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人生のハイライト

作者: 小林恵都

今日は私の人生のハイライト。

愛する彼との結婚式を終えて自宅に帰ってきた私は、我が身に起こった奇跡がもたらした幸福をかみしめながら、これまでの人生に起きた出来事をぼんやりと思い返していた。

思えばろくでもないことばかりの人生だったが、幸せを手にした今となっては全てが愛おしい。

本当にろくでもないことばかりだったが、それらが1つでも欠ければ幸せな今日は訪れなかったかも知れないのだから。


子供の頃の私はいじめられっ子だった。

あの子は全然人と話そうとしなくて気持ち悪い。

周囲の子供、あるいは大人にもそう言われていた。

それも無理のないことかもしれない。

集団の中で生活をするうえで、人が備えていて然るべき"会話をする"という能力が、私には絶望的に欠けていたのだ。

当時の私は誰に話しかけられても曖昧にうなづいたり、ぎこちない笑みを浮かべることしか出来なかった。

別に誰とも話をしたくないと思っていたわけでも、何かを恐れていたわけでもない。ただ何故か、誰かに話しかけられるといつも、何と答えて良いか全くわからなくなってしまい、途方に暮れていただけだった。

簡単な問いかけにも、あるいは問いかけにすらならない雑談に対しても何を言っていいかわからず、その度に私はいつも同じことを考えていた。

私は一体どうすればいいの、と。


そうして私が抱えていた人としての致命的な欠陥が引き起こした出来事の中でも、特に私の心に焼き付いて一向に消すことの出来ないものがある。

あれは私が中学校に通い、教室で授業を受けていた時の事だ。先生が問題を読み上げた後、答えられる者がいるか生徒たちに尋ねた。その時は結局誰も手を上げたがらず、教室は少しの間静寂に包まれた。そして先生が少し困った顔になる頃、誰かが私の方を指さして、ここは私に答えさせるべきだと言った。


その誰かはこれまでに私の声を聴いたことが無いと言い、きっと教室に居る大多数の者が自分と同じはずだと言った。

その子の言い分では、聞くばかりで自ら話す事をしないのは公平ではないから、この機会に、ある意味でのチャンスを私に与えるべきだということだった。


その子の言った"公平"や"チャンス"とは一体何だったのか、今でも私にはわからない。


それから先生はこちらを向き、私に答えられるかどうかを尋ねて来た。

私はいつものごとく一体どうして良いかわからず、先生の方に視線を向けつつ、その背後にある黒板を見つめたまま凍り付いていた。

しばらくそうしていると教室がざわつき始め、そして先程とは違う誰かが手を叩いて拍子をとりながら私の名前を大きな声で口にした。


何度も、何度も。


その声に呼応するように、教室にいた生徒たちが一人、また一人と手を叩き、私の名前を大きな声で繰り返し始めた。

そのざわめきはさざ波のように広がり、段々と激しさを増していくと、遂には教室全体を巻き込むうねりとなった。

その圧倒的な渦の最中に、私はあっという間に飲み込まれてしまったのである。


それはその場で私の名前を呼んだ全ての者達、或いはその他の無関係な人々から見ても他愛もない出来事だったのかもしれないが、私にとっては違った。


その時に私が感じたことを分かってくれる者は果たして居るだろうか。


私の世界は瞬く間に閉じられ、迫りくる渦の中、その教室だけが私の感じられる世界の全てになった。

見えない何者かが私の心臓を握りつぶそうとするのを感じ、指先は感覚が無くなるほど冷え切り、それなのに顔面だけが脈を打って熱かった。

しかし溢れて止まない涙はそれにも増して何より、熱かった。


どれほどその状況は続いていたのだろうか。そういえばその後どのようにしてその場を過ごしたか覚えていない。もしかしたら私の心に焼き付いていたのは出来事の記憶ではなく、その時の感情なのかもしれない。


その一件があってからだったか、それともその前からだったかは忘れてしまったが、私は極度の引っ込み思案となった。

誰とも深く関わることはなく、友達と呼べる者もいなかった。

いつも影から私を蔑む囁き声が聞こえ、私自身も私を蔑んで過ごしていた。

それでも何とかなったのは、勉強はそこそこに出来ていたからだ。

それは紛れもなくそこそこで、自慢が出来るほどではなかったが、少なくともその点については自分を卑下しなくて済む程度ではあった。

そのおかげで私は他人に対する劣等感を和らげる事が出来ていたのである。

私はそのまま青春などには脇目も振らず、孤独から逃れるために人を避けて過ごした。そうしてそこそこの成績を維持し、そこそこの大学を出て、そこそこの企業に何とか就職したのだった。


