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ツンデレ男子は需要がない

作者: 蜜柑 猫

昔々、といってもそれほど昔ではなく、とある少年が幼い頃の話。

少年は、真面目で要領が良く秀才であった。

それが故に、母と父からはいつもいつも褒められていた。

小学校へ上がると同時に、塾へ通うようになり、学力を着々と身につけて行き、遂には高校数学に取り掛かっている程であった。

少年は、真面目で誠実だった。

故に皆の言葉を真に受けては、折れてそれでも懸命に生きていた。

しかし、中学に上がると、その身につけられた、秀才の所為で彼は毎日毎日いじめられる日々を送っていた。日に日にそれはエスカレートして、それまであった少年の心の余裕は段々と蝕んで、遂には、どうしてもいいか分からず、ただ、焦るばかり。

そして迷った挙句、非行に走ったのだったーー


ーーそして彼が高校に上がる頃には


「よお……俺にも一本くれや……」


フードを被って、同じ不良仲間に煙草を強請る変わり果てた少年の姿があった。言うまでもなくその少年というのが、いじめられていたその少年という訳なのだが、どういう道を踏み外したのか、こういった事になっていた……。


だいたい何故、虐められたのに逆にこんな事になってしまったのか……自分にも分からなかった。

普通、虐められたのなら引きこもって対面障害になり2chでただ煽ったり中傷的な書き込みしかしていないのではないのだろうか?

そんな中、何故自分が……。

ここまで追い込まれた自分が、こんな虐める側に回っているのだろうか?

まあ、いくら考えても自分では分からないが、自暴自棄になりコンビニで酒とタバコを買ったのがこんな事になった原因だろう。

今日も人気の無い古いゲーセンで暇を潰している訳だが……。


山崎正道は小学生までは完璧な人間だった。他よりも上を好みまた目指している一人だった。

しかし、中学生に上がると虐められ不良になり、高校に上がった今ではそれも慣れてこうやって平日の真昼間でも、煙草を吸って、古いゲーセンの中を徘徊している。

所持金3万25円、天然パーマに巻き上げられた黒髪、左右の耳にピアスの穴、そして4Lの黒のフード付きパーカーと灰色のスウェットを着用した身長170センチの長身、運動神経は元から良く偶に夜中にバスケをする……。


「クソが……」


吐き捨てたそれは、いつものようにやり込んでいる、格ゲーの筐体だった。

16ビットのファミコン音がチカチカと鳴るその現代には不自然極まりないほどの大きな箱からは『You lose』と表示されて……。つまり負けた側の正道の顔には不機嫌そのものが顔から浮き出ていた。

偶々見かけた、とある暴走族に居る不良仲の奴に煙草を一本強請ったが貰えず、渋々、もう何重とプレイした格ゲーを今日も一人でプレイするだけだった。もう今日は1000円下ろしたというのにもう財布の小銭入れにはもう25円しか無い。この格ゲーは一回200円と、安いから気に入って居るのに……。

煙草や酒は高いからあまり買えなかった。ので、ふとボタンの横にある吸い殻に目を向けた幸いまだ充分に芯が残っていたので乗り気では無いがそれに火をつけて咥える。まあ……別に火に炙られるから間接的な問題は多分大丈夫だろう。

正道は全てにおいて潔白では無かった。

ようやっと『You lose』の表示が消え、プレイ前のデモ映像に切り替わる。

残り少ない芯の煙草を吸いながら連絡用のガラケーに目を通すと5件のメールが来ていたが開いてみれば妹からの心配の連絡だった……。

一通り読み終えると、咥えていた煙草を灰皿に擦り付けて、白い煙を吐く。


『今日、学校の保険で煙草についての授業を受けたんだけどね?凄い身体に悪いんだって。吸うのはお兄ちゃんの自由だけど、一応私から注意喚起として辞めて欲しいです。あと、今日の晩御飯は肉じゃがらしいよ〜』


メールの最後に綴られていたその一文が、ふと心の中で再度響く。


「煙草やめようかなー」


なんてふと呟く不良の背後から「はっはっは」と懐かしい声が聞こえた。


「誰かと思えばまっちゃんじゃないのよお、おばちゃん待ってたわあ」

「……調子はどうなんだよババア」

「あらやだわあ、そう言ってくれるのはまっちゃんぐらいなんだもん嬉しくて涙が出ちゃう」


そう言って弾む声で話しかけるのは、まだ若い一人の女性であり、この古いゲーセンの店長でもあった……。中学の頃は毎日、どんな時でも入口のカウンターに座って居るが、高校に入った時から、癌の手術により店を度々外して、つい半年まで病院に入院していたのだ。それまで空いた穴は、自分が店番をして埋めていた。おばちゃんと呼んでるのは、つい先日に甥が産まれたからだそう……。何処か心の居心地が悪かった。

彼女は、自分を本当の子供かのように接してくれた……。というのも、小学生の頃初めてゲームに触れたのはここが切っ掛けだったのだ。だから、今でもこうやって来ている。不登校への言い訳だが、要は人助けをしているのだ。飲酒も喫煙も本当はダメだが、何時も優しく話を振ってくれるのが、唯一の心の救いである。


「学校にはちゃんと行けてる……?」

「……」


正道は、俯いた。いつまでも子供でいる自分が酷く嫌になるのと、学校へ行かなければならないプレッシャーと、行きたくないという我儘の3つの感情に軽く吐き気を覚えた。おかしい。まだ今月に入って一度も飲酒はしていないのだが……。

そんな、暗い表情をする彼の顔を見て彼女は「まだ……無理そうかい?」と優しく微笑む。それだけが、どうすることもできない正道には救いであった。


 気付けば外は真っ暗になって、備え付けられた3時間30分遅れの時計は、21:12を示していので、正道はひんやりした夜道を歩いて帰る……。自転車は車が突っ込んで来て使い物にならなくなったから学校へ行くにも行く気になれない。そもそも、早朝の電車を使う気にはなれない……。満員電車もそうだが、何よりも「仕事に行く人」を見ると自分がもうあんな風にはなれないということに激しい自己嫌悪が自身の中で巡るのだ。だから、学校には行かない。いや、これもまた不登校への言い訳だ。本当に自分は、どうしようもない人間だと、自分が自分で悲しくなるだけだった。


 15分ほど夜道を歩けば家に到着するので、ゲーセンと自宅とではあまり遠くない。しかし当然徒歩よりも自転車の方が断然良いのは言うまでもないので、早めに自転車を購入したくてたまらない一心である。

 玄関には、たちまち肉じゃがの甘い香りが漂うのでただ一人、廊下で小さな笑みを浮かべたが、家族の前に立つと途端に何時ものような、怒り顔になる。別に怒っている訳ではない。あれから家族とはあまり良い関係ではなくなってしまっている。まず父母とは話をしない、何を聞かれても、ただ、だんまりとおかずに集中するだけであれから言葉を交わしていないと言えば噓にはなるのだが、しかし、両手で数えるほど会話は愚か、言葉すら交わしていない。しかし、妹に対しては返事だけになるが、毎回のように返している。


 山崎正道には、恐らく本人ただ一人しか知らない裏の顔があった。それこそ、れっきとしたシスコンという、非行に走る不良には想像も付かないであろう性癖の持ち主であった。しかも、山崎正道はそれだけではなく萌え系アニオタでありまた、ロリコンでもあった……。


 今日も妹は可愛かった。

 妹の山崎聖華は、とにかく元気のあって、真面目屋だけど少し天然な一面もある。とにかく可愛いとしか思えないが、今日は一段と増して可愛く感じるのは今日の夕飯が彼女の大好物だからで、家族揃って、食べ始めるなり大皿から取り皿へ盛り付ける彼女の顔はとにかく、嬉しさが滲み出てそれを見る自分も間接的に幸せな気分に浸っていた。

 大好物で、頬が膨れ上がる妹、大きなジャガイモや大きな白滝、肉の塊を続けて皿によそう妹の表情は輝かしいものだった。眼福眼福。

 しかし、自分が萌え系のアニメオタクになったのも、ロリコンになったのも、きっかけは、全て妹であった。実は彼女も萌え系アニメを好んでおり、更にはオープン系オタクなので、気に入った作品などは友達などにオススメしているらしく、早速自分も妹のお気に入りなアニメ作品の大半を、近所のTSUTAYAで借りて、暇なその時間をアニメ鑑賞に消費したのだが、これが自分には衝撃であった。この世にこんな面白いものがあるのかと、部屋で一人興奮し、いつの間にか1日が過ぎていたなんてことは毎日だった。それまで、その系統に疎かった自分も、その日を境にどんどん日常系萌えアニメの世界に没頭していき、外面には出さないものの、完全なるアニオタである。

 しかし、やっぱり妹の方が良かったりもする。まあ、それとこれとは別なんだろうけど。


 一通り母の優しい味付けに、罪悪感を感じながらも、ご飯とみそ汁と肉じゃがとひじき煮を平らげて、自分一人だけ直ぐに、その場を去った。やはり、まだ一緒になってご飯を食べるのはきつい部分でもあった。

 部屋に戻ると直ぐに、PCに電源を入れて数時間の仕事、ホームページ等のデザイン制作を個人で承っているのだが、依頼がどれだけ入っているのか『メール』を開いて確認する。高校生になり、お金が色々と必要になって来た頃に始めたが、やはり最初の頃は全く稼げず、毎日のように今まで蓄え続けていたプログラミングの知識や、美術の知識を活かしてブログを書き続けた事により、最近になってようやくブログのアフィリエイトと共に納得のいく収入が入るようになった……。褒められたことじゃないけども、煙草や酒はその収入からちょっとずつ、ばれないように購入していた。まあ、これ以上妹を心配させたくないので、もう喫煙や……飲酒は、しないと決めているので他の事に回す事を考えている。一応貯金はしているが、今期の円盤や新作のフィギュアも予約しているので、そちらにお金を回そうかとも思ったが、いつか家族と……出来たら妹と二人で何処か旅行に行きたいとも考えているので、やはりそのためにいくらか予算を組む必要があった。

 毎日時間が自由にあると思われがちだが、案外そうでもなくて、お金が入るようになってから、身の回りが良くも悪くも変わってしまった。流石に大手ほどではないが、それなりにブロガーとして稼いではいる。だから案件やら公式からのお誘いやらが頻繫に来るのだ。

 まあ、そんなものこちらから願い下げだった。今の状態が一番なのだ。

 正道は、全てのメールに返信すると、Excelを開いて、「今月分の家計簿 9月」のExcelの別窓とを見比べて、予算表を完成させていく。


 全ての作業を終えると今度は、ベッドに横になり、仮眠をとることにしたーー


 起きると、手元のガラケーに映るのは、もう昼の10時を少し過ぎた頃だった。確か、今日は単位の危ない国語の授業がある日だった。国語は週に3回。今日は金曜日で、行かなければならない国語の授業は4時間目、つまりはもう出ないと多分間に合わない時間帯であったが為に大慌てで、正道は学ランを着て家を出るのであったーー


※※※※


 さて、困った……。お兄ちゃんが珍しく今日は、学校に行ったので畳んだ洋服をどこにしまえばいいのか?ソファに置いてもいいけど、でも掃除機を掛けると埃かぶっちゃうだろうし……。

 正道の妹、つまりは山崎聖華は、考えに考えた挙句、大好きな兄の忠告を丸々忘れた上での判断を行った。要は、兄の部屋に入ったということ。

 聖華は、兄のベッドの上に畳んだ洋服を乗せて部屋を出ようと、ドアノブに手をかけた瞬間、ふとクローゼットに目が向いた……。少しだけ空いたその隙間から、何かの視線が感じるのは、何か……ハッ、これはオタクの勘というやつだろうか!


