零式の代償
彼女は彼方より此方に在りて。此処ではあり、此処ではない場所から現れる。
いつからそこにいたのかは誰もわからない。すでにそこにいたと言われても、信じることは出来ない。
アキトが呼び掛け、聞こえてきた返答。刹那の間にヒュドラーを守るように現れた女性に、アキトもナユタも愕然とした表情を浮かべている。
「竜王、ウロボロス」
「おや。余の名前を覚えたのか。名乗ったつもりはないが――まあ、この世界にいくつも伝承が残っている。恐らくエルフあたりから教えられたのだろう」
絢爛豪華な純白のドレスは竜王自身の金の髪をよく映えさせる。褐色の肌もまた、白のドレスがお互いを引き立てる。
金の瞳がアキトを貫く。アキトの双眸が竜王を睨め付ける。
両者の間に流れる空気。ずっと相手を求め続けてきたような、永遠の別離からの再会に歓喜するような、不穏な空気。
ナユタは一人、置いて行かれたような状況に戸惑っている。
声を掛けようにも声が出てこない。絞りだそうとしても声は出ない。
「ナユタ」
「あ、ああ!」
アキトは竜王と対峙したまま、後ろにいたナユタに声を掛ける。
その落ち着いた声色がナユタを逆に不安にさせる。どう見てもこの状況では出てこない優しい声色に、ナユタは思わず震えてしまう。
「防衛線の人間たちを全員引かせてくれ。ヒュドラーの脅威は去った。もう撤退して良いと」
「だ、だが――」
「いいから行くんだ。お前のおかげでヒュドラーもなんなく倒すことが出来た」
アキトが一歩を踏み出すと、竜王もまた一歩を踏み出す。
一歩、二歩、三歩、四歩。
五歩目にて、両者の距離は限りなく近づいた。
二人にはもう、目の前にいる存在しか見えていない。
「行けナユタ」
大切な家族への言伝を頼もうとしたが、必要ないと判断した。
死ぬつもりはない。竜王を下し、勝利を収めることしか考えていないから。
「退いておくれヒュドラー。目覚めさせて悪かったね」
竜王の言葉に従い、残されたヒュドラーの首は竜王同様気付けば姿を消していた。
何処に消えたのかは、アキトにはもう関係ない。考えるだけ無駄なことなのだ。
「英雄よ。一つ問いたいことがある」
「なんだ竜王。一つだけなら答えてやろう」
「お前の親は、どんな人間だった?」
「親などいない。気付けば育ての親と暮らしていた」
遠い記憶を引っ張り出せば、アキトの世界にはいつの間にかシスターがいた。
二年が経って、コハクと出会った。それから三年が経って、アイナと出会った。
大小様々な出会いと別れを繰り返すアキトの人生の中で、孤独であった時間は竜王に屈指逃げ出した三年間だけだ。
「なるほどな。いやよくわかった。わかったわかった。合点がいった」
どこか納得したような竜王だが、アキトは興味を示さない。問いただすこともしない。
そんなことはこれからの戦いに必要ないから。
一式の限界時間は残り少ない。語り合っている間にもカウントは進み、終了すればアキトはろくに動けなくなる。
かといって焦る素振りも見せていない。
竜王ウロボロスには、自己強化・一式を用いても傷一つ与えられないことを知っているから。
「……俺は部外者のようだな」
悔しそうに歯噛みしてナユタは防衛線目指して走り出す。アキトの言葉に従うのだろう。
それでいい。去りゆくナユタを二人は見届ける。その姿が見えなくなるまでは静寂が保たれる。
ナユタが消える。いつしかヒュドラーの残骸が消えていた。
互いに振り向いて距離を取る。十歩の距離を離したところで振り返り、アキトはエクスカリバーを構え、竜王は構えず対峙する。
この戦いの果てに、勝者は何を得るのだろうか。
否、この戦いの越えて得るものなど一切ナシ。