しかしそこで変化が起きる。

企業に就職するということは、集団の一員として仕事をこなす能力が求められるという事だ。仕事の上ではそこそこに勉強が出来たなどという過去は役に立たない。何よりもチームワークが大切なのだ。私が自身に見出した価値など結局は大した値打ちなど無かった。そこで最も求められる要素は、私に最も欠けているものだったのだから。

私がひたすらに縋ってきたひどくか細い1本の蜘蛛の糸、それがぷっつりと切れてしまったのである。


多くの人間が連携して成果を出そうとする仕事の中に、引き継ぎや伝達を含めた基本的な報告、連絡、相談の全くできない人間が入り込んだ時、それがどれほど人の目を引き疎まれるものなのか、これまでに社会に出て働いた経験のある者ならば想像に難くないと思う。

欠陥だらけの私に対する上司からの叱責は日に日に厳しさを増し、同僚たちは私に話し掛けようとしなくなった。そして周囲からうんざりしたような白い目で見られるようになり、そうなる頃にはもう職場に私の居場所などとっくになくなっていた。


不安と焦燥、それに罪悪感が募っていく中、ある頃から私は酷い頭痛に悩まされるようになっていた。

責め立てられるような痛みが繰り返す度、私の心はより一層弱って行くのだった。

そして眠れない夜が段々と増えていき、朝に職場へ向かう際には強い吐き気に襲われるようになった。

しかし意外と言うべきか案の定と言うべきか、休日には決まって症状が軽くなる事に気付いた時は、とにかく空虚な気持ちになるのだった。


そうこうする内に私は職場へ行く事もままならなくなり、自宅にこもって過ごす事が多くなった。

そうなって初めて、私は一緒に暮らしていた母に伴われて病院へ向かったのだった。


重度の鬱病。

そう診断された時、どこかほっとしたのを覚えている。

それからどうしたかと言えば、私は母の勧めもあって当時の職場を辞め、別の職場を探す事にしたのだった。勿論、治療を続けながら。


結論から言うとその後は何も上手く行かなかった。

私はいくつかの職場を転々としたが、結局どこに行っても邪魔者にしかなれなかった。

体調も悪化するばかりで、薬の数は瞬く間に増えて行き、様々な症状が私を苦しめた。

しかし何より私を苦しめたのは、他ならぬ母と過ごす時間だった。

治療を始めた当初、母は時折悲しそうな顔をするだけで、私の病気についてはあまり話題に挙げないようにしていた。

だがそれも本当に始めの内だけで、私の体調が一向に良くならないまま時間が経つにつれ、母は私の病状に対して懺悔の様な言葉を口にするようになって行ったのだった。


もっと早く気付いてあげられれば。

ちゃんと普通の人になれるよう育ててあげられれば。


自分ではない他の誰かが母親になってさえいれば。


そんな母に対し、私は何も言う事が出来なかった。

私は結局"普通"などではなかったから、何かを言う事など出来ようはずもなかった。

母の懺悔を聞く度に、私は自分が世界にどれほど望まれない存在であるかを思い知らされた。


私は自宅でも母を避けて生活する様になった。

自室に閉じ籠り、母が出来るだけ私の存在を忘れていてくれるよう息を潜めて過ごした。

それからは母も積極的に私に関わろうとはしなかったし、ましてや私の部屋に入ってくる事など決してなかった。

それでも母は時折私の部屋の前にやって来ては、物言わぬ部屋の扉に向かって延々と後悔と贖罪の念を吐露し続けるのだった。


私の世界は絶望に満ちていた。

時を重ねれば重ねるほど、その色は濃くなっていった。

それはまるで暗い海に沈んで行くような日々だった。


しかし運命とは本当に気紛れだ。

耳を塞がれたようなくぐもった静けさの中、自分が生きているのか死んでいるのかも分からなくなる程の暗闇に包まれ、呼吸すらままならずにいた私にさえ、突如として幸せが訪れたのだから。