「……ハッ!まさかお兄ちゃん!全オタクの夢である、朝起きたら謎の美少女がそこにいたから、取り敢えず押し入れに隠れろ的なしtyッ……うわああああ!なんだこれえ!」


 ある種の期待に興奮と勢いで、開けてしまったクローゼットの中には、大きなショーケースがスッポリ納まって、その中には沢山のフィギュアに書籍、DVDが、ズラリと並んである……。それも、どれも自分が好きなタイトルばかりで、これは興奮モノだった……。


 「至福っ……!アニオタの夢……法悦……垂涎の至福っ……!聖華……!ただ突っ立ているだけ……至福の傍観っ…………!桃源郷を彷徨うがの如く圧倒的至福っ……!」


 これはきららのバックナンバー……凄い!けいおん!だ。ごちうさも、けいおんも、ワンフェスの奴も全フィギュアも揃ってる!これもすごい!チノちゃんのnanacoカード、こんなのもう手に入らないのに!

 限定品が恐ろしい程に飾られた、そのショーケースに聖華は突っ立たまま釘付けになっていた、それもそうだった。見たことのない生産終了品や限定品が多分、片っ端から飾られているのだろうから、ここまでならない方が本来おかしいのだ……。それにしてもあの兄が、まさか、アニオタだとは、予想外過ぎて、二重の意味で、それらを吟味する。

 それにしても、よくここまで集められたモノだった。兄の部屋は、この宝箱同然のクローゼットを閉めれば、壁に何やら経済だとか政治だとか難しい類の本が並べられたのが、目立つ部屋だったが、まさか兄の裏がこうだなんて、思ってもみなかった。

 思い返せば、お兄ちゃんとちゃんと話したことなんて無かった。だけど、これからは、共通の話題ができたみたいだし……。

 聖華は独りでに頬を赤らめて、そわそわとしていると、背後から素っ頓狂な阿鼻叫喚を体現したかのような叫び声が響く


 「お前……そこで何してんの……」


 そこには、震えた手で妹を指さしながら青ざめる正道の姿があった。


※※※※


丁度お昼が過ぎたときに、その事件は起こった。そもそも何故か学校内でも何処か胸騒ぎがしていたのだ……。今思えば、虫の知らせというのはこういうことを言うのかもしれないと、正道の後悔が渦を巻く。

それから、直ぐに意識は現実へと引き戻され、焦りしかない脳内には未だ気の迷いしか生じず。何を言っていいのかさっぱりわからずに、ただ困惑するだけで、『何故、クローゼットが開いているのか』、『何故妹がこれを発見してしまったのか』『何故、妹はこのクローゼットを開けてしまったのか』などと考えているうちに、恥ずかしくてたまらず正道は後ずさった。そして、絞り出したかのように出した次の声は


「なんで……なんで開けたんだよお!馬鹿!馬鹿妹!開けるなって言ったのにい!」


 精一杯の、怒りだった。怒鳴り声を上げようにも、妹に対してだけは戸惑った。何故ならばそれは、妹が大好き。それだけだ……。それだけなのにいや、そうだからこそ戸惑った。ここまでになったのも妹がアニメが好きだったから。そうだ、妹も好きなのだ。アニメが、この特注のガラスケースの中に入った数々の日常萌えアニメの数々のタイトルが……好きなのだ。そうだ、そうなのだ。一緒なのだ……。

 それが生半可に、恥九割の怒りの声の正体であった。怒鳴り声とは程遠いそれは、名前にそぐわない……。そんな捻くれ者になってしまった正直者。本当は嬉しかった、本当は好きな人と……も、勿論アニメが好きだという意味だが、アニメが本当に好きな人と、一緒に楽しみを分かち合いたかった。切っ掛けを作ってくれた貴方と一緒に楽しみたかった。そう、本心は告げていた。なのにどうしてか自分は、あの日から捻くれ者になってしまった自分は……。


「アニメなんか嫌いだし!そんなんじゃねえから!ほらさっさと部屋から出ろ馬鹿妹」


 そう顔真っ赤にしてドアを指さすが、予想外なことに、妹は何を堪え切れなくなったのか腹を抱えて大笑いし始めたのだった……。それを目の当たりにした正道は、絶句して更に恥ずかしさが増すばかりで、身体を震わす。同時に妹も、別の意味で身体を震わせるがその光景に正道は、何かがぷっつり切れたかの如く、勢いに思考を奪われ気付けばドンと両手が妹の頭の横にあるのが見えて、ハッと我に返ればもうそれは、直ぐに理解できるもので要は『壁ドン』と言うものを妹にやってしまったのだった。

 流石の自分も、壁ドンを女の子にましてや妹にする日が来るだなんて思ってもみなかった。以前に金銭トラブルで数回脅し目的でやったことはあるが、あれはあくまでも威嚇だったのだが……。それを証拠に妹の胸倉を思い切り掴み上げ、荒くした息が辛うじて届くか届かないかの距離であった。啞然とするが、瞬間正道は再び後悔と焦りの渦に溺れた。妹になんて事をしてしまったのか……。罪悪感で今にも死んでしまいたいくらいの勢いだけで今の自分は構成されているのではないかと思う程だった。が、


 「っぷ」


 と、また妹は啞然とした顔から泣きわめくこともなく、恐れて怖がることもなく、ただ目尻に涙を浮かべて笑うのであった。何故?そう顔にも言葉にも出してはいないが、笑い交じりに教えてくれた。


 「だって、お兄ちゃん、最初から、最後まで、表情が、恥ずかしそうで、微妙で、中途半端で、それで、なにか悟った、かと、思えば、なんか、やばい、みたいな顔、して……。お、面白くて……。」


 そう、妹は兄の両腕の間で大爆発。かという兄の正道はというと、これ以上ないくらいに顔を真っ赤にして更には勢いで、頭を掻いた所為で頭前髪を上げる為に施したヘアピンやヘアゴムが飛んで前髪がサラリと目にかかり、生じる痒みさえもその声への意識には敵わず、思わず豆鉄砲を食ったかのように、聞き返す。


 「……なんつった?」

 「だから、一緒に今度アキバに行こう!お兄ちゃんも一緒に」

 「……は?だから、嫌いって」「はははっ!お兄ちゃんって噓が下手だね」


 そう視線で、ケースのコレクションを指して妹は微笑んで言う。


 「好きなんでしょ?」


 直球に思いをぶつける妹に、まるで自分は心の中を言い当てられたかのような気がして、半歩後退する……。捻くれ者になった正直者は、噓は言えなかった。関係のないウソも関係あるウソも、必要の有る嘘も必要の無い噓も彼には、根は正直な捻くれ者は罪悪感の塊にしか思えなかった。だから噓は言えずに居た。だから……。


 「……好き。かもしれない」


 と、言う。勿論嘘では無い。もうすっかり、恥ずかしさによる熱は冷めつつあるが、まだ頬の熱は保たれて、まるで過ぎ去ることを忘れているかのようで、元通りになるにはまだ……まだ時間が必要であった。こちらの顔を見る妹に対して正道は視線を逸らしながらながら答えている。やっと、捻くれ者の自分が素直になれた瞬間でもあったし、まだまだ成長出来ていない証拠でもあった。

 アニメは好きだ。いや、アニメが好きだ。その思いは変わることは無い。アニメに描かれる数々の教訓に生き方や、人との関わり方を学んだ。でも一番好きなのは……。いや、やっぱり何でもない。


 「じゃあ行こうよアキバ!」


 しかし、その提案に正道は、素直に乗ることができずにいた「俺は……」と渋っている自分が、自分で情けなかった。また、昔と同じようにどこかへ行ける。しかし、そのきっかけも潰そうとしている自分がいたのに余りにも情けなくて呆れた。未だ感じる妹のきらきらとした視線もするし、断るなんて事絶対にしてはいけないし、そもそもしたくない。だけど、こんな身なりになってしまった以上、どこかへ出掛けると言う事を今の今まで躊躇していた。当然だ、ヤンキーが、不良が、特にアニメ好きということを隠している人間が、そう易々と立ち入ってはならないからだ。だから、今日までオンラインショップを活用してきたのだ。

 渋ったまま、未だ何も言わずにただいつも通りに愛想を悪くしたような目でそっぽを向いて明らかに戸惑いながらも迷っている正道は、大好きな妹の提案に素直に乗ることができなかった。一方、妹の聖華はというと、そんな兄の気の迷いも露知らずで、かわいい笑顔で返答を待っている。だから正道は、顔を真っ赤にして


 「……しょうがねえ、荷物持ちならやってやるよ」

 「やったあ!お兄ちゃんと出かけるのはいつぶりになるんだろうね!楽しみだなあ」


 そう解りやすく踊る心が口から滲み出る妹はどことなく可愛くて、どことなくいつも以上にはしゃいでいる気がした。何故だかいつもよりも可愛くて……可愛くて……。正道は、無愛想な表情から、一瞬緩んで笑みを少しだけ浮かべるだけでまるでというか本当に不器用であるのを実感する。

 

 「じゃあ、空きの日程分かったら言ってね!じゃあね!」

 「えっ、ちょっ、待てや、馬鹿妹!」


 そう言い残して早々に去っていくのを、一拍遅れに引き留めようとしたので、それはもうそれ以上のことを聞き出すなんて事は出来なかった。

 ドアの閉まる音とともに、独りになったその空間で途端に正道はそれまで繕っていた表情が……崩れた。

 嗚呼……誘われちゃった。誘われちゃったよ妹に!何年ぶりだろうか?正確な日数は数えてないけど多分小学生ぶりだよなあ、楽しみだなあいつにしよう?明日空いているかな?それとも明後日がいいかな?いつが妹にとって都合がよいのだろうか……。服は何を着よう。これにしようか……いや、でもこれはあまりアキバには合わないだろうしなあ、かと言ってこっち着るのはやめておいた方がいいし……。

 正道は、いつも以上に妹の喜ぶ顔が脳内にキラキラと映し出されていた。

 『お兄ちゃん頼りにしてます』『お兄ちゃんありがとうございます』『私お兄ちゃんが大好きです』『お兄ちゃんが居ないとだめです』『お兄ちゃん、重い荷物を持ってくれてありがとうございます』『お兄ちゃん……』お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん……。

 嗚呼……楽しみだなあ。そう小声で言う正道の表情はいつにもまして、笑顔であった。それも、不良に似合わないくらいの笑顔と脳内お花畑のような想像力である。にんまりと満足げに膨らんだ笑顔は、まさに不良の正道には全くもって似合わない顔であった……。