あるとすれば、それはただの自己満足。
英雄アキト・アカツキは強敵を越えた栄誉を。
竜王ウロボロスは、渇いた感情を潤すために。
「竜王よ。俺は今日此処で、お前を越える」
「やってみるがいい英雄よ。余を殺せるか? 余を満たせるか? 人のままでは決して越えられないことくらい、共和国の戦いで身に染みているだろう!」
「ああそうだ。人のままではお前を越えられない。人の限界では、お前に傷を付けることすら叶わない」
「ならばどうする、英雄よ!」
「人として、人のままで。人を越えるだけよッ!!!」
アキトは人を越える。けれどそれは、人を辞める訳ではない。
矛盾した考えなのかもしれない。
でもアキトの中にしっかりと刻まれたアイナの言葉は、アキトを奮い立たせ、その領域に踏み込むことを決意させる。
「自己強化・零式――」
アキト・アカツキが思いついた自己強化・零式は、端的に言えば『人の限界』をどう越えるかについて突き詰めた魔法である。
人で在る以上、人の限界に囚われる。その限界は視野を狭めるだけだと結論づけたアキトは、とんでもない方法でその限界を破壊した。
魔法を作り上げる工程の中で魔法に詳しかったコハクが無理だと断言した。
魔法を作り上げる工程の中で武芸に秀でたアイナが止めた方がいいと進言した。
魔法を組み上げる中で――アキトは一度、死にかけたことがある。
危険であることは百も承知。けれどもいつか必要になると思って、理論だけは完成させた。
それは――。
「なんだい。なにも変わってないじゃない、か!」
零式の発動を見届けた以上、竜王が待つ必要はない。
一式のように荒々しいオーラも、なにか特別な魔法を使うわけでもなく。
アキトはじっくりと、迫る竜王を見据えていた。
竜王の爪が自分の胸を貫いたところで――大きく口元を歪ませた。
「越えろ、人間を。越えろ、竜の王をっ!」
胸を貫かれた。その程度。
違和感を覚えた竜王が空いた手で肩ごと切り落とした。その程度。
抵抗しないアキトに対して抱いた違和感が不気味な感化に切り替わりながらも、竜王は攻撃の手を止めない。
攻撃すればするほど――竜王は、アキトの零式が不味いモノだと、直感が確信に変わっていく。
「――何故死なない?」
「殺してみろよ」
胸が貫かれた? 傷はもうない。
肩が切り落とされた? 五体は満足でエクスカリバーは振り上げられている。
首を折られた? 臓器を壊された? 身体中を貫かれた?
そんな傷はもうない。
「お前、まさか――」
「お前を越えると、言っただろうッ!」
そこで初めて、竜王の表情が驚愕色に染まった。
与えた傷が存在しない。落とした部位が何故かある現実に、感じた手応えを確かめながら――アキトが振るった一撃が、竜王の肌を、切り裂いた。
遠く離れた『秋風の車輪』で、ソラは不安げな表情で空を見上げていた。
アイナは祈るように手を合わせ、確かに感じたアキトの魔力に不安げに顔を上げた。
「兄さん、使ったみたいですね」
「……大丈夫よ。アキトは戻ってくるわ」
「戻ってきますよ。ええ。コハクだってわかってます。戻ってくるだけなら」
二人がどんな会話をしているかは、ソラはわからない。それがアキトのことであるのはわかるけど、コハクの言葉だけが上手く理解出来ない。
「自己強化・零式は単純な原理です。壊れたモノはより強くなって修復される。次はもう、壊れないために」
「零式は使用者から死すら奪う。修復してしまう。
いくら傷ついても、いくら死んでも。その前よりも強く、固く、修復されます。
でも、人の心は死の恐怖に勝ることなど出来ません。死に迫る痛みに、人の心は耐えられない。
零式を使えば、いつか、きっと。
――兄さんの心が、壊れる」




