空の彼方で。
――アキトが『秋風の車輪』を発ってから二ヶ月が経過した。
僅か二ヶ月だというのに、アキトは己の身に起きた劇的なまでの変化に打ちひしがれていた。
まず最初に、ほとんど疲労を感じなくなった。自己強化をせずとも、かなりの距離を走り抜けることが出来るようになったくらいだ。
次に、怪我はすぐに治るようになった。怪我を負った次の瞬間には、傷がみるみるうちに塞がっていく。
同じだ。幾度となく傷を与えたというのに、ことごとく再生していった竜王と。
外見上はなにも変化は起きていない。たった二ヶ月だ。それでも二ヶ月だ。
アイナやソラに会いたい。家族に会いたい。募る想いを堪えながらアキトは旅を続ける。
山を越え、海を渡り、荒野を駆け抜け。
砂漠を越え、森を進み、凍土を抜けた。
およそ三年の歳月を経て、アキトは其処に至った。
――かつて幻想で見た光景。
天空に浮かぶ廃墟の中で、アキトは彼と邂逅した。
「……おやおや。手がかりもなしに此処を訪れることが出来るとは。さすがは次世代の竜王といったところかな?」
闇色の男性。けれど彼は人に似ているだけであり人ではない。
人を超え、かつて人を造った存在。闇色の髪を掻き上げながら、純白のタキシードを整える。
深い紺色の瞳がアキトを見つめる。
その者は、アダム。
竜王と、そしてイブと並ぶ、アルスーンによって造られた原初の存在。
アダムに促されるままに、アキトは廃墟の中に置かれている椅子に腰掛ける。
「当てはあった。思い返してみれば当たり前だ。俺は一度、此処と同じ光景を見たことがあるのだから」
「ほう?」
「オリンポス山だ。あそこの天使がいた場所は、此処と酷似している。だからあそこへもう一度訪れ、天使に直接問いただした」
「なるほどねぇ。あの子は私たちに従うように造られている。竜王である君に従うのは当然か」
「俺の目的はわかっているんだろう?」
「もちろん。なんだって私は神だからね」
アダムは柔和な微笑みを浮かべている。彼からは一切の敵意を感じない。
竜王になる運命から逃れる方法。再び人として生きることを望んでいるアキトにとって、アダムとの接触以上に有効な手立てはない。
「教えてくれ。俺はどうすれば人間に戻れる」
「戻りたいのかい? 竜王となれば永遠の時を生きられる。圧倒的な力を得ることが出来る。古龍たちは全て従う。なにも不満はないと思うが――」
「永遠の命なんていらない。圧倒的な力なんていらない。古龍たちなんていらない。
俺が欲しいのは、愛する家族と生きていく時間だ……!」
「……なるほどねぇ。イブから話は聞いていたけど、随分と、まぁ」
何処からか取り出したシルクハットを深く被り、アダムと椅子に腰掛ける。
困ったような表情を見せている。でも、何処か嬉しそうな表情をしている。
「竜王の責務から逃れる方法は、ある」
「本当か!?」
「落ち着きな、人間」
食いついたアキトをアダムは手で制す。シルクハットを投げ捨て、アキトを品定めするかのように全身をくまなく見つめる。
「竜王の役割は『世界の監視』さ。君のように古龍を討ち、世界のバランスを崩す要因を排除するために在る――んだけど、まあウロボロスも私欲に走ったしね」
アダムの言葉に、アキトは竜王の最後の言葉を思い出す。
『古龍を討ち、余を討った貴様であれば、世界を支える七の柱。ファフニール、ヒュドラーを初めとした古龍を殺せることが証明された。守人である余を殺したことこそが、その証拠である』
竜王はまるで――アキトがそうなることを望んでいた。
飽きたと何度も叫び、土となって消えた。
「本来でウロボロスは君を殺すか支配下に置き、世界を保たねばならなかった。だが彼女はその役目を放棄し、君にその責務を押しつけた」
アダムの瞳がアキトの右腕に向けられる。三年の月日と共に、痣はまずます大きくなっていた。
「私としても予想外な案件でね。だから新しい竜王を造ることにした。新しい竜王が完成したら、君をその責務から解放しよう」
「出来るのか!?」
「私を誰だと思っているんだい。――しかし、条件がある」
そこでアダムの表情が厳しくなった。困ったような、複雑な表情だ。
アキトはアダムの言葉を待つ。
どのような条件であっても、竜王となる未来を回避して、家族の下に帰れるのであれば。
「新たな竜王の創造には、およそ十日掛かる」
「十日? 随分短いんだ――」
「『この世界』でね」
「……どういう、ことだ」
アダムの意味深な言葉に、アキトは思わず問いかけた。
やれやれとため息を吐いて、アダムは疲れたように椅子に身体を預けた。
「この空間は君の世界とは隔絶されていてね。時間軸がまるで違う。
この空間での十日間は――君の世界で、短くても、百年」
「――!」
「君の家族は到底待てない。君が人としてあの世界に帰れば、君を知る者は誰もいない」
立ち上がったアダムはアキトに背を向けて歩き出す。天空を見上げながら、アキトにもう一つの選択肢を提示する。
「竜王となっても、君が君でいられるようにすることも出来る。それならば一日――十年で君は帰れる。世界の監視の役目も、私が呼び掛けた時だけ動いてくれればいい。どうだい? それで妥協は――」
「っ……」
「できない、だろうね」
アキトは何よりも人に戻ることを優先している。人として生きて、人として死ぬことを望んでいる。
竜王となって、不老不死の存在になることは避けたいのだろう。
「好きに選ぶといい。此処の時間は無限とも言える。十日を過ごし君を知らない世界に帰るでも良い。竜王として人の世を過ごしてもいい。
だが、君が選べる選択はどちらかしかない」
アダムは嘆息しながらごろりと寝転がった。天空の世界に魔力が満ち、上空に漆黒の太陽が浮かび上がる。
新たな竜王を創り出す、アダムの創造魔法だ。
アキトには選べない。選ぶことなど出来るわけがない。
家族の下に人として帰る選択肢は、今のアキトには不可能だから。
「はぁー。イブにも困ったものだ。あの子も創造魔法を使えたくせに、転生者にあげてしまうとは」
「……使えたとしたら、どうなるんだ?」
「もし、だけどね。誰かが私の創造魔法を手伝ってくれれば、新たな竜王の作成は一気に進む。十日も掛からない――いや、もっと早く完成するだろうねえ」
何度目かのアダムのため息。アダムにとってイブの行動自体が予想外だったのだろう。
イブは転生者に創造魔法を譲ってしまった。
――その相手は、間違いなく。
空を見上げ、何処までも広がる青い空を掴もうと手を伸ばす。
まるで自分の居場所を教えるかのように。ありったけの魔力を込めて、アキトは右手を掲げる。
気付くはずだと、信じて。
――最愛の娘を、アキトは待つ。