※※※※


 「お兄ちゃん楽しみだね!」

 「黙れ……人前で話しかけるんじゃねえ……」


 大宮駅、埼玉県のローカル線ニューシャトルで約20分、週末ということもありそこはとにかく人の群れであった。四方八方に人が行き交うその東口と西口を繋ぐ大通りは、人の流れは一見あるように見えるだけで実際は流れなどという代物では無かった。所謂人混みなのだが、その場所にとことん慣れていない正道は、いつもよりも遥かに強面に拍車がかかっていた。なんだこれはと、正道は更に空気の悪さに思わず妹に向かって助けを求めていた。そうそう昼間に外出しない正道からしたら、絶望極まりない場所である。以前、何度か深夜に呼び出しを喰らって行った事はあるが、その記憶は今の状態とはなっから違とって、まるで別の場所のようにも錯覚し、その光景には目がチカチカするので妹を見てどうにか心を落ち着かせる。


 「どうしたのお兄ちゃん?早く行こう!」

 「……っるせえな、どこ行きゃあいいんだよ」


 正道は、実は勉強以外の物覚えが悪かった。道にしろ、人の名前にしろ、そういうものを覚えるのが本当に困難で、遥かに勉学の類を覚える方がシンプルであり実に簡単であった。だから、今までその様な事を疎かにしたツケが回ってきたのかもしれないと、心の底から正道は感じるのであった。この大嫌いな人混みの中、分からない道を歩くことなど、今更になって恐怖しか感じなかった。道は、あの短期間で必死に覚えたはずだった。一週間、ニューシャトルに乗り、大宮駅から京浜東北線に乗り、秋葉原で降りる……。そんなことを必死になってPC画面と睨み合ったあの努力は何処へ行ったのやら。


 「ほら、行くから私に着いてきて」

 「ちょっと!引っ張る……な!……ひ、一人でも大丈夫だから!」


 本当はどうしようもないのだが、急に手を握られたのが、とてつもなく嬉しくてでも、その反面人前でこんな事をするのがとてつもなく恥ずかしくて、正道はつかさず引っ張られる手を、赤面で振り解こうとするが、妹が苦笑いで「だって、お兄ちゃん心配なんだから暴れないでよ」というものだから、正道は恥ずかしさに顔を熱くしながら、妹に手を引かれて歩く。俯いていた顔を上げると妹は、逞しく人混みを掻け分けて歩いているようにも見えて、途端に自分が何処か女々しい気がして正道は、勇気を振り絞って緩みそうになった手を包むように握り直して妹の横に並んで、強がった。


 「人混みが……怖えなら手をつないでやっても……いい」

 「まったくもう、お兄ちゃんが怖いんでしょ」


 と妹は苦笑いする。「素直じゃないなあ」と付け加えて。

 歩くこと数分、改札を通って、妹に引っ張られながらも駅のホームに無事降りることのできた正道は、内心ホッとした。駅のホームに人はいるもののそこまで窮屈を感じさせないその空間は、中々に心地いい場所であった。


 「お兄ちゃん大丈夫?顔がまだ怖いまんまだけど」

 「……何でもない」

 「そうなんだ!良かった!」


 笑いかける聖華に、正道の強面は先程よりも何処か緩む。電車を待つ間、妹の投げかける話に耳を傾ける。そんな中、改めて妹の洋装が目に留まる。栗色のセーターに、紺色チェックのオーバーオールにベレー帽を被り、眼鏡をかけていた。やはり、妹にはコンタクトでは無く、眼鏡が似合う。可愛い。しかし妹の隣に立つ自分は大丈夫なのだろうかと、今更不安になる。不安が表情に滲み出ているのは、言うまでもなく自覚している。すると、妹は何か感じ取ったのか、笑って。


 「大丈夫だよ、似合ってるよその格好」

 「……え」

 「かっこいいってこと。――いつもよりもね!」


 電車のホームに並んで立つ二人の兄妹。しかし、その妹の表情はいつもよりも頬が染め上げられて、それは漫画のワンシーンにありそうな一面で……それは電車が丁度真横を過ぎて、二人だけの空間に切り取られ、まるで音も背景も全ては二人だけのものになった気がして……。一瞬が、その息を吞んだ一拍の間がまるでスローモーションかのように、時が極限までに遅く流れるような錯覚に陥る。

 霧のように白く染まった背景が現実に引き戻されるかのように晴れ、それはいつの間にやら元に戻っていたらしくてその区切りをつけたのが電車の扉が開く音であった。現実に引き戻されると同時に正道はハッと、一度空気を吸った。落ち着きを取り戻すために、妹の方を改めて見る。愛しく素敵な笑顔を咲かす乙女がそこに居た。ただ、突っ立ているという表現が等しい正道の心情は彼女の言動に一拍遅れた。


 「……うるせえよ、おら!さっさと行くぞ」


 未だ赤面なのは治らない。だって、本当の自分は嬉しかったのだから。ただ素直になれないでいる捻くれ者の自分はありがとうの五文字すら口に出すことなど出来ず。妹の手……首を震える手指で一見荒い動作にも見えるがしかし実際には震えて、急に手首を掴まれた聖華自身も最初は驚いたもののそれを感じてからは、笑顔でほぐれる。


 「……ありがとう」


 頬を染めて俯いている聖華は、控えめながら「強引なんだね」と口にする聖華に正道は、口調を強めて「うるせえよ」と返すので、面白おかしそうに聖華は笑った。

 電車の中は案の定混んでおり、座る所はほとんど無く、次の駅に止まると、更に立ち乗車の客で賑わった。というのも、高校生の男女合わせて七人が乗車して騒いでいたのだった。大音量で重低音のEDMを流し馬鹿騒ぎをするチャラチャラとした自分らとまた違うが似ている類の輩だった。週末で混んでいるということもあり、決して余裕が無いのにも関わらず、地べたに座ってイキッている輩に決していい思いをする人は誰一人居なかった。仕方ないことではあるが、間接的にこちらにも、不快な視線がちらちらと感じる。相変わらず不機嫌そのものの表情をしている正道に妹は、困った顔をして


 「ごめんね、最近よくここに居座るの……」

 「……大丈夫」


 何故妹が謝るのだろうかと正道は内心、悲しく感じたと共に迷惑を掛けて止まない輩に酷く呆れる。何とかしないと妹にも火の粉が移る気がして正道は一人、あまり得意ではない人混みを進んで、チャラチャラしたギャル系の前に立った。そして一声


 「手前ら、ここで何やってんだ?」


 こちらから、彼ら彼女らへ目線を合わせて蹲踞する。その存在に気付くなり、一気に男女七人表情が固くなって、中には踏ん反り返る者まで居た。さっきまで騒いでいたのが噓のように静かになって、代わりに乗客全員の視線の的となり不穏が醸し出されて、突き刺さる視線の多さに正道の機嫌は、悪くなる一方で。


 「おい、音楽消せや」

 『は、はい!』


 数人が音楽の鳴るiPodを取り上げて音楽を消そうと操作すると瞬く間に、EDMの重低音は消えた。その七人は知っている輩で。特にこの七人組のリーダーである金色坊主の長谷川はよく知っている仲であるのだが……。もう人様に迷惑をかけるような事はしないと誓ったはずなのに、こんな事になっているなんてなあ。丸刈りを染めているところからして、さらさら反省していないようだった。正道は舌打ちを打って


 「おい長谷川」

 「は、はい……」

 「手前え、もう乗るんじゃねえよ、反省してなさそうだし」

 「……」


幸い、次の駅まで、あともうすぐであるので乗車させるように言っておいた。しかし、彼の額には汗でびっしょりだった。そこまでなるならやらなければいいのにとも思ったが、口に出すことはなかった。なんせ、扉が開いた途端に逃げるように去っていったため、これ以上威圧をかけることはできなかったが恐らくは効いただろう。そう思いたい。彼らを見送って立てば、周りからは極めて不快な視線を浴びて、その視線にただ下を向くだけであった。やっと、妹の隣……へ帰るわけには行かず、少し距離を取ろうと目の前に、ドアの右側にある手すりに寄っかかって、彼女の方を見ることなど無く、ただ他人のふりをしてイヤホンを付けて、スマホを触るだけで秋葉原に着くまで、双方が話し掛ける事などはあるはずも無かった。


※※※※


ドアが開くと共に、正道と聖華は駅のホームに足を降ろす。そして、「他人」を辞めることなく、正道は変わらない不機嫌な表情でホームの自販機に足を運ぶ。その姿を見た聖華は複雑な心境のままどうすることも無かった。兄のあんな姿を見たのは初めてのことでなんて接していいのかも分からないままであった。言ってしまえば、怖かった。あの目は何時もの優しい目をした兄のものと同一のものとは、思えないほど怖い……恐ろしい目であった。勿論電車の中では、兄への誹謗中傷がコソコソと蔓延していて、中には中年のおばさんが私に、心配の声も掛けられて、それこそ心が苦しくなるばかりで……。ゴトンと、兄は、暖かい缶コーヒーを取り出してベンチに座ってそれを飲む。いつまでも「他人」を貫いている兄を見る度心が苦しくなるばかりで……。


「……ごめん」


その言葉が、兄のか細い声が耳を通り抜けると、反射的に改札へ向かおうとする兄の腕を両手で掴んで引き留める。


「……なんでお兄ちゃんが謝るの」

 「ごめん、だから嫌いにならないで」


 兄は、ただ俯くだけで震えることも、涙ぐむこともなく、ただ顔を俯かせて、何時ものような声量で「ごめん」と、ただそれだけを繰り返すだけだった。その時の兄が何を考えてそのような事を言ったのかなんて聖華自身、解っていた。解っていたけれども、どうしてもこの胸の締め付けだけがどうにもならなくて、もうどうすればいいかなんて解らなかった。だから……。


 「ごめんって言わないで」

 「……分かった」


 誰も居ないホーム、誰にも見られない、死角のような場所だったからという訳では、ないけれど、聖華は兄を強く抱きしめた。どうしていいかわからないから、今溢れるこの思いを正直に伝えたいから……。


 「嫌いにならない。からもう……辞めて」

 「……分かった」


 私は、兄と違ってあまり勉強ができないし、語彙力が無い。だからこうするしか無いの。


 「嫌いになるわけない」

 「辞めろ……」


 泣いてしまう数秒手前の声で、兄は正道は、聖華の妹の泣きそうな声を制止する。必死に涙を堪えて妹の手を繋ぐ。


 「ほら、行くんだろ。泣いてないで案内しろ、人が来る」

 「うん」


 目尻に涙を浮かべて笑う聖華に必死になって涙を堪える正道が言う。泣いていたら恥ずかしい。そう思うのはだめだろうか。カッコ悪いと思ってはだめだろうか。いいや、駄目じゃない。手を引っ張る側が泣いてどうする……そう思いながら正道には意地を張る。しかし、腰を包むその人の温もりに正道は何処か張った結解のようなものが崩れてしまう気がして……。それでも、改札を目指した。