もっともそれと初めて出会った時は、それが幸せだと気づく事も無かった。

そんなものに出会った事はこれまで一度も無かったから。


その日も私は自室に閉じ籠り、せめて何も起きないように、とりわけ母が私を思い出したりしないようにと祈りながら過ごしていた。

だから静かな家に呼び鈴の音が響いた時、私は思わず眉を潜めたのだった。


母が廊下を歩いて行き、玄関の扉を開く音がして、

それから母は訪問者としばらく話をしていた。

少し経ってから話が止み、玄関の扉が閉まったかと思うと、今度は誰かが私の部屋のある家の2階へと上がって来る音がした。それも2人分。


2人は私の部屋の前で立ち止まると、まず母が扉に向かって声を掛けた。それによると以前私と同じ職場で働いていた男性が訪ねて来たらしい。

母は更に、良ければ部屋へ入ったらどうかと彼に促した。

私は一気に緊張し彼が入って来たらどうしようかと怯えたが、彼が扉の前で結構だと言うのを聞いてほっとした。

母がその場を去ると、彼は扉に背中を付けて座り、ぽつぽつと語り始めた。


私とはほんの少ししか一緒に働いていなかったが、突然仕事を辞めてしまって以後ずっと気になっていた事。

過去の社内名簿から住所を調べ、今日私の家を訪ねて来た事。

薄々は感づいていたが、玄関で母と話して私の状態を知り、何とか力になりたいと思った事。


それらの話を聞いた時、母はどうしてこんな男を家に上げてしまったのかと、当時の私はそう思った。

私が彼の居る職場を辞めたのはかなり以前の事だったし、そこで働いていた時も何かにつけて私に話しかけて来る彼に対して、人と出来るだけ関わりたくない私は迷惑だとすら感じていた。

