き込んで欲しくないのだが、昔から明奈は聞きやしない。……はぁ。
「……一応、救急車呼んどくか?」
ピクリとも動かない『物体』たちを前に、俺は明奈に常識的な提案をしてみた。
「別に放っておいても誰も困らないと思うけど、まぁいいよ。適当に呼んでおこうか」
あっさり言って、明奈は暴れる前に俺に預けていた鞄の中から真っ黒い携帯電話を取り出して、救急車を8台要請した。
この携帯電話は明奈が仕事で使っているもので、特定の相手以外の場所に電話をかけると、そこからは公衆電話からかかってきた履歴になる、という何らかの犯罪にひっかかってそうな代物だ。だがまぁ、下手に事情を聞かれても困るので、こういう場合には便利なアイテムだ。今回も、明らかに過剰防衛……の主張も厳しいくらいぼっこぼこにしてるもんなぁ。
「よし、余計な時間をくってしまったね。行くよ、和之」
「はいよ」
通話を終えた明奈は、俺から鞄を取り戻すと、携帯電話をそこに入れてから歩き出した。もう、自分が叩きのめした相手を振り返ろうともしない。
俺は1度、哀れな姿に成り果てた『物体』――否、柄の悪いお兄さんたちを振り返った。
凡庸で冴えなくて、長いものには巻かれろ抵抗するな面倒くさい主義の俺なんぞに因縁をつけたから駄目だったんだよ。おまけに、俺の財布の中身を奪って、さらに暇つぶしのためにリンチにしようとするから。そこをうっかり、破壊天使たる俺の可愛い恋人に見つかってしまったせいで、彼らは明奈によって、ぼっこぼこのぎっちょぎちょのぐっちゃぐちゃにされてしまった。
お兄さんたちよ、怪我が治ったらこれに懲りて、どうかまっとうに生きてくれ。
まぁ、こういうのって普通、彼女が襲われてるところを彼氏が颯爽と現れて助けるよなー、俺って自分の手を汚さずに彼女にやらしてるよなー、などと思わなくもないが、明奈が楽しそうに男たちを殴り飛ばしていたので、いいとしよう。うん。
大体、俺が言ったって明奈がやめるわけないしな。
それに、彼女の楽しみの邪魔をしないのも、彼氏の優しさってもんだろ? ……多分。
男女の立場が……逆……?いえ、そこに愛があれば関係ありません。
ちなみに、「およめさんになる」ではなく、「おむこさんにする」と言うあたりに明奈の性格がよく表れています。
※9月13日:本文、割と直しました。勢いだけで書いてたので、足りない部分を付け足してみたり。一人称は難しいですね。