 涙の痕が残る女の子に、不良が並ぶと何というか、結構事案的な構図で少々アウトな気がすると兄の正道は思ったが、あまり気にはしなかった。それにいつもよりかは丸くなって妹の手荷物を率先して持つというよりかは半ば強引に奪い取ったり、妹のお小遣いが残り千円札しかなくなると、正道が財布から万札を出し払ってあげるというよりかは半ば妹が出した千円札をどかして自分の財布からお金を出したりと……大分強引というか荒いというか有難迷惑というか……。だけどもまあ、その行為に驚く店員や客はいてもその行為に何か文句を言ったりする輩は一人も居なかった。変わり者が多いからか?それともあまり正道に関わりたくなかったからか……どちらにしろ、正道にはどうでもよかった。何よりも妹を笑顔にする事が最優先であるから、困っているなら助けたり、笑顔になってくれるならそれをする。全てが全て上手くいった訳では無く。中には困惑で戸惑うだけだったこともあるし、やりすぎて注意されることもあった。だがしかし、だから良いという訳では勿論ないが、それでも彼女の表情には、「幸せ」でいっぱいの時が多かった。


 「お兄ちゃんどうしたのそわそわして」

 「なんで昼がここになったんだ」


 そんなこんなで、もう時刻は十三時であった。当然普段歩きなれない場所に赴いたこともあり、動き回って重い荷物も持っていたので、溢れる疲れと一緒に、気付けば腹が空腹に嘆いて居たので、お昼を何処かで取ろうと妹に選択権を託したのだが、てっきりこっちの都合も考えてくれているのだろうと思っていたため、メイド喫茶を選んだのは流石の自分も今は過去に後悔するだけであった。

 俺は、隠したいのによくもまあ、エライところをえらんだものを選んだものだ。一周回って、目立たくもない気もするがでも、やっぱり何処か否定的な気持ちでいっぱいであった。何しろ、女の子がいっぱいだし、可愛いし、服装が際ど過ぎる!なに破廉恥な格好をしているのだ……。これは目のやり場に相当困る。ので、妹を見る他心が安らぐ所は無かった。しかし、それにしてもなぜ妹はこんな所をーー


 「あ、山崎ちゃん来てくれたんだあ!ありがとニャン」

 「あ、ネコちゃんお久しぶり。約束通りきたよ!あ、紹介するね!お兄ちゃんです!」

 「聖華ちゃんのおにい……ニャッ!こわいにゃ!本当に聖華ちゃんのお兄ちゃんにゃんですか!?」


 急に、横から声が聞こえてきたと思えば、猫耳を付けた可愛らしい女の子がこちらを見るなり、どうやら怖い顔らしかった。会話から察するにというか、妹の友達みたいであった。それも、大きなお友達であるらしい。年齢的な意味で。なるほど合法ロリというものかとも一瞬頭に過ったがロリババアの方が色々と似合っている。ウーサミン!って言いそう。

 というか、あまりこの状況は良くない。というのも、ファミレスで昼食を取ると思っていたから、ウェイトレスと長話をするような店などまったく考えていなかった……。そもそも、女の子がメイド喫茶に行くなんて考えるわけないじゃないか……。しかし、一度は足を運んでみたいとも一応は……一応は考えてはいた身。うん、まあこの機会だし楽しもう。ただ……やっぱメイドさんは清楚系に限るなあ。そう思いながら、目の前に集中していなかったので、彼女たちが何らかの談笑はしているのはわかっているものの、何の話をしているのか正道自身、よく分からなかった。けれども、気にはならなかったしそれ以前に早く注文を取ってほしくもあったので、ネコちゃんに声を掛ける。ネコって名前珍しいなと思いながら。


 「すいません、そろそろ注文大丈夫ですか?」

 「にゃにゃにゃ……お兄ちゃんだにゃあ、でも、分かったにゃ!何にするにゃ?」


 ウワキツ。と言いそうになりながら、心のうちに留めて置く。そのまま何処かへ葬っておこう。広げていたメニューにあった『ネコのびいふしちゅう』と殴られたいのかそこんところは定かではないが、その写真を指差す。


 「これ一つーー」

 「にゃあ~!お客様!ちゃんと名前で言わないとだめですよ!お兄ちゃん」

 「殴られたいんか?あ?」

 「ひいいいい!び、ビーフシチューですね!」


 目つきが無意識にも最初に戻って、言葉もまた都合の良い事に無意識に心に思っていたことが口に出てしまった。まあ無意識でも脅したということには変わりないが、まあ彼女の反応は、案の定初回同様に怯えていた、まるで悪態のついたヤクザに怯える店員みたいであったし、というか悪態をつくヤクザはまんま自分のことであった。

 それから厨房に駆け込んで、数分後彼女が出てくるなり、呼び止める客の先々で笑顔を振りまいてそれから談笑をする彼女の姿は何処か元気になるような……。そんな不思議な力を感じるのであった。


 「やっぱメイドさんってすごいね!」

 「あんな露出している奴のどこがいいんだ」

 「まったくもう、話せるようになったと思ったら、捻くれてるんだから」

 「……うるさい」


 実際、自分でも短期間で心を開くという訳ではないがここまでコミュニケーションをとれるなんて予想外であった。しかし、これも妹のサポートがあってこその結果である。自発的に発言したり、人を導くなんてできないということを妹は言わなくとも理解してくれていた。だから、小さいことから一つずつではあるものの、試しながら……それも、彼女が否定したり、からかってくることは無かったから、寧ろ妹のおかげと言っても過言ではない。でも、自分の捻くれが治ることは未だ健在だし、やっぱりまだ正直な気持ちである「本心」で、彼女と話すことはできなかった。

 それでも正道は微かに、妹の言葉に気づかれないようにではあるが、頷いた。やっぱり見られるのはどことなく嫌で、やっぱり未だ捻くれていたいと我儘に縋る自分が居たからだ。


 「でも、人の夢をこうやって叶えてあげるって、素敵な事だよ」

 「まあ、『ヲタク』と、『メイド喫茶』というのを引けば立派な事なんだろうけど」


 無意識に……そう口走った。これはホントの無意識。意識的に実行した無意識では無く、ポロリと口からこぼれてしまった、「無意識」であった。否、でも、それは極限までに「本心」を織り交ぜた薄皮の「捻くれ」であって、故にどっちでもない……。本心かと聞かれればそうでないし、捻くれかと聞かれればそうでもない。ただ何も、意識せずとも放った言葉に自身が驚いて、少しの間時が止まるような錯覚を覚えたのだった。

 そもそもメイドさんということではなくて、彼女自身が凄かった。それだけは否めないし、現に見ているのだから。写真撮影をお願いされたり、他の客と話していたり。本当に彼女は凄いと、心の底からそう思う。そして、妹と戦利品の武勇伝を語り合っていると、料理が運ばれてきた。だがあまりメイド喫茶っぽくない器であった。というのも、正道自身が想像するメイド喫茶の像というのはハートだったりなんだったりがめいいっぱい散らばってるようなものであったのだ。だがしかし現実はというと、そこまで痛々しいということはなく、逆にお洒落で、シックで落ち着いた雰囲気だが、所々に可愛いが溶け込んでおり、不自然なところで言えば、ウェイトレスのミニスカートの長さというところだろうか……。そこを省けば、普通に女性客で盛り上がっていそうな店であった。

 正道は、運ばれてきたビーフシチューを見る。黄色い陶器に入った色の濃いシチューは、具がゴロゴロと入っており、中々に男性に向けたものという印象を受けた、名前のよく分からないパンとコーンスープ、サラダなどが、お洒落なお盆に一式乗せられた状態で運ばれてきた。対して妹が頼んだのは野菜中心に挟まれたサンドイッチ。コーンスープも付いてくるようで、そちらもそちらで美味しそうであった。しかし、思っていたことと違って、それはメイドさんの掛け声がないということ。あれってまさかもうないやつなの?

 少し不審がる正道にネコちゃんは笑って


 「ああ、ごめんにゃさい。当店ではそういうサービスはおこにゃってないんですにゃ」

 「……あっそ」


 ウワキツ。とは流石に口に出すことも、表情に出すこともできないので、正道はそう言って受け流す。そう言って食事に手を付けようと木製のフォークを持つなり声が掛かる。


 「どうしてもにゃら、やってもいいんだにゃ。やる?」

 「……うるさい、話しかけるな」


 生憎、そういう存在と、長話するのが今の正道には、生理的に苦手なのでそう言って、突き放す。本当であれば、「もえもえきゅん」なんて一度はされてみたい。三十路であれ、合法ロリであれ可愛いのだから、されたい。そんな気持ちを抑え込みつつ正道は静かにビーフシチューに手を付けた。意外と汁が少ないので、大変に食べやすかった。食事を楽しむ事30分。残りのスープを飲み干して、深呼吸をする。美味しかった。正直にこれほどおいしい物を食べたのは初めてのことで素直にキッチンの人に感謝を告げたい。そんな気持でいっぱいで、正道はまたいつの間にかそこに立つ、ネコちゃんに不愛想にも低い声で先ほどの感想を告げようと口を開く


 「……また来る。会計を済ませたい」

 「にゃ!気に入ってくれたんですね!ありがとうございます!実はあのビーフシチュー店長の自身作何ですよ!喜んでもらえて本当に嬉しいです」

 「……近い。早く会計させろ」

 「あ!ごめんなさい!では、お会計はあちらになりまーす」


 そう促す彼女に案内されるがままレジで会計を済ませると、正道は相変わらず不機嫌そうな顔のまま、妹の荷物を持って外に出る。それから、妹の気が赴くまま色んな店を練り歩いては訪問し、色んな事を話してくれた。そして、すっかり時刻はサラリーマン達の帰宅ラッシュと被った。故に大嫌いな満員電車に乗る事になってしまった。

 夜七時という時刻。大分帰りが遅くなってしまった。というのも、妹が数量限定のDVD特装版を購入するために二時間ほど並んだためこんな時間になってしまった。なるほど、この時のためだったのかと、溜息をついたがまあ、悪い気はしなかった。特装版……。かの有名な萌えアニメのSDフィギュアと、限定画集、先生の直筆サイン色紙、ライブの先行抽選チケットに、今まで各店舗限定だったミニ色紙が五枚全部ついて、先着二百名の税込み一万八千円。宝物を手にした喜びで心がぴょんぴょんしていたからだ。

 そんな浮かれた気分のまま、それでもなお嫌な気持ちは変わることのない満員電車に乗る。今ならまだいけそうだったので妹に手を引かれながら、人混みに飛び込む。中の光景に思わず驚愕。スーツ姿の男性しかそこにはいなかった。


 ※※※※


 電車の激しい揺れに耐えながら吊革にしがみ付く。駅に止まる度人が押し寄せてくるので、荷物を地面に置くことができない。幸い、妹は自分から離れないよう抱きつく形になっているが、安全のためやむを得ない。離れ離れになったら死んでしまう。色んな意味で。しかし、大分疲れてきた。減るどころか増え続ける車内に座る場所などあるはずがないので、ずっと立っていかなければいけない。

 人混みが嫌いな正道にとって、これほど苦痛な場所は無かった。判断を誤った……。完全に浮かれていたせいで、この時のことを考えてなどいなかった。ふと足の力が抜けるのを感じ、必死に腕に力を入れた……。危ない、もしこのまま崩れてしまては、迷惑極まりない……。本当に危なかったと、胸をなでおろす。


 「お兄ちゃん大丈夫?」

 「……大丈夫だ」


 本当は、大丈夫ではない、降りることも考えたがきっと次の駅を降りたところでまた満員電車だ。しかももう七時。肝心なのは妹の体調の方だ、夜更かしさせるわけにはいかないし早く帰らせてあげたい。その一心であった。

