アイナ、決意の夜
「……はぁ」
「兄さんが出発してからちょうど三百回目のため息ですね」
「え?」
客もまばらになり、閉店の準備を始めた『秋風の車輪』でアイナはため息を吐く。
それをめざとく指摘するのがコハクだ。アキトが不在の間、シロの世話をアイナと交代で任されたためにこうして『秋風の車輪』を訪れていたのだ。
露骨に落ち込んでいるアイナをジト目で睨みながら、コハクは忙しさを増していく閉店作業に追われていく。
「ご、ごめんねコハク。すぐ手伝うから」
「今のアイナ姉さんじゃ戦力にならないですから、ゆっくりそこでサボっててください」
「でも」
「いいから」
「……はい」
明らかにコハクの機嫌が悪い。呆けてしまったのは事実だが、そこまでコハクの機嫌を損ねてしまったのだろうかとアイナは自問自答する。答えはすぐには出てこないままコハクはキッチンの奥に引っ込んでしまい、ホール側は静寂が訪れる。
アイナのため息の原因はいわずもがな、アキトのことだ。
もちろん大事なソラの事もあるが、それ以上にアキトのことが心配なのだ。
アキトは大丈夫だと、必ず帰ると約束した。
それでもアイナは不安なのだ。
九年前、古龍ファフニールとの戦いの果てにただ一言「ゴメン」とだけ言い残して冒険者としての夢すらも捨ててしまったアキトが忘れられないから。
「……いつまで俯いてるんですか」
「え?」
「片付け終わりましたし、スタッフの皆さんもあがりました」
「……ごめん」
「そうですね。お説教です」
「……怒ってる?」
「ブチギレです」
テーブルに顔を突っ伏しているアイナに水を出したコハクが向かい合うように座る。スタッフは全員帰宅し、食堂内にはアイナとコハクしか残されていない。
ギルド側も営業を終えたのだろう。照明は落とされミカたち受付の気配もない。
顔を上げたアイナに、コハクは追い打ちをかける。
「いくら兄さんがいないからって露骨に落ち込みすぎです」
「あ、あああああアキトは関係ないでしょ!?」
「そうですか。兄さんは関係ない。そう言うんですね?」
照れ隠しに出た言葉にコハクが反応する。表情は笑顔だが笑っていない。数多くのクエストをこなしてきたアイナでさえ怯んでしまうほどの圧力だ。
「あ、う……」
「兄さんのこと好きなくせに照れて否定するの、いい加減めんどくさいです」
「めんどっ……!?」
「ええ面倒です。なんでさっさと告白して押し倒さないんですかヘタレ姉さん」
「ヘタレっ!?」
コハクは自分が思った以上にあふれ出る言葉を抑えることはしない。
アキトとアイナのやり取りを傍で見続けて十六年経っているのだ。
二人の距離を見て、感じて、どんな気持ちでいたのだろうか。
「兄さんのこと、好きなんですよね」
「うっ……………は、い」
顔を真っ赤にしながらアイナは自分の気持ちを認める。
「好きよ。ええ好きよ。大好きよ。愛してるわよ。私はアキトのことが大好きよ。ええ。撫でて欲しいしキスもしたいしそれ以上のことだってしたいわよ!」
「知ってますよそのくらい。アイナ姉さんが獣人特有の発情を気合いで抑え込んでいるのだって知ってるくらいですから」
「なんで知ってるのよ!?」
「同じ人を好きになったんだから、気付くに決まってます」
「…………あ」
コハクの告白も同然な言葉にアイナは言葉に詰まってしまう。今までアイナがアキトへの想いを言葉にしなかった理由として、羞恥の感情と同様に、コハクのアキトへの想いに気付いていたからだ。
出会った時からアキトにべったりだったコハクは、アイナにとっても妹同然に育った。ずっとアキトの背中に隠れていたコハクを引っ張りだしたのはアイナであるし、アキトと共に冒険者になることを決めたのもアイナだった。
ずっとコハクを見てきたから、コハクがずっと誰かを見ていることくらいわかっていた。
「コハクは兄さんのことが大好きです。この気持ちはハッキリ言ってアイナ姉さんに負けてるとは思ってません」
「でも」とコハクは言葉を一旦止めた。瞳から溢れた雫にアイナが気付いた。
