太一くん
太一くんと手を繋いで向かうのは、誰もいない太一くんの家。両親は共働きで、太一くんより先に出て、遅く帰ってくるらしい。学校帰りに訪れたことは何度もある。でも朝から行くのは初めてだ。
学校へ行く義務と、太一くんのお願いを聞く義務と、どちらがより大切なことなのか。私には分からなかった。それくらい、私には太一くんが大切だった。
学校を無断で休んだら親に連絡が行くだろうし、何より私は学校へ行く義務を背負って生きていて、その義務こそが私を私たらしめているはずなのだ。学校へ行くのに理由はない。ただ、行かなければならない。それだけを支えに生きてきたはずだった。それなのに。どうして私は反対方向へ歩き出したのだろう。わからなかった。自分で自分がわからなかった。
「みやちゃん」
太一くんは、その黒く濁りきった瞳で私をまっすぐに見つめた。
「今日が最後だから」
太一くんの匂いがした。
「今日は紅茶、何味にする?」
「んー、桃かな」
太一くんは、家ではいつも紅茶を振る舞ってくれる。太一くんの匂いに包まれ、ベッドに腰掛けそれを飲むと、私はついうとうとして、そのまま眠ってしまう。太一くんは両親が帰宅する前に優しく起こしてくれるので、そのまま帰宅する。
私はその危うさに気付いていないわけじゃない。でも、気づいたら大切な何かが壊れてしまう気がする。だから私は眠るだけ。昼寝をして、自分の家に帰るだけ。
「あったかい」
桃の紅茶は今日もほろ苦く、私は眠りに落ちていく。
「ん…」
私は寝ぼけているだけ。そう言い聞かせても、打ち消すことのできない現実。自分の身体のいちばん奥で、太一くんの大切なものを包み込んでいる。この感覚はきっと初めてではないのだろう。太一くんの動きが、私の内側から伝わってくる。
「さよ…好きだよ…」
独り言のような太一くんの囁き。あふれだすあたたかな愛の残骸を、私は素で受け止めていた。このぬくもりを愛と呼んでいいのなら、私は愛で錠をした狭い鳥籠の中で、いつまでも眠っていたかった。
太一くんは、私を着せ替え人形のように丁重に扱った。全てが本当に夢であったかのように、元に戻していく。
瞼を開けるとそこには、心から愛しそうに私を見つめる太一くんがいた。
「私の腕も、太一くんとお揃いにしたい」
私が告げると、太一くんは無言のまま、机の引き出しからカッターナイフを取り出した。それを私の二の腕に軽く押し当てたかと思うと、力を込めてまっすぐに引いた。痛かった。私は生きているんだ、と初めて思った。太一くんは躊躇いもせず、次々と線を引いていく。少しずつ血が滲んで、滴になってきた。二の腕が傷だらけになると、太一くんはごく自然な動きで、私のスカートをたくしあげた。そして、太ももを切りつけた。
「やめて」
咄嗟に声が出た。すると太一くんは切りつけるのをやめ、ベッドの下からぎらぎらと光る手錠を取り出した。
「やめて!」
私は叫んだけれど、声は空しく消えていく。背中の後ろで手錠をされた私はあっという間に世界で一番無防備な女の子になった。いや、本当はこの家に初めてあがって、桃の紅茶を飲んだその日から、ずっとそうだったのかもしれない。
太一くんは私の上半身に馬乗りになって、太ももを切ったり、血の滴る傷を舐めたりしていた。金属製の冷たい手錠は私の手首にきつく食い込み、太一くんの意志さえ感じるほどだった。私は涙を流しながら、天井を見つめていた。その時間は永遠にも感じられた。その一方で、私のいちばん深いところが疼いていることを否定できなかった。
「小夜のこと、ずっとこうしたかったんだ」
私は泣きながらも、もうやめてほしいとは言えなかった。私がずっと探し求めていて、それでも実態を掴めずにいた歪んだ愛の形を、見つけてしまったのだ。太一くんには、最初から分かっていたのかもしれない。
「もしもし、私、永原中学校で2年B組の担任をしております、神田と申します。星宮沙夜さんのお母様でいらっしゃいますか?」
「学校?いま忙しいので、またあとでかけてくださる?」
電話はぷつりと切れた。
そういえば、今日は私の誕生日だった。