 そう強がる正道に妹は、心配そうな顔のまま俯いてなにも言ってくることは無かった。気を使わせてしまっただろうか。よくできた妹だ。こんな兄貴で……。こんなお兄ちゃんでごめんな。俺は……俺は……。

 必死に答えを求めて酷い顔になっている、男がそこに居た。否、ガラスに写った自分自身で……。

 自分を見た瞬間、正道は耐え難い自己嫌悪が誘発された。こんな時になるなんて、なんて運が悪いんだ。妹が……聖華が近くにいるというのに……。益々ガラスに写る自分の顔色が悪くなるのが見て取れた。不安が、不満が、ざわめきが、胸の中を掻きむしる。叫びたい衝動を堪える。大丈夫だ。大丈夫なんだ。今の自分は耐えられる……。耐えろ。頼むから耐えてくれ……。

 ずっとずっと心の中で叫んだ。耐え難い衝動に今でも余韻が残ったまま、過呼吸が止まらないでいるような気がするけど、それは、自分の中でだろう。外面は何ともないようにふるまっている。嗚呼そうだよ……。今まで安定してきてて忘れてたよ。この誰も信じてくれない恐怖を忘れていられた事がどれ程、幸せな事か……。今まさに実感したよ。


 ※※※※


 山崎正道は、周りよりも優れているためいじめられた。その所為で、感情のコントロールが一時期不安定になり、その後遺症みたいなものが不安な気持ちを表に出すことができない体になってしまった。不安に感じても、「不安」と、形に出して表現ができない。そのことがどれほどに苦痛な事か……。

 誰からも本気で信じてくれないのだ。本気で悩んでいる風には見えないのだ。それに他人には悩みがなさそうでいいよなと言われる。内心の感情のぶつかり合いで、言葉にできない怒りに更にいじめは加熱していった。多分、その時だろう、酒と煙草に手を付けたのは。訳が分からなくなって、強盗や自殺に走らなかったのは不幸中の幸いであった。が、不幸は、不幸だ。不幸中にある幸いなんて、所詮ちっぽけなことなのだ。ほんとに小さい。だから、俺は自分自身で自覚した。


『嗚呼、もう元には戻れないんだろうなあって』


 多分、クスリをやっている奴が行くとこまで行って初めて本当の意味で自覚したときに、こんな事を思うんだろうか。もう元には戻れない。取り返しのつかない事をしてしまった事による罪悪感の暴走に歯止めがかかることはもうない。自然に止まるまで、待つのみだ。もうそれは、誰の声も届くことはない。忘れてしまいたい。死にたくない。どうしていいのか分からない。だから、毎日毎日一つのことを悟るまで繰り返し昨日のことを続けるのだ。その一つというのはもっとも簡単で、綺麗にその悪循環をまとめたもので。


 『今まで何をしていたんだよ、俺は。今まで全部。後悔しかしてねえじゃねえか馬鹿野郎』


 でも、悟ったとしても、どうしていいのかわからず、安心を求めてそれを続ける。

 そんな自分だから、そんなバカみたいに道を外した人間だから、もう元には戻れない人間なんだと悟った自分だから、こうやって今疲れてシートに座り込んでいる中年男性や、吊革にしがみつく、若い男性を見ると罪悪感で死にたくなるのだ。罪悪感は人を殺す。正しくいようとする感情は人の心を締め付ける。

 きっと、この人は僕ができない普通をやってきた人なんだろう。高校は高ランクの道に進学、大学も名の知れた立派な所へ通った、正に普通をやってきた人なのだろう。仕事に熱心で後輩を叱ったり褒めたり、部長や課長などになっていき、家族の為に今日を頑張って生きていく。

 ふと、スーツを着たまま今のような顔をしている自分の姿が一瞬だけ目に写った気がした。

 ――なんで……なんでこんな風になってしまったのだろうか。

 

それは、幾度も己に投げかけた答えの無い問いの究極形であった。

何時も鏡に向かって投げかけていた。しかし、この問いの答えを導いてくれた人がいた。それがあのゲームセンターのオーナーであった。ある日、呟いたその問いにふと、彼女が答えを言ってくれたのだ。


『多分、独りだからだよ』


その言葉に、どれだけ救われたか、やっと答えが見えたような気がして、まともになり始めたのはその時からだ。

当然、まともになることは出来なかったが、彼女の協力もあって何とかまともっぽくいられている。


正道は、満員電車の中で、涙を堪えた。流していいのか分からなかったから。



※※※※


家に着いたのはもう九時を過ぎていたにもかかわらず、母はにこやかに出迎えてくれて、辛かった正道には珍しく嬉しく感じるものであったので衝動的に頭を軽く下げた……。


 「……ただいま」


それだけ残し、正道は驚く母の横を突っ切って部屋に続く階段へ急いだ。そんな、不器用に物を伝えようとする、正道の姿に母はただ震えるだけで、彼の去っていった階段をどこか寂しく、どこか嬉しく見続けるだけだった。


「お兄ちゃんも変わろうとしてるみたい」

「……そうね」

「また……また一緒に過ごせたらいいね」

「そうね」


物淋しい横顔をする母に、聖華は苦笑いで母に声を掛ける。兄の事は仕方ないことだとは十分に分かってる。でも、それでも母の事を考えるだけで胸が苦しくなってしまうのは何故なのだろうか。こうなってしまう前、お兄ちゃんは優しくてとても心強い、自慢のお兄ちゃんであった。頭もよくて、よく勉強も教えてくれた。なのにお兄ちゃんが一日にして変わり果てていたのが、私を含めた家族一同、衝撃であったことは、今でも忘れない。数本の缶ビールと煙草、換気もしなかったからか部屋中に酷いアルコールと煙草の煙の臭いが充満していた……。そして、あの優しさに満ち溢れた過去の「お兄ちゃん」とは、微塵も保たれることなく、変わり果てていた。フードを深く被ってそこから見える鋭い瞳には殺気を感じるほどに研ぎ澄まされ――数秒、思考が停止した。


『……お兄ちゃん?何やってんの?』

『みりゃ分かるだろ、煙草吸ってんだよ』

『……駄目だよ、お兄ちゃんだって、未成年でしょ?』

 『うるせえよ、黙ってろ』


 その言葉を吐かれた瞬間、身の毛がよだつような恐怖が自分自身を覆った。瞬間、何を思ったのかは、今では定かではないけれど苦しくて切なくて、それ以上の感情が押し寄せては、あっという間に崩れていくので、途端にその場から走り出した。それは、一種の裏切りに近い感覚で、何かが無くなってしまうような恐怖に等しかった。それ故に向かった先は、両親だった。だから走って、泣いて縋り付いた。「お兄ちゃんが大変」だと「お兄ちゃんが、お兄ちゃんが」と、泣いて縋り付いた。それからは、もっと酷くてお兄ちゃんに恐怖を覚えた光景だった。暴言を吐くお兄ちゃんに、怒る父。殴りかかるお兄ちゃんに、抵抗する父。殴って殴って殴って殴って殴って殴って……。暴れるお兄ちゃんを止めることが出来ず、殴られ続ける父。見たことのない兄の姿に、母も止めに入ったものの母ですら止めることが出来ず。私が呼んだ警察によって事が収束したが、それからは、お兄ちゃんだけが「家族」から切り離される生活になり、今はもうましになっては来たものの。そんな苦い過去が拭われることなど無く、今でも未だその溝が埋まることは無い。

 でも……それでももう一度、お兄ちゃんと、大好きなお兄ちゃんと一緒に過ごすことはできないのだろうか。また一緒にテレビを見たり、勉強を教えてもらったり、仲良く話せたりできないのだろうか……。

 兄の事は仕方ないことだとは十分に分かってる。でも、それでも母の事を考えるだけで胸が苦しくなってしまう……。だから、お兄ちゃんにも知ってほしい。傷を負ってるのはお兄ちゃんだけじゃないんだよって。


※※※※※


 小腹が減った。

 暗闇の中、パソコンのモニターに映る時刻はとっくに二時を上回っているのを確認すると、心の底から溜息をつく。あれから風呂に入って、すぐにベッドへ直行し、疲れに直ぐに眠りに入れた。だが、その後眠りから覚めたのは夜中の一時。疲れも大分取れて普段通りの体調に満足すると、二度寝を謳歌しようと再び重い瞼を閉じる。がしかし、どうやら中途半端に冴えてしまって眠りにつける様子では無かった。

 ので、あれから水も飲まず、何も抓まず一時間とちょっとぶっ通しでゲームをしていた。通りで小腹が空くわけだが、生憎今はゲームから目が離せない。一旦タンマをとっても、多分撃ち殺される。あと、十数人。ここまでくればーー


撃たれた。詰まる所のゲームオーバー。ガメオベラ。


――あと、もう少しだったのに……。あともう少しでトップ10に入れたのに……。

 初めて十位以内に入れたかと思えば、撃たれて死んだ。

 直後、ゲーム内でのプレイを見ていた人からのメッセージが飛んできたので無言で開くと。『くそ雑魚乙wwwお前マジでカスやん、ランク23の雑魚が高ラン鯖来るとかキッショwww辞めてどうぞ』

 コントローラーが軋んだ。


 「……ふぁっきゅー。ふぁっきゅふぁっきゅ!ふぁぁぁぁきゅ!もう終わったよ!ああもう!クソゲーだクソゲー!」


 やけになって、もう一戦。激戦区にある屋上へ一直線――のはずが、先客のクソエイム(俺にとっては)によって武器すら取れずに死亡。今回は一番最初の死人になる事ができた。全くももって嬉しくない。おまけにまた同じ奴から煽られたので夜中だろうが構わずシャウト。


「ハイクソー。二度とやらんわこんなクソゲー」


煽りメッセージの主のツイッターやらフェイスブックやらで個人情報でも割り出して50枚くらいハートピザでも送り付けてやろうかなんて考えたが、一旦冷静になれば、子供みたいな考えに自分自身で呆れる。ブルーライトカットの眼鏡と、ヘッドホンを外しながら深く息を吸って、ゆっくりと息を吐きながら目を閉じ、猫背になっていた背中を反らせると、座椅子が後ろへ傾きながら軋む……。


「……」


 そのまま数回、今度は全身の力を抜いて、疲れた目を癒しながら深呼吸を繰り返すこと数分。座椅子を後ろへ傾けたままバランスを取って遊んでいると、後ろへ体重をかけ過ぎた所為で、後ろに倒れ衝撃が少なからず背中に来る。取り敢えず色々と巻き込んで挟まなくて良かった。しかしながらそんな暇人のような一人遊びをしている自分に(実際に暇人だけども)「バカだなー」なんて思いながら、何も考えていない空っぽな頭で見上げる天井は、何処か、吸い込まれそうなほどに暗闇が広がっていた。

 星空を見ているのとは違うが、何処か似ている気がした。まあ、自室の天井だから結構乏しいけど……。


 「……」


 深呼吸だけが、自身の中で結構うるさく響いてる。そんな中で、一つやりたいことが思い浮かんだ。それというのは、キャンプであった。

 まあ、キャンプと言ってもそれほど本格的なものではないし、寝泊まりはしない。しかし、ふと、傍らの窓を見て思ったのだーー今日は満天の星空なのだ。


 「ゲームやめるか」


 ※※※※※


 「1589円です」

 「……お願いします」

 「1609円お預かりします。20円のお返しですね。ありがとうございました」

 「……」


 満点の星空の下、正道は歩く。レジ袋を下げて。

 しかし、飲み物やら菓子やらを買っていったら、ついつい色んなものに手が出てしまう。無駄遣いに入るだろうか?なんて、そんなくだらないことを独り気にしながら歩く。


 ラジオに、イヤホンに、折り畳みテーブルに、椅子に……。諸々キャンプ道具を空き部屋から掘り起こして家の庭に設置する。コッヘルやバーナーはコーヒーを入れるために持ってきた。テントを張るわけではないので、そんなに時間もかからなかったし、そこまで汗もかかなかった。

 ので、正道はラジオをイヤホンを通して聴きながら夜空を眺める。デジタルの光から目を癒すには十二分な夜空であった。雲一つない晴天の夜空がこんなにも美しかったなんて、思ってもみなかった。持ってきといたガスランプですら必要ではないほどに明るい。カメラでも持ってくればよかった。折り畳み携帯じゃ映えない。



 ――お兄ちゃん?