何よりも過去の名簿から住所を割り出して訪ねてくるなんて非常識としか思えなかった。

しかし、当時を思えば母を責めることも出来ないのかもしれない。

最早どうにも手の付けようのない現状が目の前にあり、何かに縋りたいと思っていたのは私だけではなかっただろうから。


彼はそれから頻繁に我が家を訪れては私の部屋の前に座り、他愛もない話をしていくようになった。

正直言って初めはかなりうっとおしかったし、彼が私の部屋に入ってこようとしまいかいつも不安だった。

だが一度習慣となると不思議なもので、私は段々と彼の来ない日に心細さを感じるようになり、そしていつからか彼が来るのを楽しみにするようになった。

私に普通の話をしてくれる人。聞いているだけで外の世界に触れているような気持ちになれる時間。その瞬間がその時の私にとって心地良いものになっていったのだった。


それと同時に疑問も大きくなっていった。

なぜ彼は私の元へ頻繁に足を運んでくれる気になったのだろうか。

私などと関わっても彼に得になることなどないはずなのに。

そして遂に、私はその事を彼に尋ねずにはいられなくなっていった。


彼が来るようになってしばらく経ったある日の事。

彼がいつものように話を終えて立ち上がり、部屋の扉に向かってまた来るよと声を掛けたその時、私は意を決して扉越しに彼に尋ねた。


どうしてあなたはここへ来るの。


それからしばらく間を置いて彼が応えた。


私に見える世界を自分も知りたいのだと。


それを聞いて私は思った。

彼は私の世界など知ってどうしようというのだろうか。

私の世界がどれほど卑屈で歪んでいるのかも知らず、ただ好奇心から見世物小屋をのぞくような気持であったのか。

そして胸の内から抑えきれないほどの怒りが湧き上がり、気づけば私は扉を開け放って彼と向かい合っていた。


そんなに知りたいなら教えてやる。


私はこれまでの人生の中で感じて来た絶望の全てを、彼に向かって猛然と吐き捨てたのである。


話し終えた後、私はしばらく茫然としていたが、不意に彼の穏やかな表情が目に入り、急に後悔が迫ってくるのを感じた。

それから私は黙ったまま部屋の扉を閉じ、自分の殻の内側へ逃げ込んだのだった。

彼は改めて部屋の扉にまた来るよと言って帰って行った。


その日の夜、私は全く眠らずに過ごした。

彼の穏やかな表情が頭から離れなかったから。

眠れないというより、眠りたくなかった。


この一件以後、私は彼と顔を合わせて話をするようになった。

とは言ったものの、急に私にも会話が出来るようになったというわけではない。

そこには私と彼の間だけの少し奇妙で、とても特別な繋がり方があった。


私が彼に向かって話をするようになってしばらく、彼は私の話に対して気になったところでよく質問をした。

しかしそれに返答しようとすると、私が膨大な労力を使うことになると早々に気付いてくれ、それからは質問を避けてくれるようになった。

そしてこれは単純に出来なかったからだが、彼が話をしている間は私も質問したりしなかった。

つまり私達はお互いに一方的な話を繰り返していたのだ。


そして私は彼が話している間、ずっと彼の表情を見つめていた。

というよりも、身振り手振りを交えながら、穏やかな表情で私に語り掛けてくれる彼に見惚れていたのだ。


やがて私は彼と話をする度に幸せを感じるようになり、それからは体調も驚くほど良くなっていった。

時折彼を私の世界に付き合わせていることに後ろめたさを感じる時に必要になる以外、薬を飲む量もみるみる減っていった。


白状するが、この時には既に私は彼にぞっこんだった。

彼と一緒にいるとすごく嬉しくて、それでいて泣き出したいような気持になった。


だから彼に恋人になって欲しいと言われた時、私は激しく狼狽えた。

確かに私は彼のことが好きで、彼とずっと一緒にいられたらと思わない日はなかった。しかしそれ以上に、私などが恋人になればいずれは彼も重荷に感じ、その結果私は彼にも疎まれる存在になってしまうのではないかと恐れていた。

私は葛藤し、自分に誇れるものがないにも関わらず彼と一緒に居たいという願いを正当化できる根拠をひたすらに求めた。

そしてその悶々とした思いはただ一言の疑問となって私の口からこぼれた。


どうして私なの?


その苦渋の問い掛けに対して、彼は次のように語ってくれた。


人は普段、他人とは他人であるという事を頭では理解しているが、心の奥底では感じ取るのを避けている。

そうすることで孤独を遠ざけ、皆と均一の存在であることで安心感を得ている。

僕も特に意識することなく日常を過ごしているが、ふと鏡で自分の姿を見た時、自分自身でさえ他人のように感じて寂しくなることがある。

自分は今までこの孤独を共有できる人を探していたが、君と出会って、君とならその望みが叶うと確信出来た。

君はいつも僕が感じるよりもずっと他人というものを感じてきたのだろう。

そのせいで君は、僕には想像も出来ないほど苦しんで来たものと思う。

しかし君だけが持つその感覚はとても尊いものだと僕は信じている。


だから僕にも分けてほしい。

君の孤独を。

そしてどうか君に受け取って欲しい。

僕の孤独を。


そうして分かち合ううちにいつか、全てが優しさに変わっていくように。


彼が話し終えた時、遂に私にも答えが分かった。


私は一体どうしたらいいのか。


それはとても簡単な事だった。彼と一緒に居さえすればいいのだ。

今なら自信を持って言える。

私は彼と出会うために生まれてきたのだと。


それから私は、まるで今初めてこの世界に生まれてきたかのように泣いた。

彼は私をそっと抱きしめてくれた。

その時の私の世界は全てが柔らかく、暖かかった。


この件以降彼は私の世界に必要不可欠の存在になった。

全てだったと言っても間違いないと思う。

だからさらにしばらくの時を経て彼にプロポーズされた時、私は何の迷いもなくあっさりと受けれたのだった。

彼に選ばれる存在であること。それが私の人生の意味だったし、それが叶おうとするときに余計なことを考える必要などなかったから。


さて、ここまで長々と過去を振り返ってきたが、今ではすべてを一瞬の内に垣間見えた走馬灯のように感じる。

そして今、私は自分の手の中にある幸せに永遠を感じている。


今日の結婚式は全てが素晴らしかった。

私は他人を拒絶して生きてきた期間が長かったから集まったのはよく知らない人たちばかりだったが、それでもみんなが私たちを祝ってくれた。

母ももちろん懺悔など口にしない。満面の笑みに時折涙を浮かべつつ喜んでくれた。

彼らの拍手と歓声が響く中、私は純白のドレスに身を包み、愛する彼の温かな手に引かれて陽の光の輝く道を歩いた。

こんな幸せがあるなんて思いもしなかった。

嬉しいとか楽しいとか、そんな言葉では言い表せない。

世界に自分の居場所があり、それがなくなる事は決してないのだと信じられる安らぎが、こんなにどうしようもない程幸せだとは。

そして私は初めて、世界の全てに祝福されて生まれてきたのだと思えた。


はあ。


自宅の部屋に戻ってからも、未だ覚めやらぬ余韻で私は満たされている。


さあ、全てが満たされている内に締めくくりをするとしよう。

今日という日が、終わる前に。


私は部屋の中央に置いた椅子の上に立ち上がり、兼ねてより天井に吊るして用意してあった縄の輪に首を通した。


今日だけは世界が私を祝福してくれる日。

大好きな彼と確かな愛を誓い合った日。

未来が希望の輝きに満ち、永遠に幸せでいられると信じられる日。

今日が私の、人生のハイライト。


私は勢いよく椅子を蹴った。
























『ごめんなさい』

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