「兄さんは、アイナ姉さんのことが好きだから。コハクに勝ち目はないんです」
――アイナはアキトのように自分の気持ちに気付かないわけではない。向き合わないで逃げているだけだ。
だから、ほんのりとでもアキトから向けられている無意識の好意にだって気付いている。
気付いているけど、目を逸らしている。
ぽろぽろと涙を零すコハクにアイナは何も出来ない。
だってコハクからすればアイナは恋敵なのだ。ずっとアキトの傍にいたのはコハクなのに、横から割って入ったアイナがアキトを奪ったようなものなのだから。
鼻を啜りながら、コハクは涙を拭う。
「コハクは十年以上前からアイナのことを認めているんです。アイナだったら兄さんに相応しいって」
「……でも、私は」
「なんでそんなに臆病なんですか。Sランク一歩手前に届いたアイナが、何を怖がっているんですか!」
アキトからの好意に気付いてて、自分の気持ちもわかってて。それでもアイナが一歩を踏み出さない理由。
「……私は、アキトと肩を並べて戦えないし」
アキトは誰よりも早くSランクへ到達した。追いつけない。
Sランクになれるクエストを受けれるようになった時には、アキトはファフニールと戦い、冒険者をやめてしまった。
追いかけても、追いかけても、いくら追いかけてもアキトには追いつけなかった。
劣る自分ではアキトに相応しくないと、アイナは考えている。
「はぁ~~~~~~~~~!? 魔道書の角でその兄さんを惑わす獣耳ぶったたきますよ!?」
「なんでよ!?」
「兄さんが求めてる人が『戦友』じゃないってことくらいわかってますよね!? あの鈍感唐変木は誰よりも『自分を心から受け止めてくれる人』を求めてるんですよ!!!」
「……あっ」
「この馬鹿ヘタレにゃんこ!!!」
「コハクそんなに口悪くなかったわよね!?」
「誰の所為だと思ってやがりますか!!!」
「……ごめん」
アイナの謝罪の言葉に憤慨していたコハクもようやく大人しくなる。
乱れた呼吸を整えながら、水を一口飲む。
「コハクはアイナが大好きです。そんな大好きなアイナだから、兄さんを任せたいんですよ。その意味くらいは理解できますよね、『姉さん』」
「……うん」
アイナがアキトとコハクと出会っていくつかの季節が巡り、いつしかコハクはアイナを慕い『姉さん』と呼ぶようになった。
アイナはコハクが年上の自分を認めてくれたからだと思って舞い上がったくらいだが、コハクからは違ったのだ。
その時にはもう、コハクはアキトへの想いをアイナに託していたのだ。
アキトと結ばれて欲しいと、そしていつかきちんと呼ぶための練習も兼ねて、姉さん、と。
気付けばアイナの瞳からも大粒の涙が溢れてきていた。必死に誤魔化そうと涙を拭うアイナだが、コハクにはもうばれている。
「頑張る。私、頑張るから。頑張って、アキトに告白するから……っ」
「はい。頑張ってください、姉さん」
コハクも精一杯優しく微笑んで、いつか義姉となるアイナを応援する。泣き止んだアイナは鼻を赤くしながら、立ち上がってようやく固まった決意を口にする。
「アキトが帰ってきたら『なんでも言うことを聞いてくれる』って言ってたし、デートして告白するわ!」
「…………え。なんですかその約束」
アキトとアイナの約束はもちろんコハクにとって初耳だ。約束自体は問題ないし、アキトとデートするにはアイナにとって都合のいい約束になるだろう。
「姉さん、『なんでも』だからって変なことはしちゃダメですよ? ソラちゃんに悪影響与えるかもですし」
「あんたは私をなんだと思ってるのよ!?」
「兄さんのことが大好きな発情獣人」
「気合いで抑え込めれるわよ!!!」
「どーだかー」
コハクもアイナの前では砕けた口調で話す。それは二人がもう仲間や友人以上の関係であるから。
コハクにとって、アイナはもう家族なのだ。アキトもソラも、コハクにとっては大切な家族なのだ。
だから、家族には幸せになって欲しい。幸せな家族を見ることが、コハクの幸せだから。