 なんだ?聖華か?寝ちゃってたのか?

 あれからどれだけ時が経ったのだろうか?それは突然の事で、にも関わらず何故か不意に起こる物でもなくてーー夢の中……なのだろうか?しかし、変にはっきりとしてむず痒い。でもそれも何故か気にならない。


 ーー風邪ひくよ


 目の前に映る聖華は、いつもよりも何処か、可愛らしく。いや、いつ見てもどんな時でもかわいい。しかし、今の聖華は、何故か時が止まったような、啞然となるような、そう言うかわいさで、なんといえばいいのか、とにかく何よりも誰よりも。


 ――美しかった


 ぼやけた視界に映る、ツインテールの女の子。でも、幼い女の子特有の可愛らしさがあるのにも関わらず、その奥には大人のような、奥深く清楚で黒の似合う彼女という存在が、聖華という妹が、そこには居た。まるで、一目惚れするかのように釘付けになった。


 ――美しい


 ただ、その言葉だけを貴方に贈りたい。

 それだけで済んでしまうような、決して安くはならないそのワンシーンに、瞬きをする頃には、もうそんな夢のような景色は一色、朝の色に変っていて。ただ、その夢のような、事実その夢は、ただただ「美しい」その色一色で、長ったらしく引きづったこの思いも、この一言で締めることにしようーー


 ――再び『好き』を自覚した。


 それは、正道にとって何処か寂しくて、切なくて、ほろ苦い、ビターチョコレートの味そっくりでーー


 未だ夜の跡を微かに残す朝の空を見上げ「後で買いに行こう」そう思うのであった。


※※※※※


ある日の、といっても妹との初デートからまだ一週間も経って居ないにも関わらず第二回目のデートの予定が決まりつつあったーー駅前のカフェで……。


 「お願い!色紙全員分揃えたいの!」

 「……嫌だ、お前となんで映画に行かなきゃならねえんだ」

 「ねえお願い!」

 「いやだ」


 という風な感じに映画デートが決まりつつあった。妹にしては珍しく激しい系統のアニメ映画で、個人でもまあ気になっては居たと言うくらいであったが、妹がそこまでというのであれば、いくらでも出してやろう。が、しかし、それはどうなのだろうか……?気さくな兄の言動ならまだしも、俺の場合結構なハードルとなる。そもそも、こんな自分が「よし分かった、いくらでも出してあげよう。なんなら養ってあげよう」とでもいえば、間違いなく今後の関係はF1の如くスピードで悪化していくだろう。「お兄ちゃん何言ってんのキモイ。近寄らないで」なんて言う妹の姿が脳内再生される。まあ、これもこれでいいのだがよくない。とにかく、どうにか自然な感じに承諾せねばーー


 「うー!お兄ちゃんのケチ!いいじゃん!いいもん、お父さんにつれてってもらう」

 「え⁉ちょっ、えっ……おい!」

 「もう、めんどくさいなあ、そんな焦って何?」

 「……あいつと行くのか?」

 「だってお兄ちゃんが連れていってくれないんだもん。だからおとうさんといっしょにーー」

 「ふ、ふーん。別に行きたくないわけじゃねえし。その……何?俺めっちゃその映画気になってたし?この際丁度いいかなって思っただけだし!決して、お前と行きたいとかじゃねえから!」

 「だったら一人で行ったらいいじゃん」

 「それは!それは……そ、一人じゃなんか行けねえからお前を誘ってんだよ!一緒に見るぞ!映画!」

 「えーー」


 そんな感じで、今度の休みの予定が決まった。まあ、中々の強引さだが自分から進んで予定を決めたのは大きな成長だと、しみじみ感じる。いや、やっぱり違う気がしたので、これ以上考えるのを辞めておくことにした。考えれば考える程罪悪感に苛まれる。自分の首を絞めるというのはこういう事なのか……。

 恥ずかしさのあまりに、会計を手ばやに済ませて、家に帰ってきてしまった。

会話のキャッチボールというより、完全にドッチボール状態で、上手く投げようとしたのにも関わらず暴投したまま、正道は自分の部屋に早々に逃げ込む。後々部屋で独り、すっかり冷えた頭で考え直してみれば、何とも妹には申し訳なく思うばかりで、ただ冷えた廊下の冷気を伝うドアに背を向けてよかっかるだけで、自分自身がくだらなすぎて、乾いた笑い声を上げた。もうそろそろ、妹ぐらいは素で接せられたらなんて、そんな思いも、どこかやっぱり、こんな自分を打ち砕いてしまうような気がして、一時的に……。この時の事は忘れることにした。


 ※※※※※


 「ねえ、お母さん」

 「何?」

 「私、お兄ちゃんが大好き」


 頬を紅色に染めてそう告白する聖華に母は何処か寂しげに。


 「お母さんもよ」


※※※※※


 その日の朝は正道にとっては酷だった。何故なら、仕事が長引居たからーー

というのは、建前で、本当のところは洋服選びに徹夜していたのだった。映画デートなのだから、地味な服装にするべきであるという声や、でも、地味すぎても駄目だという、色々な声を参考にしてクローゼットに潜っていたらとっくに予定の時刻の三十分前になっていたというオチ。

 しかし、それにしてもこれでよかったのだろうか?と、今更後にも引けないような場所にきてから強い不信の気持ちが湧き出てくる。服以外にも……。中学生ぽくないか?ダサく見られてないか、逆に気合いが入り過ぎてないか?など、まあとにかく心のざわめきが止まらないわけで


 「お兄ちゃん」

 「ああ?なんだよ」


 不機嫌な態度で吐き捨てる正道に聖華がいたずらっぽく笑って


 「似合ってる」

 「な!」


 何故か見透かされている気がして、正道自身、恥ずかしさに無言になる。

 しかし、予想外だった。似合っているなんて言われるのは予想外だったから……。そうか、似合ってる……か。似合ってる。心の底で、そう彼女の、妹の聖華の言葉を反芻し、浸る。電車の中、実質妹と訪れるのは二回目となる大宮駅。今日は、何故か前回とは比較的に空いており、静かだった。土日の朝だからか、通勤ラッシュが丁度落ち着く時間帯だからかは定かではないが、点々と移動する人を見かけるだけ。前回と同じく、あまりアウトドアではない正道は、遠出にやたらと精通している聖華の背中を追っかけるだけ。しかし、今回の行き先は「さいたま新都心」というところだそう、そこに映画館なり、飲食店なり色々なものが駅とつながってるらしい。そこまで行くのに今回は、正道自身でも、覚えられる程のシンプルな道のりで。


 「1番線か2番線に乗れば、勝手に新都心につくから、ここからどこでも行けるんだよ、浦和とか東京とか」

 「ふーん」


 流石、聖華。アウトドアに精通してるだけあって、色々な事を知っている。しかし、あまり外出を好まない正道からしたら、浦和や東京なんて行こうとも思わなかった。空気が重そうだし、何があるのかも分からない。それにしても、よく考えてみれば、聖華は、女一人で、あっちやこっちに放浪。いや、出掛けているわけだが大丈夫なのだろうか?

 まだ、出発まであるのにも関わらず先に電車内に乗る二人。

 手すりに寄っかかりながら、正道はふと、聖華の身柄を心配する。ナンパとか下手したら誘拐なんてのも、聖華なのだからあり得るかもしれない。実際可愛いのだ。そんな事を考えだしたらキリがないし、もう彼女自身で自立させるのが普通なのかもしれないが、しかし、心配と、不安に心の色というものが染まる。


 「……お前さ」

 「お兄ちゃん?」


 電車が進むのと同時に二人の肩は揺れる。

 そっぽを向きながら喋る正道の顔は、どことなく真剣にそのもので、聖華はその顔がどことなく少し怒ったようにムスッとしてるように見え、少々戸惑う。


 「よく、都会に遊びに行くけど……。」

 「うん?」

 「ナンパとかされたりすんのか……?」

 「まあね」


 なるほどと理解した。途端に聖華の表情は緩んで声に平穏が灯る。


 「でも、大丈夫だよ」

 「……あっそ」

 「あ~~お兄ちゃん。嫉妬?」

 「うるせえよ、ぶっ飛ばされてえのか?ああ?」


 クスクスと悪戯に笑う聖華に、赤面の顔で怒鳴る。まあ、正道も正道で前のように荒れているわけでは無かったのでわきまえている。しかし、変わってしまったのかとしみじみする。


――電車の振動に合わせて、二人の距離が寄ったり離れたりする。

たったそれだけ……。それだけなのにだ。何故か正道はもどかしさを覚えーー


『何処か気分が優れない』


イラついているわけではない。ただ、何というか。変わってしまうことに、この瞬間だけは、何処か恐ろしく感じて……。

 このまま時が止まってくれればいいのにということさえ思った。


 事実、聖華は成長している。それは妹としてでもあり人間としてでもあり女としてでもあり……。そんな現実に、正道自身何処か感じてはいけないものを感じた気がしたのっだ。最愛の妹が憎たらしい。いや、流石にそこまで質が悪いものではないが何処か劣卑を感じてやまないのだ。

 彼女が明るく夜を見守る街頭だとしたら、自分はその光に群がる害虫と同類ではないのだろうか?実際、自分自身には静かではあるが、しかし、不釣り合いなほどの酷い悍ましささえ感じるのだ。


 このままーーこのままでいたい。

 このまま時が止まってしまえばいいのにーー



 『さいたま新都心、さいたま新都――』


 開く扉の音が、耳の奥深くで響き、正道の暗い景色のなかでは、騒音が際立っていて、扉が開く音、車内アナウンス、その他の騒音と――そして自分荒れる息。

 そんな思いはふと、車内アナウンスにかき消され、また、人の多さにも正道は、そのことからはどうにか離れられそうだった。

 そこからは、何となく、意識の端っこにいるだけで特に何かしてくるなんてことはなかった。ただ、そこにいるということは少なからず何らかの思いを抱いているということになる。だから、耐えた。ただただ耐えた、それに意識の主導権を握らせないよう必死に、今までの妹への聖華への愛情を注ぎ続けた。ある時は、自分が先導して全上映時間の券を取り、またある時は、聖華の行きたがっていたレストランに連れて行ったり。

