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Wrist

2人のとある夕方

作者: 洋巳 明



 ある日の夕方、旭の部屋に3回のノックが響いた。永坂の呼び出しである。

 外に出ない日に、彼が何をしているのかはよく知らなかったが、たぶん仕事だろう。起きてから、共に朝食を食べて、支度をしたら夕方まで部屋から出てこない。

 旭の方はというと、こういう日は読書をしていた。彼のように、家で行える仕事はそう多くないので、彼女は基本的に暇なのだ。初めの3日くらいは、状況整理と環境への順応に時間を費やしていたが、慣れてくると本格的に余り始めた時間に悩まされるようになった旭は、永坂に相談した。

『本でよければ腐るほどある。』

 そもそも初日に呆気に取られたほど、旭が使っている部屋には、たくさんの本がある。確かにいい暇つぶしにはなりそうで、たまに永坂に付き合ってもらって本を選ぶようになっていた。

 会話が増えてきた近頃は、本の感想を伝えるようにもなった。彼の表情は相変わらず読みにくいが、その話は楽しそうに聞いているようで、選ぶときに彼自身の感想も伝えてくれたりする。

 旭は読んでいた本に栞を挟むと、同じ回数のノックを返した。

「買い物に行くぞ。」

 これも最近ではいつもの流れである。永坂の家は便利なところにあり、徒歩圏内で買い物を済ませることができるのだ。

 旭は元気よく返事をして、持っていた上着を羽織ると、彼とともに家を出た。


「今日は何が食べたい?」

 道中、永坂に訊かれて、旭は少し悩んでから答えた。

「じゃあ、ナオさんの好きなもので。」

 その答えに彼は眉間に皺を寄せる。

(あ、悩ませてしまった。)

 旭は少し申し訳なく思いつつ、ちょうどいいタイミングなので、訊いてみる。

「そういえば、そもそも私、あなたの好きな食べ物聞いたことないですね。何が好きですか?」

 今まで他愛無い会話すらしてこなかったので、そういう些細なことも知らない。いい機会なので知っておきたかった。

「…漠然と訊かれると難しいな。」

 軽く唸った後、ため息に混ぜて投げ出された言葉に、旭は微笑む。

「前に、私に対して好き嫌いがないって言いましたけど、あなたも何でも食べますよね。」

 永坂は頷いた。

「俺は、祖母に育てられたようなものなんだが、彼女は料理が上手でな。何でも美味しかったんだ。特別好きだったのは…かぼちゃスープ、かな。」

 かぼちゃスープ。なんとなくこの背の高い、強面の男から出てくるには、可愛い単語に聞こえる。つい、旭は繰り返してしまった。

「かぼちゃ、スープ。」

 他人の口から聞いたその響きに、自分でもおかしくなったのか、永坂は顔を顰める。

「…忘れろ。」

 そう言って彼は目を逸らした。旭は慌てて弁解する。

「いやいやいや、いいと思います。非常に可愛いです。」

 旭の言葉に、永坂は大きなため息をついた。

「大の男捕まえて、可愛いはやめてくれ。」

 照れているというよりは、本気で嫌がっている響き。旭はすみません!と素早く謝って、話題を変えた。

「ナオさんは汁物よく作りますよね。さっきのも含めて、それが好きなものなんじゃないですか?」

 永坂は確かに、と頷く。一理あるらしい。手軽に作れるというのもあるのだろうが、永坂は基本的に汁物を欠かさない。初日に作ってくれたのも水餃子のスープだった。

「美味しくて私も好きです。というか、いつも作っていただいてありがとうございます。」

 深々と頭を下げると、今更だな、と言われるが、その横顔は少し嬉しそうである。

「旭は?」

 突然訊き返されて、旭は間抜けな顔をしてしまった。彼は質問にはちゃんと答えるが、こちらにこういう雑談を振ってきたのは、初めてではないだろうか。

 旭が、そのままはてなマークを浮かべて、きょとんとしていると、答えたくないならいいというように、永坂はまた視線を前に戻した。

「ち、違います。ちょっとびっくりしただけです。私はえーと…プリンが好きです。兄の作るものが特に。うちの看板メニューでもあるので!」

 自分の店の宣伝も含めると、永坂が少し笑う。旭の兄・瑞樹はもともと洋菓子店で修行をしていたことがあり、『7並べ』のメニューで特に人気なのはガトーショコラとプリンだった。

「ちなみに、持ち帰りもできますよ。」

 そう言って、隣の彼を見上げると、彼は頷いた。

「そうか。いつか買いに行く。」

 好意的な返事である。旭はおや、と首を傾げた。

「ナオさんは甘いもの好きなんですか?」

 その質問に永坂は少し悩んでから口を開く。

「普通に好きだな。スイーツバイキングとか、そういうのはさすがに苦しい。」

 コーヒー1杯と釣り合う程度の量なら、自分1人でも食べることがあるらしい。旭にとっては少し意外だった。永坂には、あまり甘いものを食べるイメージがない。

「あとは、職場に持って行くと部下たちが喜ぶからな。」

 旭はそれを聞いて、納得して頷く。永坂は面倒見がいい。無表情で、無愛想に見えるのに、気遣い屋のマメな人である。旭の中に積み上がる彼の情報に、部下を可愛がっている、も追加された。

 そんなことを話しているうちに、いつものスーパーの前に着いていた。


「そろそろ、寒くなりますね。私、コーヒーには砂糖もミルクも入れる派です。」

 スーパーを出ると、もう外は暗かった。忍び寄る冬の気配に、旭は隣の永坂に話題を振る。

「ナオさんは、コーヒーと紅茶、どっちが好きですか?」

 永坂の家には、ティーバックもインスタントコーヒーの瓶も置いてある。たぶんどちらも飲むのだろうとは思っていたが、食後には旭がよく飲むコーヒーの方を、一緒に楽しんでいるため、永坂の好みは知らなかった。

「あまりこだわりはないな。どっちも美味しい。面倒で、ミルクも砂糖も入れないことが多い。」

 人に合わせることが多いらしい。確かにそっちの方が彼らしい、と旭は頷いた。

「ただ、なんとなく、温かいココアは魅力的だよな。」

 あったかいココア。本日2度目の衝撃に、旭はまた永坂をぽかんと見上げる。

「あったかいココア。」

 デジャヴ。永坂はまたやってしまった、と顔を顰める。

「…忘れろ。」

 目を逸らす彼の姿を見て、旭はくすくすと笑い始めた。

「いや、本当に全然いいと思います。ココア美味しいですから。」

 私も好きですよ、なんて揶揄うように言うと、彼は不満そうに、むっつりと黙り込んでしまった。

「ふふっ、今日1日で、ナオさんが案外可愛い人ってことがわかりましたね。」

 永坂は大きなため息をついた。彼の持つ買い物袋の中で、四等分のかぼちゃがごろごろと揺れた。




 

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