 本当、己の中では常に必死だった。

 何かを遠ざけようとそれしか考えることはできなかった。でもーー無理だった。今更ながら、それは、避けようとしても避けきれない運命のようなものだった。

 そうなのだ。それが現実なのだ。


 まともに生きるのを辞めた自分に対して、常に真面目に頑張ってきた妹。


 同じなわけがないのだ。彼女は彼女なのだ。

 正道は、それまで行ってきた、負の記憶を血の染まる両手で漁った。何よりも許しがたかったのが、こんなにも素晴らしい妹に自分という汚点が出来ていたということとーー何よりも彼女の事を心の底から愛していたという事だった。最低だな……。表で流すわけにもいかなかったので、正道はフッと笑うしかなかった。

 何が優劣だ、今まで堕ちてきた相応の代償じゃないか。もうそれは、天からの罰に等しかった。

 しかし、それでも尚、妹に、最愛の人に対して抱く嫉妬の念がなくなることなんて無くてーー


 「なあ」


 もう、最後の上映だからかお客は正道と聖華の二人しか居なかった。


 「どうして、俺は……」


 多分の話だけど、もし周りに人が居たって全然話していただろう。それほど、正道にはごく自然に出てきた、無意識な彼女への拙い言葉だった。


 「お前が嫌いなんだ」

 「え?」


 何を言ってんだ俺……。

 そんな風に正道は心の中で落胆する。自分自身何をやってるのかわからず、直後にハッとする。しかし、一度口にしてしまったらもう、それは遅くて。口をわなわなと震わせる。ビビってんのか……? 俺。何を言っていいのか彼自身、迷った。それは言うべきか言わないべきかという普通のYESかNOの二択ではない。膨大に湧き上がる何者かに投げかける罵倒に似た何かで、憎たらしい訳でも嫌いなわけでもない。それをずっと否定したかった。


 「俺は……」


 今更ながらそれに気付いた。今更だ。

 正道自身に正道のことなんてわかるはずもないのだから。正道が今どんな酷い醜態を晒しているのか、どんな酷い、顔をしてしまっているのか、今更ながらそれに気付いた。

 自分が憎かった。そして膨れ上がる憎悪はやがて、他人へと転嫁する。責任に似たその重く、目には見えない、自分にもその他人にもいつから背負ってるか、どれだけ膨大なのか、どれだけ自分に負担がかかるかすら分からない、心から生まれる毒の、罪の重さを独りでに抱え込むのだ。


 真面目な奴というのは殆どが馬鹿である。

 馬鹿は投げ出す。人間みなしもがある程度の馬鹿であるのだから、馬鹿ではない人間などいないのだ。人間の受けた感情というものは心というものは一度闇を抱えるとそれは水を吸ったスポンジの様なものなのだ。ある程度の水しか吸えない。吸って吸って、吐き出すことなんてできない。誰かが握ってくれなければ、溜まった水を吐き出すことなんてできない。馬鹿であればあるほど、スポンジに水を貯めたままでいるのだ。汚水も海水も色んなものを飲み込んで、スポンジとして栄誉あるかと思えば、卑下され上にいるのはきれいな奴ばかりがいる。じゃあ、今まで自分のやってきたことは何だったのか? 


そんなの正道が一番問いたい事実だった。一番の張本人が言いたい事だった。


 それなら心はコップだ。

 いっぱいになれば他へ転嫁する。そうだ。そうなのだ。人間っていうのはコップなのだ。コップに似た何かだ。じゃあもうなんて呼べばいいのだろうか?答えはすぐに出た。それは理科室でよく見たビーカーだ。小学生の頃、理科の実験でろ紙を使った実験をした。今更ながらそれを今の心情と都合よく結びつく。人間は勝手だ。だから、溜まった水を吐き出せず、苦しなってどこかへ移そうと思っても移せずにいると何もできないのだ。限界を迎え、他の人に無遠慮にそれを注ぐ、嫌な顔をされようが罵倒されようが敬遠されようが、その器が空っぽになるまで他人に流し続ける。

 その結果がどうだろうか? 我に返れば途端に、恥に心が押しつぶされそうになる。『そうです僕は自分勝手です。』というレッテルを貼られて生きていく。それが嫌で、自分の事は棚に上げ、被害者面をしながら他人に助けを乞いながら尚も生き続ける。こんなにも暴慢で傲慢で怠惰な大罪人がいていいのか? 只今それを解いても意味がないのは明らかだった。意味がない。そんなの説明しなくたって、直感でわかる。こんな屑を、こんなダメな人間に味方する奴なんていないからだ。

 そして、それに懲りて、今度は意識的に今度は注がれる側に回るのだ。そして、出来上がったのが、悲劇のヒロインで尚且つ偽善者を装った。一番この世にいるべきではない人種なのだ。人間は勝手だ。こんな人間、いていいはずがない。ここまで言った。ここまで言えるものなのだ。そして、そんなのなった自分が一番知っている。


 嗚呼、繰り返している。何回も何回も繰り返して、その間をグルグルと走り回っているだけなのだ。立ち止まれば道が見えるもの立ち止まるのを恐れて、走るだけ。ただ、そこに留まっているだけ。ある意味立ち止まっているがそういうことじゃないんだ。



 言うことを聞かない。

嗚呼、己自身にようやく気付いた。



 ようやくだ。ようやくだった。

 だから、こんなにもひねくれた人間になったのかと。初めて理解した。しかし、感情の濁流は止まらなかった。流れない。渇いた涙腺が震える。そして熱くなる。にもかかわらず、涙なんてものが出るなんて事は無い。嘆く心の中で、震える。嗚呼。言葉にならない安堵とそれに似た、だけども真逆の存在である、名のない感情との混沌とした濁流だ。


 嗚呼、嗚呼、嗚呼……。


 感嘆の後につく感情を自分は知らないし、多分誰もわからないだろう。自分が自分自身の感情が分からないのなら、多分どんな言葉を用いようとも誰にも伝わらないだろう。人間の意志なんてそんなものなんだから。


 「お兄ちゃん」


 ふと、頭にポンと温もりが置かれた。それはもう突然なことで、悲観に暮れ、落胆している正道にとってそれは、考えもしなかった出来事でその声に、暴走しかけた思考が止まって、代わりに彼女の顔を彼は見ていた。それは、その時の空白と称すべきぽっかりと空いた時間は、確かに、落ち着きを与えてくれた。そして、彼は、なんとも言えない、複雑という複雑に顔を歪め、泣きそうになりながら必死に、彼女と面向かって堪える。瞳に涙を溜め込んで必死に……必死に流さないようにと、彼は、言葉にならないそれは何というべきかーー多分、人は、必死に己に残そうと我慢する中で零れ落ちるようなその叫び声を感嘆と呼ぶのだろう。少なくとも聖華は、極限にまで抑えたその悲しみと苦しみを目の前にして、そう思った。

 だから言った。


 「大丈夫」

 「大丈夫……?」

 「うん」


 その言葉に、呆気にとられる正道だったが、途端に憤りを感じた。大丈夫? なにを言ってるのかと。そんなの自分が悪いだなんて知っている、なら自分を責めるのがーー


 「――自分を責めることの何が悪いんだよ」

 「ダメだよ、自分を責めないで」


 その言葉は、普段発せられるような何の気なしに口から紡がれるものではない口調だったからむしろ、正道の神経を逆なでした。途端に、頭に置かれた温もりを鷲塚む。自分でも何が何だか分からない錯乱状態だった……。だから、彼女に対しても無神経でいられた。いつも考えていることなんか考えず、ただ憎悪に満ちたその感情を全てその手に集中させ、ただ叫ばないでいるだけに必死だった。


その瞬間だけ、好意なんて感情は存在しないものであった。


今存在するのは、「自分」というものだけだった。


でも、その「自分」だけの感情の世界も、一つのか細い声で、ふと我に戻るのだ。


彼女のそのか細い声に、痛みを訴える苦痛に満ちた表情。それだけで、どれだけ自身を責め上げる材料が生まれたか。悪いのは、自分だった。その瞬間初めてこの世で一番愛する彼女を傷つけてしまったことを悟るのだ……。なんてことをしてしまったのか……。最低だった。すべてを暴力に捧げてしまったことを酷く後悔し、現実の正道はどうかというとただ。自分の行動が信じられず狼狽えるだけ……。

正道は、小さく「ごめん」と告げ、彼女の隣の席へ着こうとした。これも一種の現実逃避だった……。隣の席へ着けばさっきと同じだ。さっきと同じ光景が流れるのだ。今日のようなもう取り返しのつかない日……。そう、初めて喫煙飲酒した時もそうだった。父親を殴った翌日、今しようとしている現実逃避をし、朝食の席に着いたとき家族の皆は、自分から無言で遠ざかって行った。今でも、その記憶が頭に染み付いて止まない。それはそうだ。あれから何度も取り返しのつかないことをしてしまったときはこうして何事もなかったように、元に戻るのだ……。いいんだそれで……それでいいんだーー


――しかし、その場を離れようとする正道の腕を誰かが力強く握り、正道の現実逃避を静止した。


その握る力はお世辞にも正道に言わせたらそこまで、強いといえるものではなかった。だがしかし、その小さな握力に何処か恐ろしさを覚えた。

何で? とも思った。どうしてこんなことをするんだ! とも思った。しかし、それは、総じてそれじゃあ何の解決にもならないからだった。恐る恐る、正道は、その中で素直に立ち止まり、彼女に頭を下げた。


「これで、許して貰えるなんて思ってもいない。ただ、これが今の俺にできるーー」

「頭を下げないの」


 本当に何故か分からなかった。ただ、彼女は俺の両頬を両手で一杯に包んで、そして、優しく、呆れて、でも喜んでという風な表情で正道の顔をぐしゃぐしゃと揉み解した。


 「顔が怖くなってる」

 「……」


 思いもよらない言葉に、正道は言葉に詰まる。なんて返すべきなのかさっぱり、分からなかった。どうするべきなのかも、彼自身は分からなくなってしまった。頭を下げるなって、じゃあどうすればいいんだ……? それまでの思考が困惑で染まる。


 「自分を責めないで?」


 その言葉に正道は、困った顔をする。さっきは余裕を持てずその言葉に激昂したが、いまは、何となく落ち着いて、その言葉を受け止められる……ような気がしたが、そこまで俺は紳士にはなれなかったみたいで、どうしてもその言葉を否定したくてたまらなかった。

 困惑の表情で正道は答える。


 「責めないでって言ったって、無理だ。俺は悪いことをしたんだ」

 「うん、確かに悪いことはしたと思うよ」

 「ほら……だからーー」

 「でもね」


 正道の言葉を聖華は遮る。


 「自分を責めたら、それこそお兄ちゃんは一人になっちゃうんだよ?」

 「ひとり?」


 何を言われているのか、何を正されているのか分からなかった……。でも、1秒にも満たない自問自答がすぐに答えを導き出している時点でそれは明白な事実であり、最初から言われなくても、考えなくとも分かっていた事実であるのだ。

 それは、言わずとも知れた事実で、失ってしまったもののすべてに共通することだった。

 ――頼る相手が居ない。それが、今まで失ってきてしまった原因であった。誰にも頼ることすらなかった、誰にも頼ろうとはしなかった。だって、怖かったんだ……。またあの時見たいに虐められるんんじゃないか……いや、裏切られるのかと思ううとぞっとする。だから、今まで、一人でやってきた。だから取り返しのつかない失敗だって何度も繰り返した。

 嗚呼、独りか。

 そう、暗闇にぽつんと立つ彼は、そう、誰に言い聞かせるわけでもなく、強いて言うなら自分に納得させるため……でもない、理由なんて存在しなかった。ただ俺は……。納得するつもりも、それを機に何か変わろうとも思えなかった。でも、それを暗闇に立つ俺は言っている。ああそうだ、やっとわかった、多分自虐なのか。

 軽くそう思った途端、とってつもない悲しみという波にのまれ、途端に息ができなくなる気がした。気がしただけなので、息はできる。でも、呼吸は過剰なまでにか繰り返しており、言ってしまえば、過呼吸のようなものであった。初めてなので怖かった、だけど、その恐怖も、すべて、その自虐に身を委ねた所為で全てそっちに注がれている気がした。

 どうしようもない。どうにもできない。感情の濁流が止まらない。そんな中だから、彼は改めて、再び理解するのだ。だから俺はこうなるのが嫌で――逃げていたのか。


 「お兄ちゃん」

 「……せいか……」


 濁流の所為で、彼の顔はいくらかやつれて、彼女の呼びかけに返事する元気など、残っていなかった。映画も気が付けば、ラストシーンだった。もう一日中映画漬けだったから、次のシーンも当然予想がつく、円盤なんて、買わなくていいって程だ。

 ただ、なんだったっけ……最後の台詞。


確か……。


『たまには休憩も大事ですよ』


その台詞だった。何故か、そのセリフが以前のものとは若干際立っていたのはそれが隣にいる彼女自身もその台詞に声を重ねていたからだ。


『いつも走ってばっかりじゃ疲れちゃうもん』


「それに、一人だけじゃ、休めるものも休めないよ」


『逃げるのはだめだけど』


『休憩なら、逃げたことにはなりませんから』


「一歩ずつで良いから、まずは歩く速度をおとしてから」


『ゆっくり休んで、走れるようになったらまた、走ればいいんですよ』


「お兄ちゃん」


『だから、自分に限界が来たからって』


「閉ざして」


『自分だけの問題にしてふさぎ込まないでください』


『妹からのお願いです』


『貴方を世界で一番愛していますから』


『だから、どうか』


『どうか自分の事を逃げるだけの最低な人間だなんて』


『自分を嫌いにならないでください』


「お兄ちゃん」


『愛していますから』


 決して、彼女の方を向くことはなかった。ただ、その付け足された告白のシーンが本物かどうかなんて、確認する気力はもうないし、彼女に素直に答えてあげることもできなさそうだった。


 ツンデレ属性の男子なんて、需要が無い。


 まったく自分にも困ったものだった。

 何故か画面は見れない……。だが、もう映画なんてどうでもよかった。

 画面にはいっぱいに抱きしめるシーンが写っている。その画面を見ながら正道は泣いていた。感動の涙ではなく彼女からの言葉にだ。彼女の言葉に泣いたのだ……。

 嬉しかった。嬉しかったのだ。彼女が、妹が、聖華が――それ以上でもそれ以下でもない。ただ、嬉しかった……。


 上映が終わり、照明に劇場は照らされ、祭りの後のような静寂が身を包む。まるで、現実に引き戻されるような感覚を味わうこと、七回目だが、未だに慣れることはなかった。お客が俺と、聖華だけなので、その虚無感は余計に身にずっしりとのしかかるものだった。

 これで、映画は終わり、だが、まだその虚無感を受け入れることはできずにいた。映画の余韻の所為か、いやこれは違う。まだ、瞳が湿っている。立つと無性にそれが零れ落ちそうで、まだ、座って居たくて……まだ、落ち着くには早かった……。


それから、涙をぬぐい切ると、少し泣き痕の残ったヤンキーができあがる。いつも通り聖華にそれをからかわれ、正道がそれに少し荒っぽくでも、丁寧に言い返す。


ホールから出ると、辺りは、真っ暗であった。時刻は、八時。腹も減った。だから、繋がっているショッピングモールに足を運び、一階にあるハンバーグ屋さんで夕食を取った。これが、本当に美味で、石窯で焼いているということもあり、ふっくらとしていて柔らかくそして、甘い。ご飯もお替り自由だったので、好きなだけ、お替りさせてもらった。何より、ハンバーグがおいしかったので、もう一つ頼んでしまった。おいしさに、思わず、笑みがこぼれる。

そして、レストランに居座ること約一時間、二人は家路についた。


帰路の途中。ニューシャトルの中でも奇跡的に、二人きりだった。そんな中で彼女は問いかける。


「ねえお兄ちゃん」

「なんだ」

「お兄ちゃん、あの時、私の事嫌いって言ったよね」

「あれは……悪かった」


正道自身それは、一時の感情でしかなかったから、改めて自身の愚行に反省する。そんな彼の姿に、聖華はただ、聞くだけ。逆に咎めてこない彼女に正道は何処か不安を覚えて焦りながらも、それに答える。


「ただ……。なんていうか、妬ましかったんだと思う。自分が逃げてきたツケが回ってきたんだっておもって、ただただ妬んでいたんだと思う」

「そっか……」


彼女の返事は、正道からしてみれば。素気ないというか、まるで愛想を尽かされたような口調で、ますます、自責に拍車がかかる。だが、しかし、返ってきた言葉は意外なもので。


「じゃあ、こっからだね」

「え?」


その言葉に、正道は呆気にとられ、聖華はいつも通り、彼女らしい笑みを浮かべて言う。


「今から、逃げなければいい。単純でしょ?」

「……そうだな」


ただ、今の正道には、そういうことしかできなったが。ただ、何となく納得できたから、彼もまた笑って言う。


「……これからだな」


 

時刻は只今、九時二十分。残暑の面影も去って、冬が顔を出してきたこの瞬間、九月は終わりを告げ、十月へと時は流れる。


※※※※※


「旅行に行こうと思う」

「え!どこに!」

「行き先はお前が決めろ、行きたいとこに連れてってやる」


十月が始まって、間もない土曜日のデート中に、正道は聖華にそう告げる。しかし、当の本人はというと、まったく理解できていない様子で、正道は重いため息を吐きながら、妹に五冊の旅行パンフレットを渡して、もう一度反応を見ることにした。


「沖縄……北海道、京都、大阪、長崎?」

「一応、そこらへんにあったパンフレットを持ってきた。行き先自体はお前に任せるから、それ以外でもいい」

「え!私が決めていいの!やったー!」


そういって、パフェのクリームを口につけながら、彼女は眼を輝かせ、わくわくとした手つきで、パンフレットに手を伸ばし、弾んだ声で選んでいた。


「もう、十月だし紅葉が見ごろだよね~。やっぱり、ご飯の美味しい北海道もいいけど、大阪も捨てがたいなあ。でも、京都もいいかも」

「べつに、そこから選べってわけじゃない。まあ、京都と大阪なら隣同士だし、二つっていう選択肢もある」

「迷う~。あ、お兄ちゃんもう時間だ」

「そうか、ならさようならだな」

「アリーデヴェルチ。さよナランチャ」


そう言って、彼女は喫茶店から姿を消してしまった。まあ、彼女には彼女なりの予定があるのは事実だ。しかし、予定を詰めすぎなのではないだろうか? 彼女が、このデートから途中離脱してしまったのは、友達のとの予定があるからとの事。ならば、自分との時間なんて、また別の日にすればいいのに、彼女は頑なにそれを拒否するのだから困ったものだった。もう、秋ということもあり、服装にも変化が訪れる季節だが、やはり、妹のコーディネートは完璧だ。滅茶苦茶にかわいい。ほんと可愛い以外の言葉が出ない。残念な点は、その姿をシャッターに収められないということ……。まあ仕方ない。そろそろ会計に――


ふと、目が合った。それは、彼女だったから……。


「あら、お久しぶりね」

「……席を一緒にするんじゃねえよばばあ」

「あら、お姉さんって呼びなさい」

「……うるせえよ」


 本当に彼女と出会ったのは、偶然だった。


 「……悪いな、最近顔出せてなくて」

 「いいのよ全然。まあ、少し寂しかったのは事実だけど、他のことに必死になれている証拠よ。おばちゃん、まっちゃんが本気になれることを見つけられて嬉しいわ」

 「……必死、か。まあ、頑張ってるっちゃ頑張ってるな。俺なりに」


 目の前で、微笑むその女性は、まだ若く美しくて、彼女の言うような「おばさん」なんて言葉とは、無縁な容姿をしている。そんな彼女が話している姿を見ると、気を許し安らいでいるのがすぐに分かるほど、その落ち着いた雰囲気といい、その温かい笑みといい全てがいつも通りの彼女だったのだ。しかしそれまでは全然違っていた。自分に気づくまでほんの少しタイムラグがあって、だからだろうすぐに切り替わったわけではないのだが……。余裕もなさそうで、やつれていた、いつも通りの元気がない彼女の跡がまだ少し、残っていたのだ。正道自身からしたら、彼女の容姿なんて見るに見かねないもので……。彼女と相席になったのも、心の底では安堵する事実であった。


 「最近どうなんだよ……。店の方は」

 「変わらないわよ。あと少ししたら店をたたむ予定よ」

 「……だろうな」

 「タバコは?」

 「辞めた」

 「お酒は?」

 「辞めた」

 「……良かった」


 彼女は、心底安堵したかのように、一層温かみが増したかのように感じた。


 「じゃあ、寂しくなるな」

 「……」

 「ん?なんだこれ」


 突然無言で差し出された白く四つに折られた白い紙に正道は、戸惑いながらそれを受け取り、中を覗く。が、書かれてあるのは何処かの住所と誰かの電話番号とメールアドレスだった。まあ、しかし、その相手ぐらい、正道は当然見当がついていた。しかし、知っていた中でも、敢えて正道は聞いた。


 「……誰のなんだ?」

 「……私の個人情報」

 「……そうか」

 「そうよ、寂しいのは嫌いだし……。会えなくなるのは嫌だから」

 「一人の女がこんな青臭い餓鬼に家なんか教えちゃダメだと思うんだけど」

 「あら、でも私は今まで、どんな男にも電話番号すら教えなかったわよ」

 「そりゃ不運な男達だな」


 その紙をじっと見つめてる中、彼女は、いつの間にか頼んでいたカフェモカを飲み干して、席を立つと「これが大人の告白よ」「返事、待ってるから」なんていいながら。自分の伝票も一緒に持ってかれてしまい、彼女が会計を済ませこちらに控えめに手を振り、この店を出て行ったことを確認すると、言葉通りの落胆を大袈裟に態度に示した。気づけば、顔は熱く、一瞬、想像したりもする。が、しかし、考えることを止めた。罪悪感で死にそうになるから。


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